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三分の一にはならないと(2)
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「言いましたよね。……私、夜間バッジが回るまでデータは寝かせてくださいって」
しんとしたタイピング音の鳴るオフィスに、尖った声が響く。注目を集めているのは分かるがどうにもならない。
この男の、無駄に謙遜して、実力がないことをいいわけに、言い逃れをするところが大嫌いなのだ。
「なんで先にやっちゃうんですか。……これ、今日またやって、明日にならないと処理が進められないじゃないですか。二日遅延するんですよ?」
「まぁまぁ川瀬くん、そう尖らずに」
リーダーは業務をやっているわけではないから、呑気にそんなことが言えるのだ。
「……もういいです。片岡さんは試験項目203から始めてください。昨日ミスしたのは私がやります」
こうして仕事がどんどん積みあがっていく。ピラミッドのように、終わりが見えない。
うっかり仕事に集中しているとまともにトイレすら行けない。お化粧直しなんてもってのほか。
ビル内だから安価に買える自動販売機でカフェインを注入しているときだった。
「まったくな、三途の花はこれだから困るんだよな」
片岡。違う、この声は……。
給湯室の影に身を隠す。自分の素早さが呪わしかった。
「花っていうか、棘しかねえじゃんあいつ」
あいつ。たかが、プロパーでもない、こうして立派に国立理系の四大を卒業して正社員として就職した私を、半分の給与しか貰っていない、孫請け企業勤めのパートナーさんごときがそれを言う。
「まーまー片岡くんも大変だろうけどさ、いちお、あれで、若手の正社員さまさまなわけだからさ。目を瞑ってやってくださいな。三年以内で辞められるとこっちが困るんだよ」
「鶴橋リーダーは、直接仕事振られないからそんなこと言えるんですよ。やるのは俺。俺なんすよ」
うっかりしていた。鶴橋リーダーと、BPに過ぎない片岡さんが、こんな軽口を叩きあう関係だったとは。
そういえば、いつぞやの飲み会で男たちだけで二次会に行ったとかなんとか……。
「いっくら美人でもあんなつんけんしてたら顔の無駄ですね。まー、せいぜい、頑張りますよ。潰さない程度にね」
「お手柔らかに頼むよ。きみんとこの社長さんは、いいお客さんなんだから」
「そう言って。マージン取られまくって俺の月給家賃レベルなんすよ。どう生活してけばいいんすか」
「会社で借りる寮があるだけましっしょ」がこん、と鶴橋さんがペットボトルを取る音。二度目のがこん。片岡さんのために買ってくれている……自分がこんなにショックを受けていることに驚いていた。
笑いあいながら彼らは夜のオフィスへと戻っていく。私がいることも知らずに。
頑張ってきたつもりだった。
入社して、プログラミングのプの字すら知らない、業界最大手の企業名すら知らないど素人どもと机を突き合わせて懸命に研修を受けた。恋にうつつを抜かすやつらもいたが私は無視した。猛烈に努力した。
なのに。配属されたのは、下流と揶揄される、テストがメインの部署。
テスターに回されるのは高卒の連中ばかりなのに……。
なんのために。なにしに、自分は……。
ろくに努力もしない文系が、人事受けしたからって花形の開発ばりばりの部署に配属されていくのを、砂を噛むような思いで見送った。口には出さなかった。
リケジョは融通が利かないと思われがちだから必死に努力した。
コピーの仕方も、電話対応も、来客対応も、Excelの使い方もソフトウェアの使い方も新規入場者の受け入れも全部そつなく出来るようにした。
「……川瀬さんは、愛想が足らないんだよな。んなこと言うとセクハラか」
配属されて約二年私のことを見てきたはずの上司はそう評価する。
みんなが一日かけてこなすことを自分は一時間で出来るように努力した。仕事の精度も質も、高く、ハイパフォーマンスを意識してきたつもりだった。
それが。二年目で後輩が出来、パートナーさんを教えるようになった辺りから歯車が狂った。
何故、こんな簡単なことが出来ないのか。理解を超えるレベルのひとたちがわんさか入ってきた。
テスト部隊は給与が安い。パートナーさんという、うちの協力企業から、いわゆる派遣社員みたいな立場のかたがたくさん入ってくる。受け入れるのはこっちだ。鶴橋さんと営業が、よし今度こそは! と言うときに限ってスキル不足のメンバーが入ってくる。自己紹介もまともに出来ないパートナーさんが来たときには驚いた。あと、真っ赤なネイルつけてきた女。一ヶ月で辞めたっけな。
そのひとりにはならない。
歯を食いしばって努力してきたつもりだったが、……裏ではあんなふうに言われているのか。
足元の土台が崩れ落ちるような感覚。――それでも、食いしばって、食いしばりまくったけれど、結果、試験項目数千をこなし、無事納品した三日後に、私は通勤途中の電車で、発作を起こした。
「――大丈夫?」
支えに回り、蒼白の私の顔を覗き込むのは、――同期。
日本一のセレブとか揶揄された神宮寺恋生だった。
その透き通った瞳がとても綺麗で空みたいないろをしていた。
しんとしたタイピング音の鳴るオフィスに、尖った声が響く。注目を集めているのは分かるがどうにもならない。
この男の、無駄に謙遜して、実力がないことをいいわけに、言い逃れをするところが大嫌いなのだ。
「なんで先にやっちゃうんですか。……これ、今日またやって、明日にならないと処理が進められないじゃないですか。二日遅延するんですよ?」
「まぁまぁ川瀬くん、そう尖らずに」
リーダーは業務をやっているわけではないから、呑気にそんなことが言えるのだ。
「……もういいです。片岡さんは試験項目203から始めてください。昨日ミスしたのは私がやります」
こうして仕事がどんどん積みあがっていく。ピラミッドのように、終わりが見えない。
うっかり仕事に集中しているとまともにトイレすら行けない。お化粧直しなんてもってのほか。
ビル内だから安価に買える自動販売機でカフェインを注入しているときだった。
「まったくな、三途の花はこれだから困るんだよな」
片岡。違う、この声は……。
給湯室の影に身を隠す。自分の素早さが呪わしかった。
「花っていうか、棘しかねえじゃんあいつ」
あいつ。たかが、プロパーでもない、こうして立派に国立理系の四大を卒業して正社員として就職した私を、半分の給与しか貰っていない、孫請け企業勤めのパートナーさんごときがそれを言う。
「まーまー片岡くんも大変だろうけどさ、いちお、あれで、若手の正社員さまさまなわけだからさ。目を瞑ってやってくださいな。三年以内で辞められるとこっちが困るんだよ」
「鶴橋リーダーは、直接仕事振られないからそんなこと言えるんですよ。やるのは俺。俺なんすよ」
うっかりしていた。鶴橋リーダーと、BPに過ぎない片岡さんが、こんな軽口を叩きあう関係だったとは。
そういえば、いつぞやの飲み会で男たちだけで二次会に行ったとかなんとか……。
「いっくら美人でもあんなつんけんしてたら顔の無駄ですね。まー、せいぜい、頑張りますよ。潰さない程度にね」
「お手柔らかに頼むよ。きみんとこの社長さんは、いいお客さんなんだから」
「そう言って。マージン取られまくって俺の月給家賃レベルなんすよ。どう生活してけばいいんすか」
「会社で借りる寮があるだけましっしょ」がこん、と鶴橋さんがペットボトルを取る音。二度目のがこん。片岡さんのために買ってくれている……自分がこんなにショックを受けていることに驚いていた。
笑いあいながら彼らは夜のオフィスへと戻っていく。私がいることも知らずに。
頑張ってきたつもりだった。
入社して、プログラミングのプの字すら知らない、業界最大手の企業名すら知らないど素人どもと机を突き合わせて懸命に研修を受けた。恋にうつつを抜かすやつらもいたが私は無視した。猛烈に努力した。
なのに。配属されたのは、下流と揶揄される、テストがメインの部署。
テスターに回されるのは高卒の連中ばかりなのに……。
なんのために。なにしに、自分は……。
ろくに努力もしない文系が、人事受けしたからって花形の開発ばりばりの部署に配属されていくのを、砂を噛むような思いで見送った。口には出さなかった。
リケジョは融通が利かないと思われがちだから必死に努力した。
コピーの仕方も、電話対応も、来客対応も、Excelの使い方もソフトウェアの使い方も新規入場者の受け入れも全部そつなく出来るようにした。
「……川瀬さんは、愛想が足らないんだよな。んなこと言うとセクハラか」
配属されて約二年私のことを見てきたはずの上司はそう評価する。
みんなが一日かけてこなすことを自分は一時間で出来るように努力した。仕事の精度も質も、高く、ハイパフォーマンスを意識してきたつもりだった。
それが。二年目で後輩が出来、パートナーさんを教えるようになった辺りから歯車が狂った。
何故、こんな簡単なことが出来ないのか。理解を超えるレベルのひとたちがわんさか入ってきた。
テスト部隊は給与が安い。パートナーさんという、うちの協力企業から、いわゆる派遣社員みたいな立場のかたがたくさん入ってくる。受け入れるのはこっちだ。鶴橋さんと営業が、よし今度こそは! と言うときに限ってスキル不足のメンバーが入ってくる。自己紹介もまともに出来ないパートナーさんが来たときには驚いた。あと、真っ赤なネイルつけてきた女。一ヶ月で辞めたっけな。
そのひとりにはならない。
歯を食いしばって努力してきたつもりだったが、……裏ではあんなふうに言われているのか。
足元の土台が崩れ落ちるような感覚。――それでも、食いしばって、食いしばりまくったけれど、結果、試験項目数千をこなし、無事納品した三日後に、私は通勤途中の電車で、発作を起こした。
「――大丈夫?」
支えに回り、蒼白の私の顔を覗き込むのは、――同期。
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その透き通った瞳がとても綺麗で空みたいないろをしていた。
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