触覚

国沢柊青

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act.17

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 「すみません、ここら辺で落っことしてもらえますか」
 突如吉岡がそんな声を上げたので、タクシーの運転手と三井が同時に「え?」と声を上げた。
 北原の元妻、神津美登里の自宅からの帰り道。日はもう西に傾き、後は署に帰るだけだった。
 街は帰りのラッシュが始まりつつあり、タクシーは依然時速30キロの速度で進んだり止まったりを繰り返している。
「落っことすって、お前・・・」
 後部座席、吉岡の隣に座っている三井は、明らかに気分を害した表情を浮かべた。吉岡は人懐っこい笑みを浮かべ、両手を併せると三井に頭を下げた。
「いや、ホントすみません。本当なら、三井さんと報告に戻らないといけないことは、十分判ってるんですけどね」
「じゃ、どうして」
「実は・・・」
 吉岡は、バツが悪そうに顔を顰めた。
「かみさんの病院に薬を取りに行かなけりゃいけないのをすっかり忘れてたんで。丁度この近くなんですよ」
 ええ?と三井も同様に顔を顰める。 
「お前の女房、具合悪いのか」
「いや、これでして」
 吉岡は、自分の腹の前で腕を丸く振った。三井の顔がにやりと砕ける。
「なんだ、子どもか」
「そうなんですよ。初めての子でね。風邪ぐらいだったら、自分で取りに行けって怒鳴りつけるところなんですけど、あの腹見ちゃったらね。いや、面目ない」
「しょうがねぇなぁ」
「すみません、ホント。もうすぐ病院閉まっちまうんで・・・」
「判ったよ。報告は俺からしておくから、行け」
「すんません」
 タクシーが再び停車したのを見計らって、吉岡はタクシーを降りた。
 ゆっくりと走り去るタクシーを見送る吉岡の顔つきが、みるみると厳しくなっていった。


 櫻井が署に帰ると、特捜のメンバーの幾人かが署に帰ってきていた。
 ── 今、一体どんな状況なのだろう・・・。
 面と向かって訊けない手前、どうにかして捜査状況を探る必要があった。
 井手にさえ、事件に関わることを止められた。事実、その方が、自分のためであることは、十分に理解できていた。
 ── だけど・・・・。
 自分には引くに引けない事情がある。
 この犯罪に父親が関わっており、しかも、事件自体を掌握しているのが父親かもしれないという事実。 その奥にある父の感情を思い浮かべると、さすがに胸が締め付けられる。
 櫻井はたまらず刑事部屋近くのトイレに入り、個室のドアを閉めた。
 また涙が浮かんできそうだった。
 そんな顔、署内の誰にも見せたくない。特に、高橋には。
 櫻井は洋便器の蓋を閉め、その上に座った。
 今頃になって、どっと疲れを感じた。
 自分の人生は、一体なんだったんだ、と思う。
 自分の犯した深い罪の償いのために、これでも懸命に生きてきた。
 警官になったことも、刑事を目指したことも、すべてはその思いに繋がっていた。
 ── それが、こんな裏目に出てしまうなんて・・・。
 父親は、間違いなく自分に対する復讐を企てているのだ。
 どういう状況が自分を一番苦しめ、陥れることができるかを彼は熟知している。
 だからこそ彼は、“罪のない”人間を殺人犯に仕立て上げ、“罪のない”人間を殺させたばかりか、その犯人の人生さえも破壊しようとしている。
 それは、自分も“罪のない”人間だったということを現すメッセージなのか?
 お前のしたことは、こういうことだったのだと知らしめるための手段なのか? 
 櫻井は唇を噛み締め、固く目を閉じ、髪を掻き毟った。
 父が、復讐のためにそうしているのであれば、もう十分にその目的は達成されている。
 今にも、心臓が張り裂けそうだ。
 自分のせいでこんなことになっていると思うと、気が狂いそうになる。
 ── 今すぐにこの世から消えてなくなりたい・・・・。 
 だが、そんなことはできない。
 父が今なお、自分に対する復讐心に燃えているのならば、それに終止符をうつことができるのは、間違いなく自分だけだ。
 父の前に自分が立ち、彼の望みを叶えさえすれば、こんな悪夢は終わる。そうに決まっている。
 ── だから、父に会わなければ。何としても。
 櫻井は、ゆっくりと目を開いた。


 もちろん、吉岡が三井に言ったことは、どれもが口実だった。
 この周辺に小夜子が通っている産婦人科なんてないし、第一小夜子は薬なんか飲んでいない。
 吉岡は、家路に急ぐ人々の間を縫って歩いていた。
 風が少しきつく、空気は湿っている。まるで、台風が近づいてきているような雰囲気だった。梅雨も到来していないこの時期には珍しい天気だ。
 青い葉が生い茂った街路樹が、ガサガサと不穏な音を立てた。
 吉岡が目指す場所は、この3ブロック先を右折するとすぐだ。
 少し前まで幾度となく通った場所。
 そう、『カガミナオミ』が住んでいたとされるマンションである。
 吉岡は、北原の元妻・美登里が言っていた言葉が引っかかっていた。
『むしろあの人は、支配される立場だった』
 ── 支配。
 一体誰に支配されていたというのか。
 吉岡の身体の中に渦巻く疑問は、やがてひとつの流れとなってまとまりつつあった。
 吉岡とて、検挙率の高い非常に優秀な刑事である。
 吉岡の洞察力の鋭さは、時に櫻井や高橋をも凌ぐことがある。
 吉岡の頭の中に、様々な声がこだまする。
『20年前に自分の息子に喉を刺され・・・』
『事件の凶器は、吉岡の指摘通り、果物ナイフだ』
『おそらくあの人は今も娘と一緒にいるはずよ』
『この娘が加賀見真実である可能性は高い』
『息子の消息は確認済みだ』
『おい、櫻井。大丈夫か、お前。顔、真っ青だぞ』
 神津美登里の細く白い手。赤いマニキュアが塗られた指が細長い筆を取り、ゆっくりとつけ黒子を長い睫に彩られた目尻へと・・・。
 吉岡は立ち止まった。
 その顔にもう迷いはなかった。
 吉岡の目の前には、薄暗く雲が垂れ込めてきた空に黒く聳え立つマンションの影があった。


 ドアを開けると、男はカウンターの一番奥の席に座っていて、ズブロッカを啜っていた。
「いらっしゃいませ」
 老バーテンの落ち着いた挨拶に軽く会釈しながら、井手は香倉の隣に腰掛けた。
 大きな黒いカバンをスツールの下に置きながら、井手はふうと一息をつく。
「井手様、御鞄、よろしければロッカーに」
 熱いおしぼりを井手に手渡しながら、老バーテンがそう言ってくれる。いつも井手がロッカーに荷物を預けないことを知っていても、細かく気遣ってくれるところが心地よい。
 最近では若い女性客も増えて、何かと騒がしいこともあるのだが、このバーはついつい来たくなってしまう。男向きの無骨な店内の作りも気に入っているところだ。
「いいのよ、溝渕さん。ありがとう。それより、カンパリで何か作っていただけないかしら」
「カンパリですね。承知いたしました」
 礼儀正しく老バーテンが頭を下げ、カウンターの先に移動していく。
「珍しいな。カンパリなんて」
 井手は、いつもブランデーかスロージン、カルバドスを好んで飲んでいて、軽めのカクテルはあまり飲まない。香倉はそのことを知っていて、そう言うのだ。
 井手は溜息をひとつつくと、荷物をかけていた左肩をトントンと叩いた。
「胃の調子が悪いのよ」
「なるほど」
 香倉はそう言って肩を竦めると、再びグラスの中のドロリとした液体を喉に流し込んだ。
「まさか、こんな時間帯の呼び出しに、あなたが応じてくれるとは思わなかったわ」
 井手がそう言うと、香倉はちらりと井手を見た。
「そう思うなら、呼び出すなよ」
 少し笑みを浮かべながらそう言う。
「店の方はいいの?」
「ああ、そのことだが・・・」
 香倉がふいに口を噤む。
 老バーテンが井手の前にコースターを置き、オレンジピンク色の液体が満たされたグラスを置いた。
「お待たせしました。スプモーニです」
「ありがとう」
 老バーテンは、その場の雰囲気を察して、二人から距離を置いて立った。
 店内は平日の夜。しかも早い時間ともあって空き気味で、カウンターには井手と香倉の他誰もおらず、テーブル席に幾グループかがいるに過ぎなかった。これで井手と香倉の会話を邪魔するものはいない。
 香倉が声を少し潜めて言う。 
「本日づけで撤退命令が出た。今頃、榊のオヤジが手入れの準備を満面の笑みを浮かべて整えているところに違いない」
 警察関係に深く関わりを持ち、昔から今に至る香倉の経緯を殆ど知っている井手には、香倉も少しばかり仕事の話をすることがあった。井手の身に危険が及ばず、機密にするほどのことでもないことは、香倉も不必要に隠すようなことはしない。もちろん、井手も香倉に対してはそのように接しており、二人の関係は、“友情”というよりは“戦友”と呼んだ方が無難である。
 現に香倉の言っていることは正しいらしく、黒の皮製のジャケットに濃いネイビーブルーのヴィンテージジーンズ、リングつきのワーキングブーツという恰好の香倉は、とても仕事モードとは言いがたい。
 ズブロッカ片手に、国産の煙草をぷかりと吹かしている。
 その様子は、ディープブラウンの颯爽としたパンツスーツの井手とは対照的で、井手がここでシステム手帳でも出そうものなら、今日の仕事を終えたミュージシャンと敏腕女性マネージャーといった風情である。
「榊さんね・・・。元気? あのおじさん」
 井手があの仁王のような顔つきの中年オヤジの顔を思い浮かべながらそう訊くと、「多分な」と答えが返ってきた。
「で、お前が俺を呼び出すなんて、どういうことなんだ?」
 井手とは視線をあわせずに香倉が訊いてくる。井手は、目の前に出されたナッツを口に放り込みながら言った。
「今日会ったわ。櫻井君に」
 香倉が、やっと井手を見る。
 香倉は、そのことをある程度予想していたのだろうか。
 彼のポーカーフェイスは崩れることなく、「そう」という淡白な答えが返ってきた。
 その反応に、井手は確信する。
 やはり香倉は、自分が櫻井と会う前に彼と会っていたのだ。恐らく、前の晩だろう。
 香倉と櫻井の間に何かあったことは、何となくではあるが、井手は感じ取っていた。
 今日の午後、井手に捕まった櫻井は、井手の「よく眠れた?」という質問に少し顔を赤らめて、「よく眠れた」と返事を返してきた。
 櫻井の普段の顔色やあの発作の状態を見る限り、櫻井が日頃あまり熟睡できないことは、精神科医である井手にはたやすく予想できた。
 櫻井は健康的な肌の色をしていたが、いつも目の下に僅かながらもクマがあり、慢性の寝不足に悩まされているような気配を伺わせていた。
 井手に後ろめたそうな顔つきをして俯く櫻井を見た時、なぜか脳裏に香倉の顔が浮かんで、自分ながらにまたあの“直感”が働いたのだと思った。
 頼りにしていない割によく働く直感を確かめてみようと、香倉に声をかけてみたのだ。
「 ── あなた、櫻井君に会ったわね。・・・というより、あなたと櫻井君の間に何があったの? “昨日の晩に”とお聞きした方がよろしいかしら」
 嫌味たっぷりにそう言う井手に、香倉が苦笑いしてみせた。
「まったく、嫌な訊き方をしてくるな、お前」 
「お互い様でしょ」
 井手がスプモーニを口に含む。二人の会話とは無縁の、爽やかな香りが口の中に広がった。
「ヤツは精神的に参ってた。俺はそのとばっちりを受けた。それだけさ」
「もっと詳しく言って」
 ジロリと横目で香倉を睨む。
 香倉にそんな視線を送って無事でいられるのは、世界広しといえども、井手ぐらいのものだ。
「わかっているのよ。たかが若手刑事にクダをまかれようが、絡まれようが、普通ならあなたは動じないし、相手にもしない。そうでしょ? でも、違うのよね? 今日の櫻井君はどこか様子がおかしかった」
 香倉が再び井手を見る。
 井手がニヒルな笑みを浮かべた。
「気になるんでしょ? どうおかしかったか」
 香倉が煙草を咥えて、深く煙を吸い込む。
「あの子、本当に危険だわ。幼い頃に犯した罪に苛まれて、そこから抜け出せないでいる。そんな状態でこの事件に自ら決着をつけようとしているの。でも、私に言わせれば、暗い渦の中に飲み込まれてしまって人格を破壊されるのがオチよ。相手は、ただの人間ではないもの」
「 ── 知っているのか、あいつの子どもの頃の話」 
「ええ。・・・櫻井君から聞いた。あの子の中では、まだあの事件は終わってない」
 井手はそう言いながら、ピスタチオの殻を指でパチパチと弾いた。
 井手の心の中の苛立ちや痛ましさが、神経質な指先から流れ出てきているようだった。
 ふいに井手の手が止まる。
 井手はカウンターの上で転がるピスタチオを見つめながら言った。
「あなたがなぜ櫻井君にちょっかいを出すのかはわからないけど。あなたまで彼を責めないでやって。あなたが犯罪者を心底憎んでいることも知っているし、その正義感も素晴らしいと思う。だからこそあなたは、汚れた仕事もずっとしてきた。 ── でも彼の犯した犯罪については、もう彼は償いを終えていると思うの。あんなに幼い子どもが、罪の意識を背負ったまま親に捨てられて、今までずっと独りで生きてきたのよ。彼には救いが必要なの。心の底から、彼を引き上げてくれるような神様がね」
 しばらくの間、沈黙が流れた。
 ふいに香倉が口を開く。
「・・・俺は・・・。 ── 俺は別に、ヤツを傷つけたい訳では・・・。ただ・・・」
 しかし、その後の言葉が続かなかった。
 井手が驚いた顔で香倉を見る。
「 ── 香倉、あなた・・・・。認識を間違っていたのは、私の方ね・・・・」
 井手の見つめる香倉の横顔は、無表情だった。
「あなた、櫻井君が恋しいの?」
 その台詞の後も、香倉は一度も井手を見なかった。
 一言、「馬鹿な」と呟いてカウンター上に金を投げ置くと、そのまま店を出て行った。
 井手はしばらくカウンターの上を見つめた後、長い溜息をついた。
 スプモーニを飲んで、小さくペロッと舌を出す。
「あ~あ。怒らせちゃった。 ── セラピストとしては、失格ね・・・」
 口調は明るかったが、その井手の表情は、カンパリの味のように苦々しいものだった。


 5階のボタンを押した後、吉岡はエレベーターの壁に背を凭れかけさせた。
 身体は疲労していたが、精神は微妙に高揚していた。
 だがそれを、吉岡は身体の底に押し込め、外には出さなかった。
 吉岡はずっと考えていた。今回の事件の意味を。
 吉岡は溜息をついて、両手で顔を擦る。
 吉岡の中で、刑事しての感情と人間としての感情が複雑に絡み合い、またぶつかった。
 20年前、北原正顕をナイフで刺したのは、間違いなく同僚の櫻井正道に違いなかった。
 彼の母親である筈の神津美登里のつけ黒子が、何度も頭に浮かんでは消えた。
 己の子を捨てた筈なのに、己の子の影に捕らわれている母親。
 それは贖罪の意識からくるのか、ただ単に息子のことが恋しいのか。
 いずれにしても、櫻井が犯罪を犯した人間であることは、ほぼ間違いがない。
 櫻井と出会ってからのことが、様々浮かんでくる。
 いつもどこか寂しげな表情で真っ直ぐ前を見ている若者。
 自分を多く語ることなく、ひたすら自分の身体をまるで責めるように鍛えていた青年。
 ── 櫻井は、一体どんな気持ちで父親の首を刺したのだろう・・・。
 それを思うと胸が痛んだ。と同時に、犯罪者と共に仕事をしていたことに憤りを感じている自分もいた。
 未成年の時に犯した犯罪のため、通常のように罪に問われることはないが、人を傷つけた(しかも自分の実の父親をだ)ことには変わりない。
 もうすぐ自分自身人の子の親になるはずの吉岡には、少々後味の悪い話である。
 ──  もし自分の子どもに殺められることになったのなら・・・。
 北原の思いが一瞬自分のそれとシンクロしたような気分になって、吉岡は背筋が寒くなった。
 この問題をどう捉えたらいいのか、正直、吉岡にはわからなかった。
 ただ現在、許されざる犯罪がここにあり、それを解決しなければならないことは確かだ。それについての迷いは一切ない。
 ── そのことだけに集中しよう・・・今は。
 吉岡は、顔をパンパンと叩いた。
 ポーンという音がして、ゆっくりとエレベーターの扉が口を開けた。
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