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第五章 別れの予感
決別の宣言
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八月の中旬、いつものように夕食を終えて後片付けを済ませた後、健はなぜかリビングから立ち去らなかった。このところ体調が悪そうで、食事が終わるとすぐに自分の部屋に戻ってしまうことが多かったのに、今日は珍しい。でも、その表情はいつになく深刻で、何かを決意したような強さがあった。
エアコンの効いた部屋に、扇風機の風だけが二人の間を静かに通り過ぎていく。その風が、二人の間の微妙な緊張感をより際立たせているようだった。窓の外からは夜の虫たちの声が聞こえてきて、夏の夜の風情を演出している。その音色が、どこか物悲しく響いている。
ソファに並んで座ってはいるが、以前より明らかに二人の間に距離があった。健が意識的に離れて座っているのが分かる。クッション一個分ほどの距離だが、それがとてつもなく遠く感じられた。
「あの……、直人」
しばらくの沈黙の後、健が喉を詰まらせたような細い声を出した。その声は普段の健からは想像できないほど弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。
「何? どうしたの?」
見るからに具合の悪そうな健の様子を見て、直人は心配になった。健は目をぎゅっと閉じて拳を固く握りしめている。その手は小刻みに震えていて、相当な覚悟を決めているのが分かる。そして一度、大きく深呼吸をしてから言った。
「やっぱり……この関係、終わりにしましょう」
「えっ? 何を?」
直人は頭が真っ白になって、何を言われているのか理解できなかった。まさか健の口からそんな言葉が出てくるとは思っていなかった。
「擬似恋人を……もう、終わりにしようって……」
健の声はか細く震えている。その声には、自分自身を説得するような響きもあった。
直人は息が止まった。告白しようと思っていたのに、それもできないまま、この関係が終わってしまうのか──。まだ何も始まっていないのに、もう終わりだなんて。
「どうして……急に……」
ようやく絞り出した直人の声は、ひどく掠れていた。自分でも驚くほど動揺している。胸の奥が痛くて、呼吸が浅くなっていく。
「もうこれ以上……直人先輩に迷惑をかけるわけにはいかないから……」
そう言った健の目の端が、うっすらと赤く染まっていた。健が直人の前で泣きそうになっているのを見るのは初めてで、胸が締め付けられるような思いがした。
「迷惑なんかじゃない!」
直人はこれまで出したことのない大きな声で叫んだ。自分でもこんな声が出ることに驚くほどだった。普段の穏やかな直人からは想像できないほどの感情の爆発だった。
「僕が健との関係を選んだんだ! 自分で!」
そうだ。確かに最初は健に頼まれたから始めたことだったが、今は違う。自分の意志で、この関係を続けたいと思っている。健がいない生活なんて、もう考えられない。
「でも……でも、この関係は一時的なものだったでしょう? 俺が次に進むことができるための……。だからこれ以上、直人先輩に甘えるわけには……」
「それは……」
直人は何も言い返せなくて、拳をきつく握りしめた。確かに、最初はそういう約束だった。健が元カレを忘れるまでの、一時的な関係。でも今は違う。今は──。
しばらく重苦しい沈黙が続いた。エアコンの音だけが部屋に響いている。その機械的な音が、二人の間の気まずさをより際立たせていた。
直人がその沈黙を破った。
「健……好きな人、できたの?」
直人の声は震えていた。もしかしたら、健には他に好きな人ができたのかもしれない。大学でもバイト先でも、健はモテるタイプだ。きっと素敵な人に出会って、本当の恋愛を始めたいと思っているのだろう。
聞きたくない。健の口から、そんなことを──。
「うん……まあ……そんなところかな」
健ははっきりとした返事をせず、言葉を濁した。直人はそれを肯定と受け取って愕然とした。背中を氷のように冷たいものが流れていく。
やっぱりそうだったのか。健には他に好きな人がいるのだ。だから、この関係を終わりにしたがっている。
部活の先輩の涼太が言っていた『後悔しない選び方』を、直人はできなかったのだ。もっと早く告白していれば、結果は違ったかもしれないのに。
「っていうか……本気になりそうで、怖いんです」
「……本気?」
直人はゆっくりと顔を上げて健を見つめた。健の顔は夕焼けのように真っ赤で、耳の先まで紅潮している。その表情は、恥ずかしさと切なさが入り混じったようなものだった。
「はい。直人先輩のことを……本気で好きになりそうだから」
健の声は今にも消えそうなほど小さい。でも、その言葉は直人の心に強く響いた。
え? 僕のこと?
「それは、最初の約束と違うから……だから、ここで一度区切りをつけたいんです」
「区切り……」
直人は健の言葉を聞いて、胸が激しく高鳴った。健も直人と同じ気持ちだったのだ。好きな人というのは、他の誰でもない、直人のことだった。
しかし健は『それは約束と違う』と言って、その気持ちを否定しようとしている。最初の約束を守ろうとして、自分の気持ちを押し殺そうとしている。
直人はその必要なんてない、自分も健のことが好きだから、と言いたかった。でも喉がカラカラに乾いて、声にならない。言葉が、出てこない。今この瞬間に言わなければいけないのに、なぜか体が動かない。
ただただ、健の赤く染まった横顔を見つめることしかできなかった。健の長い睫毛が、わずかに震えているのが見える。その睫毛に、涙が溜まりそうになっているのも分かった。
エアコンの効いた部屋に、扇風機の風だけが二人の間を静かに通り過ぎていく。その風が、二人の間の微妙な緊張感をより際立たせているようだった。窓の外からは夜の虫たちの声が聞こえてきて、夏の夜の風情を演出している。その音色が、どこか物悲しく響いている。
ソファに並んで座ってはいるが、以前より明らかに二人の間に距離があった。健が意識的に離れて座っているのが分かる。クッション一個分ほどの距離だが、それがとてつもなく遠く感じられた。
「あの……、直人」
しばらくの沈黙の後、健が喉を詰まらせたような細い声を出した。その声は普段の健からは想像できないほど弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。
「何? どうしたの?」
見るからに具合の悪そうな健の様子を見て、直人は心配になった。健は目をぎゅっと閉じて拳を固く握りしめている。その手は小刻みに震えていて、相当な覚悟を決めているのが分かる。そして一度、大きく深呼吸をしてから言った。
「やっぱり……この関係、終わりにしましょう」
「えっ? 何を?」
直人は頭が真っ白になって、何を言われているのか理解できなかった。まさか健の口からそんな言葉が出てくるとは思っていなかった。
「擬似恋人を……もう、終わりにしようって……」
健の声はか細く震えている。その声には、自分自身を説得するような響きもあった。
直人は息が止まった。告白しようと思っていたのに、それもできないまま、この関係が終わってしまうのか──。まだ何も始まっていないのに、もう終わりだなんて。
「どうして……急に……」
ようやく絞り出した直人の声は、ひどく掠れていた。自分でも驚くほど動揺している。胸の奥が痛くて、呼吸が浅くなっていく。
「もうこれ以上……直人先輩に迷惑をかけるわけにはいかないから……」
そう言った健の目の端が、うっすらと赤く染まっていた。健が直人の前で泣きそうになっているのを見るのは初めてで、胸が締め付けられるような思いがした。
「迷惑なんかじゃない!」
直人はこれまで出したことのない大きな声で叫んだ。自分でもこんな声が出ることに驚くほどだった。普段の穏やかな直人からは想像できないほどの感情の爆発だった。
「僕が健との関係を選んだんだ! 自分で!」
そうだ。確かに最初は健に頼まれたから始めたことだったが、今は違う。自分の意志で、この関係を続けたいと思っている。健がいない生活なんて、もう考えられない。
「でも……でも、この関係は一時的なものだったでしょう? 俺が次に進むことができるための……。だからこれ以上、直人先輩に甘えるわけには……」
「それは……」
直人は何も言い返せなくて、拳をきつく握りしめた。確かに、最初はそういう約束だった。健が元カレを忘れるまでの、一時的な関係。でも今は違う。今は──。
しばらく重苦しい沈黙が続いた。エアコンの音だけが部屋に響いている。その機械的な音が、二人の間の気まずさをより際立たせていた。
直人がその沈黙を破った。
「健……好きな人、できたの?」
直人の声は震えていた。もしかしたら、健には他に好きな人ができたのかもしれない。大学でもバイト先でも、健はモテるタイプだ。きっと素敵な人に出会って、本当の恋愛を始めたいと思っているのだろう。
聞きたくない。健の口から、そんなことを──。
「うん……まあ……そんなところかな」
健ははっきりとした返事をせず、言葉を濁した。直人はそれを肯定と受け取って愕然とした。背中を氷のように冷たいものが流れていく。
やっぱりそうだったのか。健には他に好きな人がいるのだ。だから、この関係を終わりにしたがっている。
部活の先輩の涼太が言っていた『後悔しない選び方』を、直人はできなかったのだ。もっと早く告白していれば、結果は違ったかもしれないのに。
「っていうか……本気になりそうで、怖いんです」
「……本気?」
直人はゆっくりと顔を上げて健を見つめた。健の顔は夕焼けのように真っ赤で、耳の先まで紅潮している。その表情は、恥ずかしさと切なさが入り混じったようなものだった。
「はい。直人先輩のことを……本気で好きになりそうだから」
健の声は今にも消えそうなほど小さい。でも、その言葉は直人の心に強く響いた。
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直人は健の言葉を聞いて、胸が激しく高鳴った。健も直人と同じ気持ちだったのだ。好きな人というのは、他の誰でもない、直人のことだった。
しかし健は『それは約束と違う』と言って、その気持ちを否定しようとしている。最初の約束を守ろうとして、自分の気持ちを押し殺そうとしている。
直人はその必要なんてない、自分も健のことが好きだから、と言いたかった。でも喉がカラカラに乾いて、声にならない。言葉が、出てこない。今この瞬間に言わなければいけないのに、なぜか体が動かない。
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