触覚

国沢柊青

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| 第3章 |

 俺の過去の思い出は、とても重くて痛い。
 家の中にはいつも、女の人の泣き声が響いていて、学校から帰ると俺は、真っ先に自分の母親を慰めなければならなかった。
 母親の口から、父親に対する恨めしい思いを聞かされ続け、「どうかあなたはああいう風にはならないで頂戴」と追いすがられた。
 痛みがなかった訳じゃない。
 子どもだからって、なにも分からなかった訳じゃない。
 父と母が言い争っている夜。俺はいつも、家の外にあるカシの木に登って両耳を塞ぎながら過ごした。
  ── ねぇさん・・・。
 ねぇさんはいつも、物悲しげに佇んでいて、俺に「ごめんなさい」と何度も言った。
 どうして謝るの?
「それはね、正ちゃんが大きくなったら分かるよ」
 母からは、あからさまな憎しみを浴びて。
 父からは、身体を奪われて。
 そんな酷いことをする大人が、俺には信じられなかった。
 でもね、ねぇさん。
 俺も大人になってしまったよ。
 身も心も、男になってしまった。
 せめて、この身が、心が、汚れてしまわないように、懸命に生きてきたけど、どうなのかな、ねぇさん。
 俺は、生きていてもいいのだろうか?
 あの人たちの遺伝子を受け継いで、ねぇさんを守ることもできなくて。
 俺は、生きる価値がある人間になれているのかな。


 翌朝、井手は坂出クリニックの院長、坂出実のオフィスに顔を出した。
 今回のようなケースはもちろんのこと、普段受け持っている患者についても、朝に坂出とそれについて話し合うことはよくやっている。
 坂出は、今回の事件に深い興味を示していた。
「で、どう思うんだ、君は。被疑者に責任能力はあると思う?」
「まだ、何とも言えませんが・・・。彼にある種の罪悪感はあったように思います」
「ほう・・・」
 井手の向かいのソファーに腰掛け、坂出はコーヒーを啜った。
 見かけは初老の人がよさそうなおじさんである。普通にしていても、いつも微笑んでいるようにみえる。だが、彼の実力たるや、凄まじいものがある。だからこうして独立しても、一代でここまでクリニックを大きくできたのだ。
 抜け目がない男だが、人格者でもある。そうでなければ、井手も彼についていこうとは思わない。
 坂出は、井手にもコーヒーを勧めると、ソファーにゆっくりと身を沈めた。
「自分が犯罪を犯しているという自覚はあったのだね?」
「ええ」
 井手は、昨日の接見を録音したテープを再生した。
『あの男が・・・、あの男が俺に命令するんだ・・・・』
 中谷の怯えた声が、繰り返しそう叫んでいる。
「多重人格症かね?」
「最初は私もそう思いました。けれど彼の場合は、オリジナルの人格がはっきり覚醒しているにも関わらず、その“男”が思考の中に登場してくるのです。これは明らかに多重人格症とは違います。被害妄想が強くなっている思考パターンは、統合失調とも言えなくもないですが、不自然なところが多い。確かに彼のいう“男”は、彼が精神的に逃げるために作った架空の人間かもしれません」
「被疑者は、動機についてなんと言っている?」
「“負けるから”だと言っています」
「負ける?」
「ええ。何をどうして負けると感じるのかを訊いても、自分で説明ができません。あと、母親が生きているのは不必要だとも発言しました。訳を訊いても、追い詰められるとすぐに“男”の話になるのです。母親を殺して悪かったとは思っているけれども、死んで当然だとも思っている。複雑です」
 犯罪者ばかりでない、人間なんて皆そんなものさ・・・と坂出が呟いた。
「となると、責任能力は微妙なところだな」 
「はい。だから、もう少し時間が欲しいのです」
「分かった。当分君のスケジュールは空けるようにしよう。石岡君にそう言っておくから、存分やりなさい」
 ありがとうございますと井手は頭を下げて、坂出のオフィスを後にした。


 第二の殺人が発生したのは、井手の判断で中谷を拘置所に移すことが決定した日に起こった。
 井手が下した診断は、被疑者・中谷は心神喪失状態ではあったものの、善悪の区別はついており、それについての責任能力はあった、というものだった。だが、彼が犯行に及んだきっかけを考える限り、起訴できるかどうかを安易に判断してはならないというおまけつきで。 ── つまるところ、拘置所に移した上で、中谷が犯行に及んだ時の精神構造について更に鑑定を続けたいということだった。
  井手の判断は、ある意味今回のこの一件に、外的な要因も絡んでいることを示唆していた。
 その意見に警察も検察も共に驚きを隠せないでいた。
 櫻井達も、もう少し中谷の身辺を洗う手伝いをさせられそうだった。
 そんな中、またも潮ヶ丘署管内で、二度目の殺人事件が起こった。
 “二度目”という言葉には、単純に今年に入って二回目のという意味が含まれているだけでない。
 先日起こった、あの忌々しく不気味な殺人事件を彷彿とさせる事件だったからだ。
 櫻井達が現場に到着する頃には既に、犯人逮捕の一報も聞かされていた。
 状況は、先の事件と酷似していた。
 今回は、総合病院の跡取息子である。
 潮ヶ丘管内にある高級住宅地の近くにある繁華街での出来事だった。
 馴染みの反物屋で店の主人と立ち話をしていた橘総合病院院長の妻、香奈枝夫人が店に突然入ってきた若い男にナイフで喉を一突きされて絶命したというのが事の顛末だ。
 橘夫人を殺害した犯人は、恐れおののく店主には目もくれず、”歩いて”外に出た。そして、白衣に返り血を浴び、ナイフを持った格好のまま、普通に繁華街の遊歩道を歩いていたところを、繁華街の外れにある交番の巡査に捕らえられた。大して抵抗もせずに、自分の手にかけられた手錠を見ていたという。
 中谷の身辺に関する聞き込みをしていた櫻井が現場に到着すると、遺体の隣にはストレッチャーが用意され、検視官が遺体を死体袋に入れるよう指示を出していた。
 反物屋の店内は惨憺たるもので、見るからに高級そうな品々が、飛び散った血で無残に汚れていた。
 犯人の身柄は、既に署の方に移されていると聞く。凶器も、真新しい果物ナイフだった。 
 小さなナイフで喉元をひとつ突き。
 犯行手口は、先の事件とまったく同じ手口。
 ちょっとやそっとのことでは動揺しない櫻井も、背中がうすら寒くなった。
 その横で吉岡が呟く。
「こりゃ、えらいことになるぞぉ・・・」
 吉岡にしては珍しく神妙な声だった。 


 事件は当然解決をしていたが、署内のものは一様に暗い顔をしていた。
 今朝中谷を東京拘置所に移した矢先、同じ顔つきをした別の男が、昨日の中谷と同じような様子で同じ取調室の椅子に座っている光景は、異様としか言いようがなかったからだ。
 この段階で間違いなく井手の指摘していたことが現実問題として浮上してきた。
 “外的要因”である。
 本来なら、犯人を逮捕した時点で特別捜査本部というものは解散するのが常だが、今回の二つのケースに対して、事件が解決してから以後、特別捜査本部を潮ヶ丘署に設置するという異常事態になった。しかも、このような前例が見られなかったため、この捜査本部は、少人数制で秘密裏に活動することとなる。
 メンバーは、本庁捜査一課の管理官1名と、捜査官が3名。潮ヶ丘管内の情報についても必要とされることから、潮ヶ丘署刑事課強行班から2名。地域の情報に最も精通している吉岡と、どういう訳か櫻井が選ばれた。警視庁捜査一課の若手管理官、大石要《おおいしかなめ》からのご指名だった。
 大石は、櫻井の査問委員会に顔を連ねていた人物だ。
 先の誘拐事件で失態を見せた先輩の管理官と比べ、かなりのやり手だとの評判である。この人事は、警視庁もこの奇妙な事件に本腰を入れてきたことを現していた。
 例のごとく、戸塚には散々厭味を言われたが(本来ならば、戸塚が選ばれてしかりだったのだ)、いつものことなのでさほど堪えなかった。
  その他、人手が足りない分については、その都度署内で臨機応変に対応する・・・とされたが、正直、やり手の管理官、大石でさえ、今のところ何から手をつけていいか分からない状態だった。
 だが、特別捜査本部に引っ張られたことで、櫻井はやっと犯人の取り調べに立ち会うことができたのである。


 「俺のせいじゃない、俺のせいじゃない、俺のせいなんかじゃない・・・!!」
 男、今回の被疑者・橘邦夫は、そればかりを繰り返していた。
 前回の中谷は「あの男が命令するんだ」で、今回の橘は「俺のせいじゃない」。いずれも、第三者の存在を臭わせる言葉だ。
「あいつなんだ、あいつなんだよ」
 机にしがみ付くようにして身体を震わせながら、橘は向かいに座る本庁の捜査官に詰め寄る。
「橘。あいつとは誰なんだ」
「あいつって・・・、あの男さ」
「その男に命令されたのか」
 捜査官の隣に立つ管理官・大石が、縁なし眼鏡をかけ直しながらそう訊くと、橘は目を見開いたまま首を傾げた。
「違うよぉ。俺は命令が大嫌いだ。人に指図されるなんてまっぴらごめん・・・」
「命令された訳じゃないんだな」
「誘われたんだ。楽しいことをしようって。最近おもしろいことに餓えてたじゃないかって。それに、あいつがお前のママはこの世に本当に必要かなっていうから、そう考えてみると、いらないなぁと思って・・・」 
 捜査官と大石が顔を見合わせる。
 共通点だ。
 櫻井は一番奥の壁に凭れ掛かって、取調べの様子を見ながら、思った。
 被害者がこの世に本当に必要か。
 どうやらこの点が、先の中谷と一致する事柄である。
 そして“あの男”。
 男の存在が本当だとすると、今回の事件は、その男が真犯人に違いなかった。
 ── しかし、こんなことが本当にあるのだろうか。
 もしその男が犯人だったとして、その男は、中谷や橘を利用して殺人を犯したということだ。
 つまり、“人間”そのものを凶器とした犯行。
 しかも、殺害された人たちとの関係を考えると、その男にはメリットらしきものがない。愉快犯。
 ── そんなバカバカしいこと・・・。第一、人間一人に殺人を犯させるまで心神喪失状態に追い込むなんて芸当、催眠術でもあまいし・・・。
 そこまで思って、櫻井は「あ」と声を上げた。一瞬取調室の視線が櫻井に集まる。
  「すみません」と櫻井は謝った。
 井手だ。
 それについて、井手に確かめてみるのもひとつの手だ。
 櫻井は、橘の汗をびっしり掻いた顔を食い入るように見つめた。
 大石が、自分を見つめたまま視線を外さないことに気づかないまま。
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