【完結】好きじゃないけど、付き合ってみる?

海野雫

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第八章 新たな日常

愛し合うということ

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 その日、直人はバイトが休みだった。健はバイトに出かけているが、冷蔵庫には健が作り置きしてくれたおかずがいくつもストックされている。健が帰ってくる時間を見計らって、食卓の準備を始めた。

 健のために夕食を準備する──そんな当たり前のことが、どうしてこんなにも幸せなのだろう。一人暮らしの時は、食事なんてコンビニ弁当やゼリーで適当に済ませていた。でも今は違う。健が喜ぶ顔を想像しながら、丁寧に食卓を整える。愛する人のために何かをするということが、こんなにも心を満たしてくれるものだとは知らなかった。

 ちょうど夕飯の準備が整った頃、玄関の鍵が回る音がした。直人はその音を聞くとすぐに玄関へ向かう。帰ってくる健を出迎える瞬間が好きだった。それほど長時間離れていたわけでもないのに、やっと会えるという安堵感で胸がいっぱになる。

 健がいない間、直人は何度も時計を見ていた。健は何をしているだろう、疲れていないだろうか、楽しく過ごしているだろうか──そんなことばかり考えている自分に驚く。これが恋なのだと、今更ながら実感した。

 扉を開けて入ってきた健は、なんとなく元気がないように見えた。普段の健なら「ただいま!」と明るく声をかけてくるのに、今日は肩を落としている。

「おかえり、健。なんか、元気ない?」

 すると健は突然直人に飛びついてきた。直人の胸に顔を埋めて、小さく震えている。健の体温と重みを感じて、直人の心配は一層深くなった。

「どうしたの? 何か嫌なことでもあった?」

 直人は健を抱きしめながら尋ねた。健の髪から石鹸の香りがして、それがいつもより切なく感じられる。

「今日、理不尽なことを言ってくるお客さんがいたんだ……すっごく嫌だった……」

 それだけ言うと、健は直人の胸にさらに強く顔を埋めた。健の声が小さく震えているのがわかる。きっとよほど嫌な思いをしたのだろう。

 直人の胸に怒りがこみ上げてきた。健を傷つけた相手に対する怒り、そして健が辛い思いをしていることへの切なさ。でも同時に、こうして自分を頼ってくれることへの深い喜びもあった。

「そっか。嫌なことがあったんだね」

 直人は健の背中を優しく撫でる。健の背中越しに、心臓の鼓動が伝わってくる。少し早いリズムで打っているそれを感じながら、直人はできるだけ穏やかに健を包み込んだ。

 そして彼のつむじにそっとキスを落とした。健の髪は柔らかくて、子どものような温もりがあった。

「さ、嫌なことは美味しいご飯を食べて忘れよう。って言っても、健が作ってくれたご飯だけど」

 すると健はふっと微笑んで、こくりと頷いた。その笑顔はまだ少し強張っていたが、確実に元気を取り戻しつつあるのがわかった。

 以前の健だったら、こんなふうに甘えてくれなかった。自分の中に嫌なことを押し込めて、明るく振る舞ってやり過ごしていたはずだ。でも付き合ってからは、辛かったことも素直に吐き出してくれるようになった。

 それをぶつけてもらえることが、直人は何より嬉しかった。信頼されている証拠だから。そして、健の支えになれているという実感があるから。

 夕食は健の手作りおかずに、直人が炊いたご飯を合わせた簡素なものだった。でも二人で食べると、どんな料理よりも美味しく感じられる。健の表情も、食事を進めるうちに次第に明るくなっていった。

「ありがとう、直人。迎えに来てくれて」

「迎えに来てって……玄関にいただけだよ」

「でも、嬉しかった。家に帰ったら直人がいるって思うと、仕事中も頑張れたんだ」

 健の言葉に、直人の胸は温かくなった。自分の存在が健の支えになっているという実感が、何よりも嬉しい。

 夕食後、ソファに並んで座って映画を観ることにした。少しでも健の気持ちが和らげばと思ってのことだった。でも本当は、直人自身も健と一緒にいる時間を大切にしたかった。

「健は何か観たい映画ある?」

 健は首を振った。

「特にないかな。直人が選んで」

「じゃあ、ヒューマンドラマでいい?」

 ヒューマンドラマのジャンルを選び、リモコンで映画を探す。重すぎず軽すぎない、心温まる作品を選びたかった。ちょうど観たかった映画があったので再生ボタンを押した。

 映画を観ている間、健は直人の腕を一時も離さなかった。ずっとぴったりとくっついて、頭を直人の肩に預けている。こんな時は健が甘えたいモードに入っている合図だった。

 直人は健の髪を指で軽く梳きながら、映画の内容よりも健の存在に意識を向けていた。健の体温、健の重み、健の息遣い──すべてが愛おしくて、映画の筋書きなどどうでもよくなってしまう。

 時々、健が小さく笑う声が聞こえる。映画の面白いシーンで反応している健を見ると、直人も自然と微笑んでしまう。健の笑顔が見られて、今日の嫌なことも忘れてくれているようで安心した。

 映画の途中で、ふと健を見下ろすと、健も同じタイミングで顔を上げた。目が合った瞬間、お互い何も言わずに自然と唇を寄せ合う。

 キスをすると、健はうっとりとした表情を浮かべた。その表情を見ているだけで、直人の胸は愛情で満たされていく。

「寝室に、いく?」

 そう尋ねると、健は頷いた。今日は直人がたっぷり健のことを愛してあげよう。健が満足するまで。嫌なことを全部忘れられるまで。自分がそうしたいと思うことを、自分で選択できている。

 寝室に移ると、健はいつもより少し積極的だった。きっと直人に甘えたい、慰めてもらいたいという気持ちが強いのだろう。直人はそんな健を受け止めて、優しく愛した。

 健が直人の名前を呼ぶ声が、いつもより切なく響く。健の体が小刻みに震えているのを感じながら、直人は健の全てを包み込むように抱きしめた。

「大丈夫だよ、健。僕がいるから」

 その言葉に、健は安堵したように身を委ねてきた。二人で一つになることで、お互いの心の傷も癒されていく。愛し合うということは、こんなにも深く相手を慰めることができるものなのだと、直人は改めて実感した。


 朝、目を覚ますと、健は直人にまとわりついて熟睡していた。いつもは直人よりも早く起きるのに、今日はとても満足したような表情ですやすやと寝息を立てている。その柔らかな髪を撫でても、びくともしない。

 昨夜、健は達する時に「愛してる」と小さく呟いた。その言葉を思い出すだけで、直人の胸は幸福感で溢れそうになる。言葉に出して愛を伝え合うことの大切さを、二人は少しずつ学んでいた。

 これまで人生なんてつまらないと思っていた。ただ流されて生きていくだけだった。毎日が似たような繰り返しで、特別な出来事など何もない平凡な日々。でも健と付き合い、愛し合うようになって、自分で選ぶことで人生は明るくなるのだと実感している。

 選ぶということの重み。そして選ばれることの喜び。健を選んだ自分、そして健に選ばれた自分──その両方に、深い満足感を覚える。

 まだお互いのことを知らない部分がたくさんある。健は人に気を遣いすぎるところがあり、そのせいでストレスを溜めやすいということも最近知った。きっと昨日のようなことも、これからもあるだろう。

 でも、そんな時に健が直人を頼ってくれることが嬉しい。健の支えになれることが幸せだ。そして直人も、健に支えられている。互いを支え合いながら生きていく──それがどれほど素晴らしいことか、身をもって知ることができた。

 これからもまだ知らなかった一面を発見することになるだろう。健の新しい表情、新しい癖、新しい好み──すべてが発見の連続だ。けれど直人は、健について新しいことを知ることが嬉しくて仕方がなかった。

 知らない健を知ること。知っている健をもっと深く愛すること。そのすべてが、直人が自分で選び取った幸せだった。

 窓の外では、秋の陽射しが穏やかに差し込んでいる。新しい一日の始まり。健と一緒に過ごす、かけがえのない一日。

 直人は健の寝顔をもう一度見つめてから、そっとベッドから抜け出した。今日は自分が朝食を作ろう。健が目を覚ました時、温かい朝食で迎えてあげたい。

 キッチンに立ちながら、直人は小さく微笑んだ。こんな当たり前の幸せを、心から愛おしく思える日が来るなんて、以前の自分には想像もできなかった。

 でも今は確信している。健と過ごすこれからの日々も、きっと発見と成長に満ちているだろう。そして、それらすべてを二人で選び取っていくのだ。

 直人の新しい人生は、まだ始まったばかりだった。
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