糸と蜘蛛

犬若丸

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1章 神様が作った実験場

ずれ 12

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  カンダタが殺したカンダタは忽然と消えた。
  もともと奇妙な出来事が続いていたが、これだけは内から沸騰するねっとりとした不快な感情があった。怒り、怨みといった類のものだ。
  カンダタにあった飢えが別の感情へと変わっていた。獲物を横取りされた怒り、求めていた欲求を満たされなくなった苛立ち。それに似ていた。
  自らの首皮を爪で引っ掻き、腹から込みあげた咆哮は飢えからの渇望であり、落とされた絶望であり、それらは回廊を高く強く虚しく震わせた。
 丸出しの食欲は抑えられず、涎は流れ続け、慰めに指を噛んで舐める。
  そのどこまでも、計り知れない空腹は何に例えられようか。掬えない泉だろうか、海のない砂浜だろうか。
   あぁ、水を掬いたい、海が欲しい。
   空虚を抱えたカンダタはどこへ行こうとしているのか。弱々しく惨めに回廊を歩き回る。動けば空虚が胃の中で波打って左に傾き、右に揺れ、飢えの強さは増していく。
   真っ黒な回廊を歩く。何かを求める。何かだなんて知れている。彼が求めているのは食のみだ。それしかない。それだけがカンダタの欲望だ。
   回廊の一番深い奥から一筋の光がカンダタを照らした。出口だ。
   やっと、この奇妙な地下から脱出できる。達成感か安心感か区別できないがこの光の先に行けば空腹も紛れるだろうか。
   一筋の光へとゆっくりと脚を前へ進ませる。近づくにつれ、あの甘い香りが漂う。
   あるじゃないか。この光の先に。腹を満たすものが、その光の先に。



 どこからともなく響いた雄叫びがあたしにまで届く。
 振り返ってみてもライトが照らすのはコンクリートの柱と血の沼。
 あの鳴き声は鬼のものじゃない。鬼の声は金属的で生き物らしさがない。あの雄叫びは生々しく怒りそのものだった。
 「鬼と血の沼、そして蝶。次は何かしらね」
 隣のハクは牙を剥き出しにして周囲に威嚇を示すけれど、その勇姿が見えないのなら意味がない。
 「あたしの防衛意識がここから出ろって言ってるんだけど」
 カンダタを探し始めてから随分と時間が経過した。いっそのこと出口を探してみるべきだと考える。
 それを言うとハクはあたしに向かって吠えたてて全力で拒否を表す。カンダタを見つけるまでは地下から出るつもりはないらしい。
 「わかってるわよ。そんなに喚かないで。どっちにしろ探すしかないんだから」
 あんなヒステリー男、なんで探さないといけないのよ。
 カンダタが突然、発狂した。一羽の蝶がカンダタに近寄った途端の出来事だった。
 ひどく怯えていたかと思えば、自身の腕を自傷した。度が過ぎるほどに。
  指先を腕に突っ込み、血肉やら筋やらをかきだした。真上の蝶も血の蜜を求めて集まって来るし、カンダタの狂乱は止まらないし、挙句の果てには叫びながら闇の中へ走って行ってしまった。
 あの蝶がカンダタを狂わせたのかしら。でもあたしは平気だし。
 天井に吊るされたミイラを照らして、上空の蝶たちがひらひらと飛び交う。奇妙な話しよね。
 蝶はミイラから流れる少量の蜜を好んでいるようだった。
   蝶好きの田口先生が授業の雑談で言っていたわね。蝶の種の中でモルフォチョウは動物の死骸を好むって。なら、これもそういう類なのかしら。でも、血を好むとは言ってなかった。死骸についた微生物を好むんだっけ?それに、現世でもこんな赤い文様の蝶はいない。蝶男が飼っていたものとは羽の形も違う。
 蝶の羽には幾何学模様があって、輪と短い横線一本が交互に並んである。この蝶も鬼と同じ、地獄の住人かしら。
 また、同じ雄叫びが響く。
 この咆哮は狂気と鬼が合わさったような、とても禍々しい何かのものだ。
 ああ、もう。カンダタはどこに行ったのよ。
 湧いて震える恐怖はカンダタへの理不尽な怒りへと変換させて先に進む。
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