糸と蜘蛛

犬若丸

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1章 神様が作った実験場

ずれ 11

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  道中、回廊の隅に丸まった虫の卵があった。それは間違いなく、天井に吊るされていたもので、それにも例外なく数羽の蝶が集る。
   近くなってはっきりとその形を把握する。虫の卵は人の形をしていた。しかも、カンダタと同じ体格。
   無意識に右腕を庇う。またおかしくなってしまうのではないのかと危惧する。できるだけ、黒い物体と離れて通る。
   何事もなく過ぎると胸を撫で下ろすも、その安心はすぐになくなった。全く同じものが回廊に点在しており、天井から吊るされ、回廊の隅に転がっていた。
  落ち着き始めていた心臓は強く脈打つ。恐怖で混乱しそうな身体に大丈夫と胸を撫で、呼吸を整える。そして、覚悟を決めて一歩を踏み込む。
   蝶は血に反応していると、瑠璃が言っていたが、目の前の黒一色の蝶は傷を負ったカンダタには無関心だった。
   ゆっくりと慎重に人の形をしている何かを避けて通る。一呼吸でさえ、神経をすり潰していた。
  なのに、カンダタの腹は本能に忠実だった。よりにも寄って人形の前で間抜けな空腹音が鳴る。
   心臓は止まり、脚も止まる。蝶たちはその音にも関心がなかった。だからと言って安心できるはずもなく荒くなった呼吸は腹の中の空白を誤魔化す。
   いくら空気を吸っても、時間を置いても空腹は空腹のまま、カンダタの平静は取り戻せなかった。
 空腹、疲弊、恐怖を満たした脳内に囁いたのは甘い誘惑の匂いだった。
  その囁きは目前の吊るされた人形から漂っていた。普段なら甘い誘惑に負けたりはしない。人形の正体を知るのを恐ろしいからだ。
  本能も理性も危険だと叫んでいるのにこの飢えには敵わない。自分ではない、自分の物でもない欲望が曝け出す。
   震える指先で黒い包帯に触れる。ほんの少し、爪の先程しか接触していないのに集まっていた蝶たちは刹那に羽ばたいて一羽の残らず過ぎ去っていく。目の前にいた蝶たちだけでなく、別の所に群がっていた蝶たちもあの一瞬で回廊の奥へと飛んで行く。静寂の回廊にはカンダタと謎の人形が残された。
  驚き、身体を硬直させてしまったがあの甘い匂いはまだカンダタを誘う。
  その誘惑に魅かれるまま、黒い一本の包帯を引き千切る。隠されていた正体が、包帯に巻かれていた赤い目が露わになった。自分自身と目が合う。
  見間違えるはずがなく、似ているわけでもない。カンダタそのものが人形の正体だった。彼を誘っていた甘い香りは自身の血から漂っていた。
  首には虫に刺された跡があり、赤く点々となって密集している。その穴の一つ一つから少量の血を流し、その小川は床へと滴り落ちる。
  「腹が空いたんだろ」
  逆さになった自分は意識があった。死人の目はカンダタを見つめて話す。カンダタは現状を飲み込めず、吊るされた自分の声も耳に入らなかった。
  「ここは家畜小屋だ。食いもんには困らないぜ」
  死人の目のまま口だけが笑う。すると小さな笑い声の重なりが背後から聞こえてくる。振り返れば何人ものカンダタが吊るされ  横たわり丸まって、同じ人間が同じ赤い目を光らせて笑い合う。小さな含み笑いから高らかな笑いまで、谺は広がる。その谺はまともなカンダタに「お前だけが異常者」だと面白おかしく笑う。
  気が付けば、走っていた。自分が自分を笑うなんて、自分が自分を食うなんてありえない。
  これは悪夢だ。呆けて寝ているのだ。夢よ、覚めてくれ。
   願いが強ければ強いほど走り続けた。悪夢の出口が見つかるまで走る。哀訴した願いは尽きず、燃料となるはずだった。底なしの恐怖を抱えているはずなのに脱出を乞うていたはずなのにカンダタの脚は蝋を失くし、悲願の灯火は緩やかに消えていく。
   血の沼に膝をついたカンダタは身体から力が湧かないのだと悟る。それは制御の利かない飢えから来るものだった。
   恋焦がれる乾き、暴力的な空腹。それらが求めているのはなぜか血肉だった。
   拒んで走って行ったのに今では後悔でしかない。食えばよかったと飲めばよかったとカンダタ自身を苦しめる。
 貪欲となっていた嗅覚はまたあの香りを捉えた。
   膝がついて動かないはずの身体はその香りを辿る。
  行きたくない。
  自分自身に訴えた。そこにあるものは言わなくてもわかる。
  狂ってしまいそうな恐怖があった。いや、もう、狂っているのかもしれない。
  なぜなら、口角はあがり、目は倫理を失った獣そのものとなっていたからだ。
  匂いのもとはやはりカンダタだった。
  縦に寝転ぶカンダタは笑いもせず、喋りもしない。そっくりな人形かと思われたが、手首を触れてみると人らしい体温と脈動が本物の自分だと実感させた。
  体温と脈動が意味するものとか、自分が自分を食うとか、考えていられない。飢えた怪物が餌を前にして口論などできるはずがないのだ。
  この喉が潤せるなら、この胃袋が満たされるのなら人か鬼かなんてどうでもいい。
  持ち上げたその右手を口へ運ぶ。まずは親指から。雑食性の平らな歯は親指の骨を砕き肉の筋を千切る。
  口の中に芳香で甘美な味がしたのは確かだ。それを味わえなかったのはカンダタの親指に激痛が走ったからだ。
  いつ、どのようにして、そうなったのか、全く見当がつかないのだが気が付けば天地が逆転し、何者かの手によって赤い床に倒され、右の親指を切断されていた。
  受けていた暴行はカンダタが行ったのと同じものだ。親指を噛み千切ったのは自分じゃない自分だった。
   そんなはずない。そこにいたのは俺のはず、俺が食う側だった。
   困惑している間にもう一人の彼は残った指を食らおうと口を開く。
  混乱している場合ではない。右手を強く振り解き、身体を起こしながら右の人差し指と中指で両の目を潰す。もう一人の彼は潰された視界と熱い瞼に身体を仰け反る。
  自分から自分への暴行は止められず、自身の体に跨ると生を謳う首の動脈を手で押し潰すように絞める。もう一人の彼は抗い、絞めてくる両手を引きはがそうと腕、手を引っ掻く。それでも止まらない。
  息の根を止めなければ。食われてしまう前に。早く早く食わなければ。この穴を埋めなければ。
  抵抗していた両手は次第に力を失くし、引っ掻いていた手を下ろす。
  舌は甘美を求めて涎が溢れて垂れる。人の肉でも自分の肉でも関係ない。このどうしようもない飢えを満たされるのなら、なんでもいい。
  カンダタは喉元へと、歯と顎で食らおうとする。
  甘美な血肉を求めた口内は意外にも空気を噛んだ。血も筋ばかりの肉もなく、歯と歯が噛みあった音だけが鳴った。
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