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6章 盤上の外で蜘蛛喰い蝶は笑う
それは薄明のような赤い記憶 5
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「どこにも行かないで?」
清音の色声は恋人にかけるものであるものの瞳孔を開かせた彼女はどこか狂気で満ちている。
「もっとお話ししたいな」
そう言ってカンダタの手首を甘える仕草で握ってくる。その握力は決して可愛くはなかった。
手首の関節を握りる力強さに顔が歪む。痛みから解放されたいと清音の手を離そう握り返して払おうとするが、カンダタの力では清音に敵わない。
「私のケイは優秀でしょ。他の猫とは違う特別の餌をあげてるんだから」
「放してくれ。清音はこんなことをする子じゃないだろ」
「そうよ。私は強い子なの」
会話が成り立っていない。かつての清音を取り戻して欲しいが、難しそうだ。
「逃げようとしても無駄なんだよ」
それでもカンダタの腹のうちを知っているのか逃がさないと掴む握力は増してじりじりと近づいてくる。
「それとも蝶男に勝てるとか思ってる?無理だから、あの人には斬撃も打撃も無効になっちゃうの。ハザマだって
敵いっこない。底辺のカンダタが勝てるわけないでしょ。だったら私たちと一緒になろうよ」
そんなことを言うと清音は手首を引き寄せ、カンダタは対抗できずにお互いの頬が隙間なく触れ合った。
カンダタは反射的に瞑ったが、清音は見開き、丸出しになった眼球は閉じた目蓋に触れる。
「彼の声がカンダタにも聞こえてるはずだよ」
目を閉じれば聞きたくもない清音の声がより鮮明になる。だからといって目蓋を上げることもできない。
「あなたの中で彼の蝶が囁いている。感じるでしょう。黒い羽が体内で待っているのを」
清音に返答しない。足音でケイが近づくのがわかる。
カンダタは痛みに耐え、体内の囁き声に応えず、ただひたすらに待っていた。
「どうして抵抗するの?みんな言ってるよ。気持ちいいって」
「悪いが」
カンダタは口を開く。次に出る言葉を考え、瞬時に答える。
「君は口が臭い」
1日3回歯を磨き、誰一人として言われなかったその一言に清音は深く傷つき、思わずカンダタから手を離すと口を覆う。
咄嗟の嘘を信じてくれたことに感謝し、一心にケイの方へと走り出した。
逃げるカンダタの背中を凝視し、あれが嘘だと察した清音は怒りを露わにすると「ケイ」と叫んだ。
カンダタを捕まえろと言う指示であったが、ケイには清音の怒鳴り声すらも聞こえていなかった。岩山の反対側、尖った岩々が群れとなって集る荒涼の風景をケイは眺めていた。
その岩間の間から津波のような霧の波が静かに溢れて流れてきていたのだ。霧は岩の群れを包み隠し、カンダタたちに迫る。獣の咆哮と誰かの叫び声が聞こえてくる。
「ケイっ!何してるのっ!」
再び呼びかけるとケイは踵を返し走り出す。しかし、向かってくるカンダタを無視して通すぎてしまう。カンダタは霧に向かって走り、ケイは霧から逃げる。
正体不明の霧をケイは危険だと肌で感じた。命令よりも清音の身の安全が大事であった。
迫ってくるものがどういうものか、清音にはわからない。これほど自分に陶酔したケイが命令を無視するほどだ。その判断を信じた方が良いだろうと清音は叫ぶのをやめた。
ケイの本能が霧を恐れるならカンダタは一か八かで霧を選んだ。
このままではカンダタに逃げられてしまうと清音は焦った。
「瑠璃が死んでもいいの?」
咄嗟に出た言葉は効果的だった。カンダタは立ち止まり、振り返る。
清音は片方の口角だけを上げ、いやらしく笑う。それ以上のことは離さず、霧から逃れようとするケイに抱えられた。
「待っているから」
霧に呑まれる寸前、清音が言い残した。聞く耳を持つつもりではなかったが、それだけが脳内で厭に往復していた。
方角を見失いそうな霧の中、カンダタは真っ直ぐに走っていた。
いつの間にか地面が揺れている。走っているせいで気づくのに遅れた。地鳴りは霧の奥から近づいているようだった。
大量の影が白い背景に浮かんでくる。不揃いに並ぶ大勢の人の頭、手足を大きく振っている。地鳴りが出るほどの人数がこちらへと走ってきていた。
一度は躊躇い、止まるものの今更洞窟には戻れない。
周囲には突出して尖った岩がいくつもある。その岩の影に入り、身体を丸める。
これほどの大量の囚人が逃げている。何から逃げているのか考えなくてもいい。
今、カンダタが試されているのは知略や身体能力ではなく運だ。囚人を追う何かが小さくなって丸まったカンダタを見つけないことを願う。
地鳴りがおさまり、静寂が戻ってきた。これはカンダタが恐れている静寂だ。うるさい心音をなるべく落ち着かせながらカンダタは丸めた背を伸ばし、立ち上がろうとした。
岩の裏から獣の低い唸り声が聞こえてきた。そこで手足を止め、中腰になったまま耳を立てる。
周囲を警戒する唸り声は周囲を探っているようで未だカンダタには気づいていない。
濃霧の中では視界が悪く、頼れるのは自身の鼻だけであり、臭いだけでカンダタを見つけようとしていた。
匂いを辿り、岩を回ってくる。カンダタも地面を踏む鬼の足音に合わせ、なるべく静かに三角錐の岩を回るようにして一歩を踏む。
鬼はそこに餌があると確信していない。ならば、岩を周りを鬼の視界から外れながらこのまま諦めて去っていくまで耐える。
鬼は鉤爪で岩を引っ掻き、わざとらしく音を掻き鳴らす。獲物が鳴き、出てくるのを待つ。
冷静に声を上げず、逃げもせず、その場に留まった。
岩を一周し、カンダタとも一周する。いつ見つかるかわからず、気配を消したまま一周してしまった。
鬼から荒い鼻息が聞こえる。臭いがあるのに獲物がいないのでもどかしいのだろう。
より大きな溜息を吐くと鬼は諦めて岩に背を向け走り去る。
遠くなる足音にやっと安息し、空気を一気に吐き出す。
中腰になった身体を伸ばし、真っ直ぐになった背骨がぽきぽきと鳴った。
それにしてもケイはこの霧を恐れたのだろうか。それとも鬼を恐れたのだろうか。どちらにしてもケイの脅威にはならず、鬼の数も少なかった。
この霧にはまだ秘密があるのか。
カンダタがその場に留まり、考え耽ってしまったのはケイ、清音、鬼と立て続けに出会し、それらから逃げ切ってみせた達成感があったからだ。だから、油断してしまった。
岩もカンダタも覆ってしまう巨大な影が現れ、見上げた頃には遅かった。
粘着の糸を束ねて織ったものがカンダタに降りかかり、包んだ。霧の中にいた巨大な影には8つ光る目玉があった。
清音の色声は恋人にかけるものであるものの瞳孔を開かせた彼女はどこか狂気で満ちている。
「もっとお話ししたいな」
そう言ってカンダタの手首を甘える仕草で握ってくる。その握力は決して可愛くはなかった。
手首の関節を握りる力強さに顔が歪む。痛みから解放されたいと清音の手を離そう握り返して払おうとするが、カンダタの力では清音に敵わない。
「私のケイは優秀でしょ。他の猫とは違う特別の餌をあげてるんだから」
「放してくれ。清音はこんなことをする子じゃないだろ」
「そうよ。私は強い子なの」
会話が成り立っていない。かつての清音を取り戻して欲しいが、難しそうだ。
「逃げようとしても無駄なんだよ」
それでもカンダタの腹のうちを知っているのか逃がさないと掴む握力は増してじりじりと近づいてくる。
「それとも蝶男に勝てるとか思ってる?無理だから、あの人には斬撃も打撃も無効になっちゃうの。ハザマだって
敵いっこない。底辺のカンダタが勝てるわけないでしょ。だったら私たちと一緒になろうよ」
そんなことを言うと清音は手首を引き寄せ、カンダタは対抗できずにお互いの頬が隙間なく触れ合った。
カンダタは反射的に瞑ったが、清音は見開き、丸出しになった眼球は閉じた目蓋に触れる。
「彼の声がカンダタにも聞こえてるはずだよ」
目を閉じれば聞きたくもない清音の声がより鮮明になる。だからといって目蓋を上げることもできない。
「あなたの中で彼の蝶が囁いている。感じるでしょう。黒い羽が体内で待っているのを」
清音に返答しない。足音でケイが近づくのがわかる。
カンダタは痛みに耐え、体内の囁き声に応えず、ただひたすらに待っていた。
「どうして抵抗するの?みんな言ってるよ。気持ちいいって」
「悪いが」
カンダタは口を開く。次に出る言葉を考え、瞬時に答える。
「君は口が臭い」
1日3回歯を磨き、誰一人として言われなかったその一言に清音は深く傷つき、思わずカンダタから手を離すと口を覆う。
咄嗟の嘘を信じてくれたことに感謝し、一心にケイの方へと走り出した。
逃げるカンダタの背中を凝視し、あれが嘘だと察した清音は怒りを露わにすると「ケイ」と叫んだ。
カンダタを捕まえろと言う指示であったが、ケイには清音の怒鳴り声すらも聞こえていなかった。岩山の反対側、尖った岩々が群れとなって集る荒涼の風景をケイは眺めていた。
その岩間の間から津波のような霧の波が静かに溢れて流れてきていたのだ。霧は岩の群れを包み隠し、カンダタたちに迫る。獣の咆哮と誰かの叫び声が聞こえてくる。
「ケイっ!何してるのっ!」
再び呼びかけるとケイは踵を返し走り出す。しかし、向かってくるカンダタを無視して通すぎてしまう。カンダタは霧に向かって走り、ケイは霧から逃げる。
正体不明の霧をケイは危険だと肌で感じた。命令よりも清音の身の安全が大事であった。
迫ってくるものがどういうものか、清音にはわからない。これほど自分に陶酔したケイが命令を無視するほどだ。その判断を信じた方が良いだろうと清音は叫ぶのをやめた。
ケイの本能が霧を恐れるならカンダタは一か八かで霧を選んだ。
このままではカンダタに逃げられてしまうと清音は焦った。
「瑠璃が死んでもいいの?」
咄嗟に出た言葉は効果的だった。カンダタは立ち止まり、振り返る。
清音は片方の口角だけを上げ、いやらしく笑う。それ以上のことは離さず、霧から逃れようとするケイに抱えられた。
「待っているから」
霧に呑まれる寸前、清音が言い残した。聞く耳を持つつもりではなかったが、それだけが脳内で厭に往復していた。
方角を見失いそうな霧の中、カンダタは真っ直ぐに走っていた。
いつの間にか地面が揺れている。走っているせいで気づくのに遅れた。地鳴りは霧の奥から近づいているようだった。
大量の影が白い背景に浮かんでくる。不揃いに並ぶ大勢の人の頭、手足を大きく振っている。地鳴りが出るほどの人数がこちらへと走ってきていた。
一度は躊躇い、止まるものの今更洞窟には戻れない。
周囲には突出して尖った岩がいくつもある。その岩の影に入り、身体を丸める。
これほどの大量の囚人が逃げている。何から逃げているのか考えなくてもいい。
今、カンダタが試されているのは知略や身体能力ではなく運だ。囚人を追う何かが小さくなって丸まったカンダタを見つけないことを願う。
地鳴りがおさまり、静寂が戻ってきた。これはカンダタが恐れている静寂だ。うるさい心音をなるべく落ち着かせながらカンダタは丸めた背を伸ばし、立ち上がろうとした。
岩の裏から獣の低い唸り声が聞こえてきた。そこで手足を止め、中腰になったまま耳を立てる。
周囲を警戒する唸り声は周囲を探っているようで未だカンダタには気づいていない。
濃霧の中では視界が悪く、頼れるのは自身の鼻だけであり、臭いだけでカンダタを見つけようとしていた。
匂いを辿り、岩を回ってくる。カンダタも地面を踏む鬼の足音に合わせ、なるべく静かに三角錐の岩を回るようにして一歩を踏む。
鬼はそこに餌があると確信していない。ならば、岩を周りを鬼の視界から外れながらこのまま諦めて去っていくまで耐える。
鬼は鉤爪で岩を引っ掻き、わざとらしく音を掻き鳴らす。獲物が鳴き、出てくるのを待つ。
冷静に声を上げず、逃げもせず、その場に留まった。
岩を一周し、カンダタとも一周する。いつ見つかるかわからず、気配を消したまま一周してしまった。
鬼から荒い鼻息が聞こえる。臭いがあるのに獲物がいないのでもどかしいのだろう。
より大きな溜息を吐くと鬼は諦めて岩に背を向け走り去る。
遠くなる足音にやっと安息し、空気を一気に吐き出す。
中腰になった身体を伸ばし、真っ直ぐになった背骨がぽきぽきと鳴った。
それにしてもケイはこの霧を恐れたのだろうか。それとも鬼を恐れたのだろうか。どちらにしてもケイの脅威にはならず、鬼の数も少なかった。
この霧にはまだ秘密があるのか。
カンダタがその場に留まり、考え耽ってしまったのはケイ、清音、鬼と立て続けに出会し、それらから逃げ切ってみせた達成感があったからだ。だから、油断してしまった。
岩もカンダタも覆ってしまう巨大な影が現れ、見上げた頃には遅かった。
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