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花、派遣で働く(4)
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「花。どう? 仕事は大丈夫そう?」
話を振られると素直に困る。……なんとなく、伝わっているだろうけれど。
今月の給与はゼロだった。
新卒で正社員として働いたときは、固定給が給与日に六ヶ月分の交通費とともに支給されていたのに。残業代が発生した場合は翌月の給与とともに振り込まれる。いま思えばありがたいシステムだった。つまり、お金に余裕のない若い子たちに配慮した仕組み。
働いた実績で給与が入るということをすっかり忘れていた世間ずれした自分。
挙句、西新宿までの交通費が自己負担……。何万円もするし、懐が痛い。
いくら恋生がセレブでなんでも買ってくれる相手で生活の心配が要らないとはいっても、だからってなんでもねだるのは違うと思うし……なんとなく、落ち着かない。自分がずるをしているみたいで。
「うん。心配いらないよ」
「そっか。困ったことがあったらなんだって言ってね」
「うん。ありがとう」
多くは語らない。語れない。……まさか。
自分がこんなにひもじい思いをするなんて。
別に、お昼のお弁当なんて、マキノさんに頼めば作って貰えるのだけど。
マキノさんの手料理は時間が経っても絶品で、たまに、こうして、自分が必死こいて料理をしてみても結局負けるのだと思うとなんだか馬鹿らしくなる。どこまでも追いつけない。会社でも負け組で……。
悪い環境ではない。前職であんなに、仕事に追われて、辛くて、毎日会社に行くのが辛くてたまらなくて、どうしようもなくて、自分の仕事がいつまでも終わらないのに、BPさんの仕事の面倒も見なければならなくて、吐きそうなくらいにしんどくて。
でも、……懐かしいと思えるのは何故だろう。自分が狂ってしまっているのか。
ワーカホリックだったころのほうが自分は生き生きしていた。ただの駒のひとつにすぎなくても、ちゃんと、なにかやり遂げているという実感があった。
一方の現状。このままだと腐ってしまいそうだ。実際……。
昨日会ったことは話せない。話せるはずがない。
だって、海我の言ったことは……。
いつも心地よいはずの沈黙がなんだか気まずい。せっかく、お魚を買って、ほうれん草を煮ておひたしを作って、ちゃんと、他の副菜も用意したというのに。……いつも、なにを話していたっけ。
そういえば、と思い出す。いつもあなたは、わたしの仕事の愚痴とか悩みをうんうんと聞いてくれていて、穏やかで……。
そっか。わたしばかり話していたよね。ちゃんとあなたの話も……。
咀嚼する。余裕がない。指摘されてしまって弱い自分。曝すのが怖い……。
この、脆弱だけれどちゃんと繋がったはずの関係性を壊すのが怖い。
こうしてわたしが迷っているあいだも時は進んでいく。――そして。
すぐに打ち明けなかったことを後悔する日は間もなくして訪れる。空が高く晴れ渡った晩秋の日だった。
*
「素晴らしい講演でしたね。是非、一言感想を述べたくて、貴重なお時間を頂戴致します」
セミナーの後に声をかけられるのは慣れている。
……というより、質問があるのなら、最初から質疑応答の時間に手を挙げればいいものを。日本人の気質。ひとまえで質問をするのを極端に嫌がる。自己アピールが下手過ぎる。
よって、セミナーの後は質問者の列が必ず出来る。質問内容はだいたい似ているので、だったら、きちんと与えた質疑応答の時間にしてくれれば、こちらも時間の節約になるのに、という気持ちはあれど、あくまでにこやかに対応する。これも仕事のうちだから。
彼もそんな聴衆のひとりだと思いきや。
「――神宮寺恋生さん。花と一緒に暮らしているんですよね?」
ざわり、と肌が粟立つ。この男――。
「申し遅れました。わたくし、高峰《たかみね》海我と言います。……実は、花と昨日会って話しまして。講演の内容についてではなくて申し訳ありません。
――花が悩んでいる状況を聞いて、なんとか、彼女の力になりたいと思いまして……。
どこかで五分ほど、お時間をいただけませんか?」
元彼氏と思われるこの男と花が会っていた? そんなことは、一言も聞いていない。
だいたい、花は、仕事について聞かれても別に大丈夫の一点張りで、悩んでいるなんて一言も――。
だが思え。花は、悩んでいる様子ではなかったか。
おれは、花の婚約者として、花のことをきちんと見られていたのか? 見落としていなかったか。見て見ぬふりをしていなかったか。
この男の登場で僕は突きつけられることとなる。――花に対する愛情を。
*
(遅いな……。いままでこんなことはなかったのに)
もう夜の十時を過ぎている。
基本的に、早めに帰宅するあなた。遅くなるなら必ず連絡をくれるのに。どうしたのかな。大丈夫だろうか。まさか……事故とか……。
ううん。そんなはずないもん。基本移動は車だし、お抱え運転手の運転する車で安全に移動しているはず。
わたしを真に愛する神宮寺恋生という男が、わたしを不幸せにするはずがない。
信じて、でも気になって、それでも落ち着かず、ダイニングにて座って待つ。あなたの帰りを。
がたん、とようやく玄関から物音がしたときにわたしはこころからほっとした。……けれど。
あなたは、浮かない表情をしていた。
「おかえりなさい。……恋生、大丈夫?」
「ごめん。ちょっと、手洗いうがいしてくる」
なに、いまの言い方。あなたにしてはちょっと声が険しい。
……どうしたのだろう。
あなたはリビングに入ると、わたしの前を通り過ぎて、上着を脱ぎ、「あの男と会っていたんだってね」と言う。
鍛え抜かれた肢体が浮かび上がるワイシャツ姿に見惚れている場合ではなくて。
……あの男。
「言ってくれてもよかったのに。そんなに悩んでいるんだったら。僕はそんなに信用ならない?」
あなたは、上着をテーブルのうえに置くと、わたしを見据える。
……そんなあなたの目は、見たくなかったよ。
「そっちこそ。怒っているなら素直に言えばいいじゃない。なんでそんなもったいぶった言い方するのよ」
テーブルに置いたあなたの両手から伝わる怒り。
「花が、別に、他の男とちょっと飲みに行くくらい僕はどうとも思わない。……問題は、悩んでいることを、僕ではなく、あいつに先に話したことだ。正直にね、嫉妬している」
可愛いところあるじゃない。
……などと言える空気ではない。
「花は、……別に働かなくても、食わせていけるだけの稼ぎはしているつもりだ。ただ、あくまで花が、……花の意志で働きたいと思うのなら、その意志は尊重したいと思った。それだけのことなんだ。……それが」
拳を握り固める。その手がふるえている。
「なんでこんなことになっちまうんだ……くそ」
あなたのそんな様子はいままでに見たことがない。ただならぬなにかを感じた。
*
「結論から言うと、花にそんな仕事はふさわしくないと思います。飼い殺しに等しい。
国立の理系大学を出て、プログラミングの知識もスキルも相当のものであるはずの彼女が、まさか、派遣社員の立場にあまんじているだなんて。僕が彼氏だったら絶対に、許しませんよ」
隣に座る男の余裕。加えて、この僕の余裕のなさよ。
「何故、彼氏であるはずのあなたが、花に、ちゃんとした意見を言わないのか、僕としては甚だ疑問ですし、……別に派遣社員の存在そのものを否定するわけではありませんが、ただ、特に、介護や育児の事情などなく、仕事をセーブする必要のない彼女であれば、しかも相応のスキルや経歴がある彼女であれば、きちんとした正社員の仕事をするのが筋だと思います。
日本社会の縮図を見ているかのようですね。女性が結局我慢して、力を発揮出来ず、増々社会からあぶれていく。
……僕はただの、花の元彼氏に過ぎませんが、いまの状況は我慢がなりません。
あなたがそんなふうに、指を咥えて見ているだけであれば、……僕としても考えがあります。
あなたが、ご自身が、花にふさわしい人間だと思うのならば、するべきことが他にあるはずです。それでは失礼」
連絡先もよこさず、男は去っていった。取り残された僕は、生まれて初めて味わう、腹の底からこみあげる、どす黒い感情に向き合うほかなかった。苦しい。悔しい。何故……こんな……。
はっきりさせよう。ちゃんと、きみの目を見て顔を見て話すんだ。
そう決めたはずなのに、どうしてこんなにも弱い。
*
「信じてくれるかは分からないけど……。彼と再会したのは本当に偶然で……。それに、あなたに変に心配をかけたくなかったの……。いまの暮らしで充分だと思ったし、別に、働くことが人生のすべてではないから」
「でも先に、……あいつに打ち明けたんだよね。悩んでいることを」
「……ごめん」そう言われるとなにも言えなくなる。いたずらな沈黙。
「花のことは、ビジネスの面でも考えていることがひとつあって、ただ、花としては、自分からアクションを起こして決めたことだから、僕としては邪魔をしたくないっていう考えもあった。……居場所がなくて苦しんでいることに、気づいてやれなかった……ううん、目を背けていたことについては僕に責任がある」
「プライベートなことなのに、……どうしてそんなにビジネス口調なのよ!」
今度はわたしの怒りが爆発した。
「言えばいいじゃない! 花に、派遣の仕事なんか向いていないって! 最初から言ってくれていれば、こんな……苦しまずに済んだのに! 今月のわたしのお給料いくらか知っている? ゼロ。ゼロなのよ! わたし、会社で必要となんかされていなくって、暇で暇で、なんのために生きて、出社しているのかって分からないくらい暇で……どうしようもなくって、……でも、こんなことで悩んでいるだなんて誰にも言えなくって……神宮寺恋生のパートナーなんだったらどんなことでも耐えるべき……だし、婚約者としてちゃんとふさわしい行動とか……」
「あのさぁ。花が花のやりたいことを見つけてやるのが先決で。僕の婚約者うんぬんって話は別の問題だからさ」
「なにその言い方!! ほんっとむかつく!!」
「感情的になっていても仕方ないだろう。……じゃあ、花は、どうしたいっていうの。諦めかけていた転職活動やり直して、そんで、あいつとより戻すっていうの?」
「馬鹿! そんなこと誰も言っていない! ……っ、もう、出て行く!」
「いまさら戻れるの? あの環境に?」
ぶちん、と頭の奥でなにかが切れた。
「……アパートを解約していなかったのが幸いだったわ。ごきげんよう。今日のうちに荷物をまとめて出て行きます」
本当に、ぶちきれて、とりあえず一泊分の荷物だけキャリーケースに詰め込んで部屋を出た。
……追いかけてくれればよかったのに。
馬鹿。出て行くなよ。俺の傍にいなよ。
……そう言って止めてくれれば……。
どうしてあなたは来ないの。わたし、そんなに価値のない女?
瀟洒なマンションの前に立つと涙がこぼれた。こんなかたちで終わるだなんて思ってもみなかった。……馬鹿だった。
「……ごめん。恋生」
あんなに、大切に、大切に育てていた想いをこんなかたちで失うなんて。とことんわたしは馬鹿だ。
とりあえず、わたしは、あの冷えた狭いアパートに戻ろう。食材はない。けど、調味料がそのままだ。カップラーメンのひとつでも買って帰ろう……。
寒い寒いアパートに帰り、煎餅布団に眠る。布団に入っても、涙ばかりが出てきて、ろくに眠れなかった。こころもからだも冷え切った夜を過ごした。
話を振られると素直に困る。……なんとなく、伝わっているだろうけれど。
今月の給与はゼロだった。
新卒で正社員として働いたときは、固定給が給与日に六ヶ月分の交通費とともに支給されていたのに。残業代が発生した場合は翌月の給与とともに振り込まれる。いま思えばありがたいシステムだった。つまり、お金に余裕のない若い子たちに配慮した仕組み。
働いた実績で給与が入るということをすっかり忘れていた世間ずれした自分。
挙句、西新宿までの交通費が自己負担……。何万円もするし、懐が痛い。
いくら恋生がセレブでなんでも買ってくれる相手で生活の心配が要らないとはいっても、だからってなんでもねだるのは違うと思うし……なんとなく、落ち着かない。自分がずるをしているみたいで。
「うん。心配いらないよ」
「そっか。困ったことがあったらなんだって言ってね」
「うん。ありがとう」
多くは語らない。語れない。……まさか。
自分がこんなにひもじい思いをするなんて。
別に、お昼のお弁当なんて、マキノさんに頼めば作って貰えるのだけど。
マキノさんの手料理は時間が経っても絶品で、たまに、こうして、自分が必死こいて料理をしてみても結局負けるのだと思うとなんだか馬鹿らしくなる。どこまでも追いつけない。会社でも負け組で……。
悪い環境ではない。前職であんなに、仕事に追われて、辛くて、毎日会社に行くのが辛くてたまらなくて、どうしようもなくて、自分の仕事がいつまでも終わらないのに、BPさんの仕事の面倒も見なければならなくて、吐きそうなくらいにしんどくて。
でも、……懐かしいと思えるのは何故だろう。自分が狂ってしまっているのか。
ワーカホリックだったころのほうが自分は生き生きしていた。ただの駒のひとつにすぎなくても、ちゃんと、なにかやり遂げているという実感があった。
一方の現状。このままだと腐ってしまいそうだ。実際……。
昨日会ったことは話せない。話せるはずがない。
だって、海我の言ったことは……。
いつも心地よいはずの沈黙がなんだか気まずい。せっかく、お魚を買って、ほうれん草を煮ておひたしを作って、ちゃんと、他の副菜も用意したというのに。……いつも、なにを話していたっけ。
そういえば、と思い出す。いつもあなたは、わたしの仕事の愚痴とか悩みをうんうんと聞いてくれていて、穏やかで……。
そっか。わたしばかり話していたよね。ちゃんとあなたの話も……。
咀嚼する。余裕がない。指摘されてしまって弱い自分。曝すのが怖い……。
この、脆弱だけれどちゃんと繋がったはずの関係性を壊すのが怖い。
こうしてわたしが迷っているあいだも時は進んでいく。――そして。
すぐに打ち明けなかったことを後悔する日は間もなくして訪れる。空が高く晴れ渡った晩秋の日だった。
*
「素晴らしい講演でしたね。是非、一言感想を述べたくて、貴重なお時間を頂戴致します」
セミナーの後に声をかけられるのは慣れている。
……というより、質問があるのなら、最初から質疑応答の時間に手を挙げればいいものを。日本人の気質。ひとまえで質問をするのを極端に嫌がる。自己アピールが下手過ぎる。
よって、セミナーの後は質問者の列が必ず出来る。質問内容はだいたい似ているので、だったら、きちんと与えた質疑応答の時間にしてくれれば、こちらも時間の節約になるのに、という気持ちはあれど、あくまでにこやかに対応する。これも仕事のうちだから。
彼もそんな聴衆のひとりだと思いきや。
「――神宮寺恋生さん。花と一緒に暮らしているんですよね?」
ざわり、と肌が粟立つ。この男――。
「申し遅れました。わたくし、高峰《たかみね》海我と言います。……実は、花と昨日会って話しまして。講演の内容についてではなくて申し訳ありません。
――花が悩んでいる状況を聞いて、なんとか、彼女の力になりたいと思いまして……。
どこかで五分ほど、お時間をいただけませんか?」
元彼氏と思われるこの男と花が会っていた? そんなことは、一言も聞いていない。
だいたい、花は、仕事について聞かれても別に大丈夫の一点張りで、悩んでいるなんて一言も――。
だが思え。花は、悩んでいる様子ではなかったか。
おれは、花の婚約者として、花のことをきちんと見られていたのか? 見落としていなかったか。見て見ぬふりをしていなかったか。
この男の登場で僕は突きつけられることとなる。――花に対する愛情を。
*
(遅いな……。いままでこんなことはなかったのに)
もう夜の十時を過ぎている。
基本的に、早めに帰宅するあなた。遅くなるなら必ず連絡をくれるのに。どうしたのかな。大丈夫だろうか。まさか……事故とか……。
ううん。そんなはずないもん。基本移動は車だし、お抱え運転手の運転する車で安全に移動しているはず。
わたしを真に愛する神宮寺恋生という男が、わたしを不幸せにするはずがない。
信じて、でも気になって、それでも落ち着かず、ダイニングにて座って待つ。あなたの帰りを。
がたん、とようやく玄関から物音がしたときにわたしはこころからほっとした。……けれど。
あなたは、浮かない表情をしていた。
「おかえりなさい。……恋生、大丈夫?」
「ごめん。ちょっと、手洗いうがいしてくる」
なに、いまの言い方。あなたにしてはちょっと声が険しい。
……どうしたのだろう。
あなたはリビングに入ると、わたしの前を通り過ぎて、上着を脱ぎ、「あの男と会っていたんだってね」と言う。
鍛え抜かれた肢体が浮かび上がるワイシャツ姿に見惚れている場合ではなくて。
……あの男。
「言ってくれてもよかったのに。そんなに悩んでいるんだったら。僕はそんなに信用ならない?」
あなたは、上着をテーブルのうえに置くと、わたしを見据える。
……そんなあなたの目は、見たくなかったよ。
「そっちこそ。怒っているなら素直に言えばいいじゃない。なんでそんなもったいぶった言い方するのよ」
テーブルに置いたあなたの両手から伝わる怒り。
「花が、別に、他の男とちょっと飲みに行くくらい僕はどうとも思わない。……問題は、悩んでいることを、僕ではなく、あいつに先に話したことだ。正直にね、嫉妬している」
可愛いところあるじゃない。
……などと言える空気ではない。
「花は、……別に働かなくても、食わせていけるだけの稼ぎはしているつもりだ。ただ、あくまで花が、……花の意志で働きたいと思うのなら、その意志は尊重したいと思った。それだけのことなんだ。……それが」
拳を握り固める。その手がふるえている。
「なんでこんなことになっちまうんだ……くそ」
あなたのそんな様子はいままでに見たことがない。ただならぬなにかを感じた。
*
「結論から言うと、花にそんな仕事はふさわしくないと思います。飼い殺しに等しい。
国立の理系大学を出て、プログラミングの知識もスキルも相当のものであるはずの彼女が、まさか、派遣社員の立場にあまんじているだなんて。僕が彼氏だったら絶対に、許しませんよ」
隣に座る男の余裕。加えて、この僕の余裕のなさよ。
「何故、彼氏であるはずのあなたが、花に、ちゃんとした意見を言わないのか、僕としては甚だ疑問ですし、……別に派遣社員の存在そのものを否定するわけではありませんが、ただ、特に、介護や育児の事情などなく、仕事をセーブする必要のない彼女であれば、しかも相応のスキルや経歴がある彼女であれば、きちんとした正社員の仕事をするのが筋だと思います。
日本社会の縮図を見ているかのようですね。女性が結局我慢して、力を発揮出来ず、増々社会からあぶれていく。
……僕はただの、花の元彼氏に過ぎませんが、いまの状況は我慢がなりません。
あなたがそんなふうに、指を咥えて見ているだけであれば、……僕としても考えがあります。
あなたが、ご自身が、花にふさわしい人間だと思うのならば、するべきことが他にあるはずです。それでは失礼」
連絡先もよこさず、男は去っていった。取り残された僕は、生まれて初めて味わう、腹の底からこみあげる、どす黒い感情に向き合うほかなかった。苦しい。悔しい。何故……こんな……。
はっきりさせよう。ちゃんと、きみの目を見て顔を見て話すんだ。
そう決めたはずなのに、どうしてこんなにも弱い。
*
「信じてくれるかは分からないけど……。彼と再会したのは本当に偶然で……。それに、あなたに変に心配をかけたくなかったの……。いまの暮らしで充分だと思ったし、別に、働くことが人生のすべてではないから」
「でも先に、……あいつに打ち明けたんだよね。悩んでいることを」
「……ごめん」そう言われるとなにも言えなくなる。いたずらな沈黙。
「花のことは、ビジネスの面でも考えていることがひとつあって、ただ、花としては、自分からアクションを起こして決めたことだから、僕としては邪魔をしたくないっていう考えもあった。……居場所がなくて苦しんでいることに、気づいてやれなかった……ううん、目を背けていたことについては僕に責任がある」
「プライベートなことなのに、……どうしてそんなにビジネス口調なのよ!」
今度はわたしの怒りが爆発した。
「言えばいいじゃない! 花に、派遣の仕事なんか向いていないって! 最初から言ってくれていれば、こんな……苦しまずに済んだのに! 今月のわたしのお給料いくらか知っている? ゼロ。ゼロなのよ! わたし、会社で必要となんかされていなくって、暇で暇で、なんのために生きて、出社しているのかって分からないくらい暇で……どうしようもなくって、……でも、こんなことで悩んでいるだなんて誰にも言えなくって……神宮寺恋生のパートナーなんだったらどんなことでも耐えるべき……だし、婚約者としてちゃんとふさわしい行動とか……」
「あのさぁ。花が花のやりたいことを見つけてやるのが先決で。僕の婚約者うんぬんって話は別の問題だからさ」
「なにその言い方!! ほんっとむかつく!!」
「感情的になっていても仕方ないだろう。……じゃあ、花は、どうしたいっていうの。諦めかけていた転職活動やり直して、そんで、あいつとより戻すっていうの?」
「馬鹿! そんなこと誰も言っていない! ……っ、もう、出て行く!」
「いまさら戻れるの? あの環境に?」
ぶちん、と頭の奥でなにかが切れた。
「……アパートを解約していなかったのが幸いだったわ。ごきげんよう。今日のうちに荷物をまとめて出て行きます」
本当に、ぶちきれて、とりあえず一泊分の荷物だけキャリーケースに詰め込んで部屋を出た。
……追いかけてくれればよかったのに。
馬鹿。出て行くなよ。俺の傍にいなよ。
……そう言って止めてくれれば……。
どうしてあなたは来ないの。わたし、そんなに価値のない女?
瀟洒なマンションの前に立つと涙がこぼれた。こんなかたちで終わるだなんて思ってもみなかった。……馬鹿だった。
「……ごめん。恋生」
あんなに、大切に、大切に育てていた想いをこんなかたちで失うなんて。とことんわたしは馬鹿だ。
とりあえず、わたしは、あの冷えた狭いアパートに戻ろう。食材はない。けど、調味料がそのままだ。カップラーメンのひとつでも買って帰ろう……。
寒い寒いアパートに帰り、煎餅布団に眠る。布団に入っても、涙ばかりが出てきて、ろくに眠れなかった。こころもからだも冷え切った夜を過ごした。
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