触覚

国沢柊青

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 夕刻。
 小夜子の容態は完全に持ち直し、関係者に安堵の溜息をつかせた。依然として意識不明の重態だったが、命には別状がないという医師の判断が下った。
 小夜子の危篤状態に吉岡の心神喪失、そして櫻井の乱心と、病院中大変な騒ぎであったが、今は落ち着きをみせている。
 その病院内では、各自が事態の収拾作業に取り掛かろうとしていた。
 その役には、本庁捜査一課で在庁の係をしているものが当たった。
 そのことひとつを取ってしても、この事件は異例の事件だった。
 警視庁捜査一課の課長・米澤は、早い段階で高橋に全面的な支援をすることを告げ、事実上、本件は本庁預かりの事件となった。 
  鎮静剤を打たれた櫻井は、一応落ち着きをみせている。 
  急に大人しくなり、取り押さえられてからというもの一言も口を効かなかった。
 その顔つきは最悪で、夕べから一睡もしていないことに加え、泣き疲れた顔をしており、目は真っ赤に充血していた。その憔悴振りは、誰が見ても痛々しい程だった。彼には一刻も早い休息が必要だった。 
「いいか、大人しく待機所に帰ろう。変なことを考えるな。── これは、お前のせいじゃないんだから。いいな」
 病院の表玄関を櫻井と共に出た大石は、櫻井の顔を覗き込んでそう言った。櫻井は俯いたまま、何も答えない。 
「おい、櫻井・・・」
 正直、大石自身も泣きそうな気分になったところで、ふいに櫻井が顔を上げた。
 つられて大石もその視線の先に目をやると、駐車場から歩いてくる井手の姿があった。
 櫻井の顔が、怪訝そうに顰められる。
 大石は、「ああ」と思った。
 櫻井は、井手が病院に来ていることを知らなかったのだ。
「櫻井君」
 井手も、よもやこんなところで櫻井に会うとは思っていなかったのだろう。大きな紙袋を持った井手は、反射的に背後を振り返った。
 彼女の身体の陰から現れたのは、今まさに黒のセダン車に乗りこもうとする香倉の姿だった。
 香倉も櫻井に気がつき、動きを止めた。 
「どうしたの、その顔・・・」
 櫻井は血に汚れた制服の上に大石のジャケットを羽織っていたので、井手は櫻井の傷に気がつかなかったが、その顔つきの有様には純粋に驚いて見せた。
 彼女はチラリと大石を見る。 
「彼が現場で吉岡のあの言葉を聞いたんだ」
 その一言で、井手は全てを理解したらしい。
 井手の顔が悲しみに歪んだ。 
「ああ・・・、何てこと・・・」
「・・・・井手さんは、どうしてここに・・・?」
 酷く掠れた声が、そう訊いた。
 その声さえも痛々しい。
「今日から数日間、この病院に泊り込むことにしたわ。吉岡刑事の為に。これは着替えとか、洗面道具とか、いろいろ入ってるの。私の戦闘グッズ。私が身動き取れないから、わがままを言って届けてもらったのよ」
 井手は、紙袋を少し持ち上げながら言った。
 櫻井がちらりと香倉を見る。
 そして不安げな目線を井手に戻した。
「私の実力を疑っているのねぇ。私はスーパーヒーローなのよ。絶対に、吉岡刑事を救ってみせる。任せて」
 井手は、いつもよりおどけた口調でそう言った。
 櫻井の充血した目が見開かれる。 
「呼び戻すのよ、彼を。彼は、強い人だったんでしょう? 簡単に負けるような人じゃなかったんでしょう? それは、あなたが一番知っているのよね?」
 櫻井が、言葉もなく頷く。 
「私も頑張る。きっと吉岡刑事も小夜子さんも頑張っているところよ。だから、あなたも負けないで・・・」
 井手は、そっと櫻井の肩を撫でた。
 大石は、井手と話をしている櫻井を置いて香倉に近づき、「おい、香倉」と声をかけた。
「今度のこと・・・」
 大石がそう言うと、香倉は軽く頷いた。
「榊のオヤジから連絡があった。── で、あいつはどうなんだ」
 遠方の櫻井を顎でしゃくって香倉が訊く。大石は溜息をついた。
「精神的に不安定になってる。・・・まぁ、無理もないがな・・・。本当に酷い有様だったんだ。どうやら夕べから吉岡の行方を探して一睡もしていなかったらしい。デカの本能だったんだろうな。ヤツは、吉岡の身が危険に晒されていること敏感に感じ取っていたのかもしれん。自分の親がしでかしたことだ。他人が推し量れない何かが、そこにはあるんだろう」
 香倉は俯いたまま、何も答えない。
 大石は、香倉と同じように車に凭れながら珍しく愚痴を零した。
「俺も不憫でならんよ・・・。今回のことは、さすがにな・・・。正直、櫻井にどう接していいか、わからない。あの高橋さんでさえ、櫻井の暴走を止められなかった。自分が北原正顕の息子だと暴露した挙句、さっきも病院内で『俺を殺してくれ』と暴れてな。右腕を13針も縫うケガだ。ハサミで自分を傷つけて・・・。ひょっとして、死ぬつもりだったのかも知れん」
 香倉が、顔を上げて大石を見る。
 大石は香倉を見ずに、そのまま続けた。
「吉岡と小夜子さんのこともそうだが・・・。俺は、櫻井の方が心配だよ。人間が壊れていくのは、こんな感じなのかって、客観的に捉えてしまう自分が許せなかった。酷いな、俺は・・・」
 大石が唇を噛み締める。
「ヤツはもういいのか」
 突然香倉が口を開いた。「え?」と大石が訊き返す。
「ヤツはもう、仕事から外れるのか」
 再度香倉にそう訊かれ、大石は「ああ。待機所に帰すところだ」と答えた。
 香倉が、運転席のドアを開ける。
「おい・・?」
 質問の意味がわからない大石は、車に乗り込む香倉に声をかける。香倉は大石を見ずに、エンジンをかけた。 
「おい、香倉・・・」
 開いている窓から顔を覗かせ、大石が繰り返すと、「あいつは俺が送る。どうせ事態の処理に忙しくて、送るのもままならんのだろう?」と香倉は言った。
「・・・え? お前が? そりゃ、ありがたいけど・・・」
 普通の総合病院でやらかした警察官の失態ということで、事態収拾の為に正直言うと一人でも多くの人手が必要だった。だから香倉の申し出はありがたかったが、まさか香倉がそんなことを言い出すなんて、想像もしていなかった。
「どけよ、危ないぞ」
 香倉はそう言って大石を車から退かせると、車を発進させ、井手と櫻井の傍らに車を止めた。 
 ポカンと大石が見ている前で、井手が香倉に何か声をかけているのが見え、やがて櫻井が大石のジャケットを井手に手渡し、大人しく助手席に乗り込むのが見えた。
「どういう風の吹き回しなんだ・・・?」
 大石は誰に言うともなく、そう呟いた。


 車内は、しばらく間無言だった。
 運転席の香倉は、他の人間のように櫻井に何も訊いてこないし、何も言わなかった。ただ、無言で運転しているだけだった。
 だから、まず口火を切ったのは、櫻井の方だった。香倉が何もしゃべらないことに不安を感じた。
「・・・今度のことは・・・」
「知ってる。本庁から連絡があったし、井手からも聞いている」
「・・・そう・・・ですか・・・」
 制服の上着の襟元を押えながら、また押し黙った。
 いつしか夕刻の渋滞に巻き込まれる。
 櫻井は、右腕の包帯が巻かれてある辺りを、上着の上から摩った。自分で自分を傷つけた時の記憶は、はっきりいって曖昧でよく覚えていない。
 香倉がちらりと腕を見る。
 大石から、そのことも知らされたのだろう。
 しかし、彼は何も言わない。
 その沈黙で、自分を責めているのかもしれないと櫻井は思った。
 信号が赤になる。車が再び止まる。
 櫻井はちらりと香倉を見た。
「 ── 訊かないんですね、何も」
「訊いて欲しいのか?」
 正面の信号を見据えたまま、香倉が言う。
 櫻井は、自分自身どう感じているのか、わからなかった。── もっともこの数時間の間、自分というものがまったく捕らえられない。何をどうしていいやら、まったくわからなかった。
 櫻井は、車のガラス窓にコツンと頭を凭れさせた。
 ぼんやりと外の風景に目をやると、小学生の男の子を連れた母親が、手を繋いで歩いている姿が目に止まった。
 母親はスーパーの袋を手に下げ、子どもはランドセルを肩に引っ掛けたまま、楽しげに何か話している。
 何気ない日常。何気ない幸せ。自分の今いる世界とは、まったく無縁な。
 まるで自動車の窓ガラスが、外界と自分の世界とを堅く阻む壁であるような感覚を覚えた。
 また目の奥がじーんと熱くなってくる。
 櫻井は、頭を低く項垂れて、両手で顔を覆った。
「・・・もう・・・もう消えてしまいたい・・・。何もかも終わりにしてしまいたい・・・」
 弱音を口に出して言った途端、自分の姑息さに胸焼けがした。
 ── こんなことを言ってはいけない。この苦しみから、逃げてはいけない・・・。
 櫻井は、顔を覆ったまま大きく息を吸い込んだ。喉に絡まった不快な動悸を空咳で追い払った。
 櫻井は顔を上げる。
 香倉を見つめ、言った。 
「お願いがあります」
 香倉がようやく櫻井を見る。
「捜査に協力してください。あなたと大石さんの仲なら、非公式でも捜査に参加できるはずだ。あなたになら、この事件の決着をつけることができるかもしれない。今必要なのは、この状況に客観的に判断・分析する洞察力と冷静に対処できる行動力なんだと思います。── 無茶なお願いだということは、十分にわかっています。でも・・・・。お願いします。お願いします・・・」
 再び櫻井は頭を下げた。
 香倉は、苦々しい表情を浮かべながら、そんな櫻井を見つめた。
 信号が青に変る。だが、一向に動き出さない車に焦れた後方車がクラクションを鳴らす。
 香倉は、車をスタートさせると、ウインカーを左に出して大型店の広い駐車場に入った。目立たない場所に停車させると、溜息をつく。
 櫻井は、窓の外と香倉を交互に見つめる。
 どういうことか、わからない。
「まったく、お前ってヤツは・・・。本当に素直じゃないな。というよりか、わかっていないというか・・・」
「・・・・香倉さん?」
 香倉の苛立った口調に戸惑った櫻井だったが、次の瞬間、右腕を引き寄せられて、香倉の胸に抱かれていた。
 櫻井は、驚いて目を見開いた。
「今お前が本当に必要としているのは、こういうことじゃないのか?」 
 柔らかく抱き締められる。
 温かな腕。
 香倉の穏やかな心音が胸板に押し付けられた右耳から伝わってくる。
「 ── もうそんなに、ひとりで頑張るな」
 香倉のその一言で。
 櫻井は、ああ・・・と思った。
 全身から力が抜けた。
 まるでその言葉は魔法だった。
 これまでの生きてきた道を一気に思い起こした。
 孤児院で仲間外れにされた記憶。誰も来ない参観日。お金がなくて行けなかった修学旅行。孤児だからといって万引きを疑われたこともあった。
 厳しかった警察学校の訓練。櫻井の才能に嫉妬した連中から与えられる、いわれのない中傷。今回の殺人事件。父親の存在。母の怒鳴り声。姉の涙。
 どれも黙って耐えてきた。それが自分の人生だといつも言い聞かせていた。決して、逃げなかった。
 両目を瞑る。その目尻から、新たな涙がぼろぼろと落ちる。嗚咽が零れた。
 櫻井の身体を包む香倉の腕に、更に力がこめられた。
 櫻井は、ぎゅっと香倉の身体にしがみ付く。
 ── そうだ。欲しかったのは、こんな腕だった。
 強くて、温かくて、無条件に自分を受け入れてくれる・・・。
 香倉はそれ以上、何も言わなかった。ただ、抱き締めてくれるだけだった。 
 それでも。
 無言の香倉の行いが、とても強い優しさに感じられた。
 本当に心の奥に染み込んでくる、無愛想だが温かい、本物の優しさ。
 香倉の手が、子どもをあやすように、背中を擦ってくれる。
 櫻井は、香倉にしがみ付いて泣いた。
 子どものように、わぁわぁと声を上げて泣いた。
 だがその涙は、病院で流した涙とはまったく別の、自分を何かから解放してくれる涙だった。
 酷く温かく感じた。
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