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1章 神様が作った実験場
ずれ 10
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黒い蝶。胸を縛られたような、内側から食われるような、計り知れない恐怖がカンダタを襲う。
「食われる」
思考を乱す悪臭と抗えない恐怖がそれを言わせた。
「虫が苦手なの?」
青褪めた顔色はそう解釈されてもおかしくなかった。小馬鹿にする瑠璃にはこの深刻さを理解できないのだ。
「危険、だ」
「あれが?そもそも、来たことないんじゃなかった?」
「ない。でもわかる」
「何がどう危ないのよ」
危険と裏付ける詳細を瑠璃は求めたが、これは表現しようがない。畏怖なのかそれとも嫌悪なのか。頭の中で様々な言葉や感情がせめぎ合い、まともな発言もできない。
「ひどい顔ね」
どんな顔をしていたのか、どんな言葉を吐いたのか自身でさえ理解していなかった。
不意に一羽の蝶が腕にとまり、カンダタは暴言を吐き捨てながら払う。蝶はすでにいなくなり、はためく異物感が袖の中に残る。腕から背中へと移動しているような不快さが伝わる。
それを取り除こうと袖に手を入れ、襟に手を入れても異物は掴めず、見つからない。
「蝶が、入った」
「服の中に?」
「腕の中にだ!」
蝶が留まった腕が疼く。蝶は服の下に入ったのではない。腕の中に入ったのだ。早く取り出さないと。
人差し指と中指、そして親指の爪をたて、関節の辺りから流血するほど深く強く食い込ませると手首まで切り開く。爪の刃は切れ味が悪く、切るというよりは皮膚を爪で剥ぐ。梃子摺りながらも不細工な赤筋を手首まで伸ばす。赤筋から溢れる液体が熱い。
瑠璃が叫ぶように名を呼ぶ。カンダタは構わず、腕の中にいるはずの蝶を探す。筋肉の筋を乱し、邪魔な神経を抜く。しかし、蝶はいない。
それどころか上空にいた蝶たちがカンダタを食らおうと舞い降りて、腕の赤筋に集る。
来るな来るな!俺の体はやらない!
叫んだ声は言葉になっていなかった。瑠璃は繰り返して警告を出すも彼には届かなかった。
「血に反応しているのよ!」
はっきりと聞こえたそれに我に返る。
幾多の蝶はカンダタを中心に飛び交わして瑠璃の姿を隠す。いや、この場合は逆になる。カンダタが蝶によって隠れているのだ。
血を求める蝶の数は増えていき、振り払おうとしても羽虫に囲まれては、そこから脱出するのも不可能だった。暴れれば暴れるほどカンダタの姿は覆われていく。誰かがカンダタを呼ぶ。瑠璃だろうか。とても遠くから聞こえた。
暴れ回った身体は均衡を失い、惨めな姿のまま、地面に転ぶ。盛大に落ちた身体は赤い水飛沫を上げて、宙に舞った水玉はそのままカンダタに落ちる。
洞窟は沈黙を取り戻し、鈍っていたカンダタの体感は目を覚ます。
身体が痛い。特に自身で傷つけた右腕がひどく、痛かった。
抉った痕がある腕には肉の筋が乱れ、骨が覗き、神経が引き千切れている。あれほどいた蝶は一羽もいなくなり、カンダタの周りにもだれもいなくなっていた。
「瑠璃?」
起き上がり、彼女を呼ぶも、声に反応する者はいなかった。
奇行に驚いて逃げてしまったのだろうか。単独行動は危険だ。探しに行かなければ。
瑠璃を呼びながら宛もなく探した。闇と血の沼しかない空間にカンダタの呼び声だけが響く。
歩き回っているうちにある違和感があった。歩くほどに時間が経つほどに背景が狭まっていくような感覚に陥る。
それは気のせいではない。広くて地平線ぐらいしか見えていなかったのに壁が見えていた。明らかに空間が狭まっている。戻るか迷ったが、進むことにする。進むしかない。いつでも、カンダタの選択はそれしか残されていない。
近づく天井に目配せしながら脚を動かす。
天井は手が届く位置にまで低くなり、壁は2人ぐらいなら通れる細さだ。洞窟より回廊と例えたほうが合う。
回廊を満たす血の沼は変わりなく、照らす光はない。振り返ればそこにあったはずの回廊はコンクリートの壁で塞がれ、いよいよ戻る術もなくなった。
「食われる」
思考を乱す悪臭と抗えない恐怖がそれを言わせた。
「虫が苦手なの?」
青褪めた顔色はそう解釈されてもおかしくなかった。小馬鹿にする瑠璃にはこの深刻さを理解できないのだ。
「危険、だ」
「あれが?そもそも、来たことないんじゃなかった?」
「ない。でもわかる」
「何がどう危ないのよ」
危険と裏付ける詳細を瑠璃は求めたが、これは表現しようがない。畏怖なのかそれとも嫌悪なのか。頭の中で様々な言葉や感情がせめぎ合い、まともな発言もできない。
「ひどい顔ね」
どんな顔をしていたのか、どんな言葉を吐いたのか自身でさえ理解していなかった。
不意に一羽の蝶が腕にとまり、カンダタは暴言を吐き捨てながら払う。蝶はすでにいなくなり、はためく異物感が袖の中に残る。腕から背中へと移動しているような不快さが伝わる。
それを取り除こうと袖に手を入れ、襟に手を入れても異物は掴めず、見つからない。
「蝶が、入った」
「服の中に?」
「腕の中にだ!」
蝶が留まった腕が疼く。蝶は服の下に入ったのではない。腕の中に入ったのだ。早く取り出さないと。
人差し指と中指、そして親指の爪をたて、関節の辺りから流血するほど深く強く食い込ませると手首まで切り開く。爪の刃は切れ味が悪く、切るというよりは皮膚を爪で剥ぐ。梃子摺りながらも不細工な赤筋を手首まで伸ばす。赤筋から溢れる液体が熱い。
瑠璃が叫ぶように名を呼ぶ。カンダタは構わず、腕の中にいるはずの蝶を探す。筋肉の筋を乱し、邪魔な神経を抜く。しかし、蝶はいない。
それどころか上空にいた蝶たちがカンダタを食らおうと舞い降りて、腕の赤筋に集る。
来るな来るな!俺の体はやらない!
叫んだ声は言葉になっていなかった。瑠璃は繰り返して警告を出すも彼には届かなかった。
「血に反応しているのよ!」
はっきりと聞こえたそれに我に返る。
幾多の蝶はカンダタを中心に飛び交わして瑠璃の姿を隠す。いや、この場合は逆になる。カンダタが蝶によって隠れているのだ。
血を求める蝶の数は増えていき、振り払おうとしても羽虫に囲まれては、そこから脱出するのも不可能だった。暴れれば暴れるほどカンダタの姿は覆われていく。誰かがカンダタを呼ぶ。瑠璃だろうか。とても遠くから聞こえた。
暴れ回った身体は均衡を失い、惨めな姿のまま、地面に転ぶ。盛大に落ちた身体は赤い水飛沫を上げて、宙に舞った水玉はそのままカンダタに落ちる。
洞窟は沈黙を取り戻し、鈍っていたカンダタの体感は目を覚ます。
身体が痛い。特に自身で傷つけた右腕がひどく、痛かった。
抉った痕がある腕には肉の筋が乱れ、骨が覗き、神経が引き千切れている。あれほどいた蝶は一羽もいなくなり、カンダタの周りにもだれもいなくなっていた。
「瑠璃?」
起き上がり、彼女を呼ぶも、声に反応する者はいなかった。
奇行に驚いて逃げてしまったのだろうか。単独行動は危険だ。探しに行かなければ。
瑠璃を呼びながら宛もなく探した。闇と血の沼しかない空間にカンダタの呼び声だけが響く。
歩き回っているうちにある違和感があった。歩くほどに時間が経つほどに背景が狭まっていくような感覚に陥る。
それは気のせいではない。広くて地平線ぐらいしか見えていなかったのに壁が見えていた。明らかに空間が狭まっている。戻るか迷ったが、進むことにする。進むしかない。いつでも、カンダタの選択はそれしか残されていない。
近づく天井に目配せしながら脚を動かす。
天井は手が届く位置にまで低くなり、壁は2人ぐらいなら通れる細さだ。洞窟より回廊と例えたほうが合う。
回廊を満たす血の沼は変わりなく、照らす光はない。振り返ればそこにあったはずの回廊はコンクリートの壁で塞がれ、いよいよ戻る術もなくなった。
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