触覚

国沢柊青

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act.20

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 その後、小夜子夫人は救急車で近くの総合病院へと搬送され、緊急手術が施された。高橋の止血作業の甲斐があったのか、どうにか一命を取り留め、数時間の後に集中治療室へと移された。
 心神喪失の状態であった吉岡は、潮が丘署のパトカーに乗せられ、同じ総合病院へと運ばれた。彼も、右手の小指と薬指が骨折していた為に手当てをされた。しかし深刻なのは、物理的なケガよりも精神的なもので、病院に搬送された後も吉岡は生気のない顔つきで無言のままだった。
 そして、この世に生を受ける前に死を迎えてしまった赤ん坊は、監察医務院に運ばれ、検視されることとなった。
 しかし、何せ生まれる前の赤ん坊であるがために殺人罪は適応されず、司法解剖には値しない、あまり意味のない検視となった。
 一方、櫻井は・・・。


 櫻井は、集中治療室の前のベンチに腰掛けていた。
 打ちひしがれたように頭を低く項垂れていて、緑色の床を見つめ続けていた。
 病院の廊下は、先ほどまでの騒動が嘘のように静かで、人の往来は少ない。
 事態を重く見た警視庁が素早く動き、報道規制を引いたばかりか、総合病院の一角を関係者以外立ち入り禁止の対応を図ったためだった。
 血に汚れたスーツ姿のまま吉岡について病院を訪れた櫻井だったが、今ではそのスーツも病院の医療廃棄物用のゴミ箱に入れられ、署のロッカーにおいてあった制服に着替えている。川口が気を利かせて、先ほど病院に届けてくれたものだ。
 全身に染み付いた血は、病院の看護師が貸してくれた濡れタオルで拭った。病院側としても、血まみれの男に病院の廊下をうろつかれるのは迷惑だからだろう。タオルを三枚使ったが、どれも錆びた赤色に染まり切って、結局はそれもゴミ箱行きになった。
  むろん、高橋も櫻井と似たような状態だったから、彼も同じように制服に着替えていた。今は、吉岡が収容された病室に、この総合病院の精神科医と共にいるはずだ。
 櫻井は、患者に悪い刺激を与える可能性があるからと、引き離された。 
 憔悴きしった櫻井の隣には、川口が何も言わず座っている。
 ベテラン刑事の川口でさえ、櫻井にかける言葉が見つからなかった。
 それほど、櫻井は憔悴しきっていた。
 櫻井は、ただ「自分のせいだ」と呪文のように繰り返すばかりで、一向にそれに対する説明はなかった。「どうして、そう思うんだ」と川口が言っても、まるで反応がない。詳しい事情を知らない川口には、まったくお手上げといったところだった。


 小夜子の両親が病院に到着したのは、その日の午後のことだった。
 小夜子の容態は依然として危険で、集中治療室は緊張状態が続いていた。
 小夜子の両親が集中治療室まで案内されてきた時、彼らは櫻井の顔を見て、少し表情を和らげた。
 彼らは櫻井のことを見知っており、以前より櫻井と親しくしていた。
 吉岡は、家族ぐるみで櫻井を受け入れていて、小夜子の両親ともよく一緒に食事をしていたのだ。
 彼らは、櫻井が幼い頃から施設で育った不幸な境遇を知っており、旅行でどこかへ行く度に、櫻井の分のお土産まで買ってくるような、心優しい人達だった。
「櫻井君・・・、小夜子は・・・」
 小夜子の両親の顔を見た途端、櫻井の身体の中で限界ギリギリに抑えていたものが、ついに溢れ出した。
 櫻井は、ぼろぼろと涙を零し、その場に土下座をすると、額を床に押し付けながら「申し訳ありません! 申し訳ありません! 申し訳ありません・・・・」と繰り返した。
「お、おい、櫻井・・・」
「櫻井君・・・」
 川口も小夜子の両親も、そんな櫻井に困惑した。
 青年の心の痛みがどんなに深いものか、彼の本当の人生を知らない者達は推し量ることができなかった。
 櫻井は顔を上げる。
 彼らの困惑振りが耐えられなかった。
 ── もう、これ以上隠してはおけない。
 自分の良心が、この善良な人々を偽り続けるのか、と責めたてていた。もう限界だった。
 櫻井は、ゆっくり身体を起こす。
 冷たい廊下に正座をしたまま、涙をためた瞳で彼らを見上げた。
「今回の事件の犯人と目されている人物がいます。その人物は、人の心を意のまま操り、二人の殺人犯を作り出しました。吉岡さんは、そのホシを追っていた。そして、そのホシの網に引っかかってしまったんです。だから、小夜子さんをこんな目に合わせたのは、吉岡さんのせいじゃない。そう仕向けた人物がいるんです」
 丁度櫻井がそこまで言った時、廊下の角から大石の姿が現れた。小夜子の両親が病院に到着したという知らせが届いたためだった。特捜の責任者として、状況説明の義務が大石にはあった。
 だが櫻井の背中を見て、大石は足を止めた。その場の雰囲気がおかしいことに気がついたのだ。そして、彼らを取り囲む人間の表情を見た。
 小夜子の両親、川口、少し離れたところの椅子に腰掛ける戸塚に、潮が丘署の他の私服警官達。本庁の刑事も幾人かいる。彼らは一様に、食い入るような目で櫻井を見ていた。
 大石の背筋に、薄ら寒い悪寒が走る。
「罪もない人々を陥れた人物は、俺の父親です」
「櫻井、やめろ、今それ以上言うな!!」
 大石が走る。
 なおも櫻井は話し続ける。
「動機は恐らく、自分が幼い頃、父を殺そうとして父親の喉にナイフをつきたてたことに対する復讐です」 
 大石がああと苦渋の溜息を洩らして、走るのをやめた。
 そして、その場に立ちすくむ。
 その場が、ざわざわと色めき立った。 
「・・・じゃぁ、小夜子は・・・小夜子は君がここにいたせいで・・・?」
 小夜子の父親の口が戦慄く。
「そうなのか! そうなのか、櫻井君?! ・・・そればかりか、き、君まで・・・・」
 櫻井は再び両手をついて、頭を下げた。「申し訳ありません・・・」と振り絞るように言葉を吐いた。
「この人殺し! 人殺しが!!」
 小夜子の両親のヒステリックな怒鳴り声が響く。
 大石が天を仰いで、固く目をつぶった。
 ── なぜ言った、櫻井・・・・このタイミングで、なぜ・・・・。
 大石は、いつまでたっても身体を起こさない櫻井の、震える背中を見つめた。


 それから40分後。
 吉岡の病室の前、警察官達で塞がれた廊下の一角に、白い細身のパンツスーツに黒いサングラスといういでたちの美しい女が姿を現していた。
 廊下の先に行こうとする女を、制服警官が荒っぽく止めた。
「君、ここは関係者以外立ち入り禁止だ」
 女は警官を見上げ、ゆっくりとサングラスを外した。
 井手静だった。
「速やかに通しなさい。私は事件の関係者です」
 彼女の正体が誰であるか全く知らない警察官達は、なおも井手の行く手を阻んだ。
「証拠もなしにそう言って、ここを通り抜けようとする報道関係者が多くてね」
 鼻で笑う警察官に対して、井手も鼻で笑い返した。
「あら、そう。確かめもせずにそういう態度を取るなんて、まったく同情するわ。出世しないわよ、あなた」
「なっ?!」
 顔を真っ赤にさせた警察官が身体を前に進めた時だ。廊下の向こうに集中治療室から取って返した大石が現れた。 
「井手?!」
 驚きの表情を浮かべつつ、大石が走り寄ってくる。 
「どうしたんだ。今日は裁判所の方じゃなかったのか」
「そうよ。その裁判所で何があったか聞いたの。マスコミはどうやら上手く抑えたつもりだろうけど。警察関係機関では、大げさな噂で持ちきりよ。早いものね」
 香倉が警察大学校にいた時分から、その香倉を介して、大石と井手には交友関係があった。だがいつも、仕事の現場ではビジネスライクな話し方で通すのが互いの心情だったのだが、今日の井手はどうやら機嫌が悪いらしい。まるでバーのカウンターで話すような粗雑な口調で大石の台詞を返した。 
「もっとマシな人間を雇ったらどうなの?」
 警官をやり過ごしながら、井手が言う。
 益々顔を真っ赤にする警官を大石が押えた。
「あのお姉さんには逆らわない方が身のためだぞ。彼女は、精神科医の井手靜先生だ。名前ぐらいは知ってるだろう?」
 警官の顔が今度は青ざめる。
 大石は、そんな警官を押しやりながら、井手の後を追った。 
 井手が丁度吉岡の病室の前に到着した頃、病室から高橋とこの病院の精神科医、豊中が出てきた。
「井手先生」
 井手の活躍を知っている豊中が、驚きの声を上げた。むろん、高橋も井手の登場は想像していなかったのだろう。一様に驚いた顔をしてみせた。
「吉岡刑事の容態はどうですか?」
 井手の質問に、豊中が溜息をついてみせる。
「もう高橋さんにはお伝えしたんですが・・・」
 彼はそう言って、言葉を濁す。
「こう言ってはなんですが、彼は廃人です。こちらが何を言っても、何をしても、まるで反応がない。彼の心は、大きな心的ストレスにより、完全に外界からシャットアウトされている。恐らく、奥さんのことも、自分が何をしたのかも、忘れてしまっているか、理解していないのか・・・。もう手の施し様がありません。したがって、彼がどうしてこのような行為に及んだのかも、知る術がない」
 大石が落胆の溜息をついた。
 だが、井手は諦めていないようだった。 
「本当に何の反応もなかったの? 何も?」
 豊中が高橋と顔を見合わせる。
「強いてあげれば、ないこともないですが・・・。発見された時に、同僚の刑事さんに『あの男が』と呟いたことと、骨折の治療中も、へその緒をいつまでも離さなかったということぐらいですかね」
 井手の顔つきがみるみる変っていった。
 まるで戦争に赴く兵士のような表情だった。
「あの男・・・・。また“あの男”の仕業なのね。 ── 判りました。吉岡刑事の命、私に預けてもらってもよろしいかしら」
「井手・・・・」
 大石が目を見開く。 
「彼は、我が子のへその緒を離さなかった。そこに一縷の望みがあると思う。高橋さん、私に3日だけでいい、時間をください」
「どうするつもりだね」
 高橋がじっと井手を見る。
 井手は、静かにこう告げた。
「彼をこの世に連れ戻してみせる」


 櫻井は、小夜子が収容された集中治療室の前からも引き離された。
 一般病棟の並ぶフロアの隅に設けられた休憩所の長椅子に腰掛けている。
 川口は飲み物を買いに出かけていて、櫻井の斜め向かいには、櫻井の様子を見張るように言われた戸塚が椅子の背に両腕を広げて座っていた。
「まさか、お前が“あの男”の息子だったとはな。よくもまぁ、のうのうと今までおれたものだ。急に事件から外されたんで不思議に思っていたんだが、まさかそんなオチだったとは。まるで想像もしなかったぜ」
 櫻井は床を見つめたまま、返事を返さなかった。
 小夜子の両親からありとあらゆる罵声を浴びせ掛けられたが、何よりも辛かったのは、病室に入って小夜子を見た瞬間に両親が上げた叫び声がドア越しに聞こえてきた時だ。必死に娘の名前を呼ぶ彼らの悲鳴じみた声を聞いていると、胸が張り裂けそうになった。
 いつまでたっても顔を上げない櫻井を、ここまで連れてくるように指示を出したのは大石だった。
 彼は、川口と戸塚に有無を言わさない口調で指示を出すと、小夜子の両親に声をかけるべく、彼も病室に入っていった。
 この場所に移動してくるまで川口は何も言わなかったが、戸塚は普段の彼の調子を取り戻し、あれやこれやと話始めた。朝、自分が取り乱したことに対する誤魔化しなのか、いつもより饒舌だった。
「 ── しかし・・・。刑事であるお前が、人を刺した過去があっただなんて・・・。おい、どんな感じだったんだ?」
 戸塚の声は、櫻井を責めているような口調ではなかった。純粋な好奇心に煽られてのことだろう。
 だがその質問は、今の櫻井にとって、残酷なものだった。
 パキン。
 櫻井は、脳の奥の深いところで金属音が鳴ったような気がした。
 ぎゅっと目を瞑る。
 時々、この音が持病のように脳の奥に響く。
 耳鳴りのようなものだと捉えていたが、大抵この音が響き始めると、脳を針で刺すような痛みに襲われる。
 誘発されるのは、幼い頃の記憶。
 お風呂上りの水滴で濡れた身体を、姉は何度もタオルで拭いてくれた。
「正ちゃんの肌は、いつもすべすべで気持ちがいいね」 
 子ども特有の突き出たお腹に頬を寄せ、姉は微笑む。
 パキン。
 母の金切り声。ガラスの割れる音。父の怒鳴り声。
 姉が手を引いて子ども部屋に連れて行ってくれる。
「正ちゃんだけが、私の味方なのよ」
 姉の涙。それに一生懸命タオルを押し付けた。その手にそっと姉が触れる。
「正ちゃん、いつの時も私を助けてね。約束よ・・・」
 パキン。
「正ちゃんだけがわかってくれるのよ。あの女も、お手伝いさんも、学校の先生も、お父さんだってちっともわかってない。秘密を知っているのは、私だけ・・・。いつか、正ちゃんにも教えてあげるね・・・」
 庭先のカキツバタが生い茂った草陰。
 美しい姉の微笑み。
 秘密って、なぁに?
 パキン。
 バタンとドアが開く音。ドタバタと慌しく歩く、複数の足音。 
「あの女が正ちゃんを連れて出て行くって! そんなの許さない。絶対に許さない!」
 キリキリと引きつった声。
 閉じこもった押入れは、深い闇。
 パキン。
 車の音。砂埃の立つ家先。 強引な手に引かれ、こけそうになる。
「一緒にいるって言ったじゃない! 正ちゃん、一緒にいるって! 行かないで! 正道を連れて行かないで!!」
 姉さんは、お父さんに身体を押えられているから動けないんだ。
 姉さん、ぼくだって離れたくないよ・・・。
 パキン。
「キャー!!」
 振り返ったのは血まみれの父さんの大きく見開かれた目。穴の空いた喉から空気が漏れて、ひゅーひゅー鳴っている。
 ボクの手を掴む手。
 頬に弾ける、温かなお父さんの血。
 パキン。
 お前のせいだ。お前の。
 お前の血が、事件を呼ぶんだよ。


 金属のトレイが、ワゴンから落ちる音が廊下に響く。
 包帯や脱脂綿が床に散らばる。
「きゃー!!」
 記憶の中にある姉の悲鳴とよく似た、若い女性の叫び声。
 櫻井は、自分の腕を見下ろした。
 床にパタパタと落ちる血の粒。グリーンの床に、たくさん落ちている。
 先の尖ったハサミがグイグイと自分の右腕を引き裂いている。そのハサミの柄を持っているのは、紛れもない自分の左手。
「バカ! 櫻井、お前、何してるんだ!!」 
 戸塚が背後から羽交い絞めにするのをするりと交わし、背中で戸塚を突き飛ばす。 
「誰か! 誰かこの人を止めて!!」
 看護師の叫び声が響き渡る廊下は、騒然となる。
 ── 痛いよぉ、痛いよぉ。
 脳髄の奥で、幼い正道が泣いている。
 ── ごめん。俺でも止められないんだ。
「やめろ、櫻井!!」
 高橋が廊下の端から走ってくる。
「やめんか!」
 高橋が取り押さえようとしても、ハサミを腕につきたてたまま、櫻井は暴れる。
 騒ぎを聞きつけて、大石も駆けつけてくる。
 だが、その場の有様に大石は愕然として立ちすくんだ。 
「誰か、俺を殺してくれ! 殺してくれ!!」
 櫻井の声は、正しく悲鳴だった。
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