触覚

国沢柊青

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| 第5章 |

 「一度・・・井手を、橘にぶつけてみてはどうだろうか」
 室内に、淡々とした高橋の声が響いた。
 アルミ製の灰皿から、ゆらりと煙が立ち昇る。
 その煙の向こうに、大石の縁なし眼鏡のレンズが輝いた。
 大石が、前かがみだった身体を起こす。
 深夜のミーティングルーム。昼間は騒がしい署内も、夜の帳を迎えるとさすがに静かになる。
 ミーティングルームには、高橋と大石。
 それに、灰皿に詰まれた無数の吸殻。
 そしてテーブルの中央には、加賀見真実の写真が貼り付けられたアルバム台紙がひっそりと置かれている。
「なぜ・・・、高橋さんはそう思われますか」
 大石が、眼鏡を外して眉間を指で押えた。
 疲労の色は隠せない。
 昨日の今日で、この写真を橘にぶつけてみたが、橘は錯乱するばかりで、とても写真を確認するどころではなかった。
 相も変らず、“あの男”を繰り返すばかりだ。 
「はっきり言って、こんなに被疑者の状態が悪いと・・・。掴んできた手がかりも些か頼りなく感じてしまいます。果たして、我々は正しい道を進んでいるのか・・・」
 溜息混じりに大石は言う。
「その真偽を問うためにも、井手は必要なのではないか」
 高橋の言葉に、大石が高橋を見た。
 高橋は、明後日の方向を見ながら、煙草を吹かしている。
「しかし。 ── しかし井手は、中谷の精神鑑定官です。しかも、彼女も中谷の口から、何も訊き出せないでいる。もしここに井手を連れて来れたとして、どれほどの意味があるのか・・・」
「橘は」
 高橋が、大石の言葉を遮った。
「ヤツは落とせる余地がある。中谷がダメだったとしても、橘は雄弁だ。ここのところの様子を見させてもらってそう思った。あいつなら、しゃべる」
 ── 老兵の直感か・・・。
 大石は唸った。
 警視庁の中でも、高橋に敬意を表す若いキャリアは多い。
 いくら出世が第一と言われているキャリアでも、全員が全員、己の保身を第一に考えているような奴らだけではない。大石のように志を持って警察大学校を卒業した者もいる。そんな若いキャリアの中では、高橋は尊敬すべき人物であった。
 高橋はノンキャリであったが、常に権力に屈せず、己の力で今までやってきた。彼が警視庁に戻ってきてくれたら、どんなにか心強いだろうと思う。なぜ、こんなしがない所轄の刑事課長になんか収まっているのか。高橋に警部なんて地位、滑稽過ぎる。警視正でしかるべきなのだ。
 その高橋が、掟を破れという。
 他の事件で鑑定中の精神科医を引っ張ってくるなど、まさしく掟破りも甚だしい。それで明白な利益が上げられればいいが、その保証は全くない。
 大石の心の葛藤が、高橋には読めたらしい。
 高橋は煙草を咥えたまま、少し笑うと、煙草を無理やり灰皿に押し付けた。テーブルに、受けきれない灰が落ちる。
「やはり、リスクが怖いか」
 大石が顔を上げた。
「失敗すれば、僅かだろうと出世に響く。君の気持ちは十分わかるよ」
 大石は奥歯を噛み締めた。
 ── 古いキャリアの体質を払拭しようと勤めてはいるが、所詮俺もまた、肝の小さい男ということだ・・・。
 ふいに大石の脳裏に、香倉の顔が浮かんだ。そして、櫻井の姿も。
 片や上司の許可もなく外部に情報を提供した公安。片や、本庁の命令を無視して人命救助に命をかけた刑事。
「まぁ・・・。手がかりが全て使えない物になった訳ではない。被疑者が話さなかったとしても、その女の線から攻めることは可能だ。ただし、その連絡先が果たして本物かどうかは、大いなる謎だがな。その場で足がぷっつりと途絶えるかもしれん。しかし多少時間がかかるかもしれないが、有力な手がかりには違いない。俺でも、その女は臭いと思う」
 高橋が立ち上がった。
 彼はミーティングルームを出際、大石の肩を二回叩いて行った。
 大石は、再度女の写真を見つめた。
 女の笑顔は儚くも見え、また魔性の女にも見える。
 ── それにしても、一体誰に似ているというのだろう、この笑顔。まったく思い出せない・・・。
 大石は、写真を凝視していてふと気がついた。
 アルバム台紙と写真が張り付いている角。
 よく見ると、付着面が少しずれている。
 大石は、忌々しそうに会議室の蛍光灯を睨み、ガラクタ置き場になっている棚から、スタンドライトを取り出した。
 眼鏡を外して、もう一度目をよく凝らす。
 確かに、貼って剥がした跡がある。
 この写真を貼る時に一度失敗したのかもしれないが、何かの意図があって張り直した可能性もある。
 大石はフィルムを剥がそうとしてハッとした。
 ── 白手袋。
 ポケットを探ったが、当然ない。ここのところ、現場に立ち会うことがなかったからだ。
 大石は舌打ちをして、棚をもう一度探った。
 あった。
 慌てて両手に填める。
 慎重にフィルムを剥がした。
 デスクの上のペン立てからカッターを取り出し、写真の隅からゆっくりと写真を剥がす。
 ペリッと音をたてて、写真が取れた。
 手袋を填めた手で、写真を翳す。
 裏に何か書いてある。
 ひっくり返して、「あっ」と声を漏らした。
 『助けて』
 そこには、水色のサインペンでそう一言書かれてあった。


 お願い。
 私を助けて欲しいのです。
 この汚れた世界から。
 この腐った世界から。
 毎夜、あの人が夢に出てきて、私を縛るのです。両の足、両の腕。
 こんなになったのは、お前のせいだと、喉から血を沢山流して、恨めしそうに言うのです。
 何を言うの父さん。
 そうなったのは、あなたのせい。
 この関係を始めたのは、私じゃない。父さんだった。
 父さんが、私の身体をこんな風にしてしまった。
 男なしではいられないような、淫乱な身体に。
 今もあなたは私を解放してくれない。
 もう十分でしょう。もう私を解放して欲しい。私の好きにさせて欲しい。
 父さん。
 あの子の顔を、見た?
 あなたを刺した男の顔を。
 大人になってしまっても、あの黒子と瞳だけは変らない。
 ああ。私の可愛い弟。
 お前の血は、鮮やかで美しかった。
 お前は今だ、穢れを知らない。
 どうか、ここまで来てほしい。
 早く、私を捕まえて。
 そしてもう一度、“父さん”をこの世から、消し去って。


 加賀見の残していった住所は、世田谷の高級住宅街の一角にあった。
 ずっと夜の商売を生業にしていたのか、高級な部類に入るマンションである。
 問題の部屋をノックする本庁の捜査員を少し離れたところで見ながら、吉岡が呟いた。
「いい生活してやがんなぁ・・・。こりゃ、どうやらパパがいるな」
 櫻井がちらりと吉岡を見る。吉岡が肩を竦めた。
 万が一、加賀見がいたとして、逃亡しないようにと今日ここに4人の捜査官が来ている。吉岡に櫻井。そして本庁の二人。制服の警官も、マンションの外数箇所に待機させてある。
 大石管理官は今朝、加賀見真実の自宅を押えるように指示した後、どこかに消えていった。彼独自で動きたいことがあるらしい。
 捜査員が問題の部屋のドアを再度ノックした。ドアが開く。
 吉岡も櫻井もドアの隙間を凝視した。
 意外にも、ドアから顔を出したのは若い男だった。
 若いといっても30過ぎといったところだろうか。
「パトロンにしちゃ、若いな。今流行りの、青年実業家って、やつかな?」 
 吉岡の口調は相変わらずおどけたものだったが、目は真剣そのものだった。
 白い顔の男は、少し怯えた感じで捜査員を見た。
 そして周囲を見回して、吉岡達の方にも目をやる。
 背はそんなに高くないが、ハンサムな男だ。端正な顔をしている。
「パトロンじゃなくて、ありゃヒモだな。彼女が食い残したおこぼれをパパに内緒で貰ってる口だぞ」
 吉岡の軽口が聞こえたのかどうなのか、男はじっとこちらを凝視している。
「おお、コワ。ちょっと言い過ぎたかな」
 吉岡が苦虫を噛んだかのような顔をして、櫻井の後ろに身体を移動させた。
 櫻井の身体に抱きつくようにして隠れる。
 悪ふざけをする吉岡を少し見て、櫻井が再度男に目線を向けると、男は捜査員の質問に答えているようだった。何を話しているかは聞こえない。
 捜査員が、頭を下げて帰ってくる。
 ドアが閉まる間際、再度男は、櫻井達の方を見やった。
 捜査員の一人、間城が吉岡と櫻井の前でメモも千切って渡した。
「あの男、加賀見と入れ違いに引っ越してきたそうだ。一応、マンション管理会社に裏を取ってくれ」
「何か、判ったことは」
 櫻井が聞くと、嫌なことを聞くなよと言わんばかりの目を櫻井に向けた。
「引っ越した前の住人のことなんか知らんとさ。まぁ、当たり前だろうけどな。行くぞ。管理人の方を当ってみないとなんとも言えんが、また振り出しに戻ったやもしれん」
 間城はそう言って、乱暴に階段を下りていった。
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