触覚

国沢柊青

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 遠くで、誰かの声がしている。
 温かいベッドに横たわっている心地よい感覚。
 櫻井は、ぼんやりと目を覚ました。 
「櫻井はこっちで預かってる。ああ、別にいいだろ。お前だって、二、三日休ませるつもりだったんだろうが」
 声の主は香倉だ。薄暗がりの室内を行ったり来たりしながら、携帯電話に向かって静かに“怒っている”。
「とにかく、事件の騒ぎが及ばないところでよく休ませることが必要だ。え? 傷? 包帯や脱脂綿を替えることぐらい、訳ない。お前、俺を馬鹿にしてるのか? いよいよ危なくなったら、兄貴の所にでも連れて行くさ」
 乱暴な仕草で電話を切る。
 櫻井は、そんな香倉をベッドに寝たまま、ぼんやりと眺めた。
 そんなに感情的になっている香倉を見たのは初めてだった。
「・・・なんだ、起きたのか」
 香倉が気づいた。
 あの魅力的な瞳に見つめられて、櫻井はドキリとする。
 ハッとして、思わず自分の着衣を確認した。
 制服のままで乱れてはいなかった。
 その櫻井の一連の仕草を見て、香倉は気分を害したらしい。
「いくらなんでも、泣き疲れて眠りこけた人間を襲ったりするか、バカ」
 櫻井は顔を赤くして、香倉を見上げる。
「お前を下の駐車場からこの部屋まで運ぶの、結構大変だったぞ。お前、小柄な割に筋肉ついてるから、重いんだよ」
 饒舌にそう言って部屋を出て行こうとする香倉に、櫻井は「すみません」と謝った。
 香倉が振り返る。
「気分が落ち着くまで、そのベッドで休め」
 櫻井は、部屋を見回した。
 薄暗い部屋には、壁に備え付けられたこげ茶のクローゼットに外国製のオーディオセット、そしてベッドが並んでいる。
 そのシンプルで男性らしい部屋の様子に、香倉の部屋だということがすぐに判った。
 櫻井は身体を起こす。
「 ── でも・・・」
 そう言い淀んだ櫻井に、香倉が返す。
「気兼ねするな。俺は別にどこだって眠れる。それに、誓ってこの前のようなことにはならないから、安心しろ。俺も、お前に手を出すほど、困ってる訳じゃない。── さぁ、もう少し寝てろよ。頭空っぽにして」
 乱暴でつっけんどんな口調。
 でも何だかそれが人間味に溢れているように感じて、櫻井は少しほっとした。
「ありがとうございます・・・」
 素直に感謝の言葉が口をついて出た。
 この人の親切に、自分は今支えられているんだと思った。
「 ── 気にするな」
 香倉はそう言い残して、部屋を出て行った。
 櫻井は大きく深呼吸をして、再びベッドに身体を横たえる。
 ベッドにもぐりこみ、胎児のように身体を丸めると、香倉がいつもつけているトワレの香りがした。
 すぅっと大きく深呼吸をする。
 またとろとろと睡魔が襲ってきた。
 今、身体は必死になって力を蓄えようとしている。
 人間、肉体的だろうが精神的だろうが、限界点が訪れた時は、必ず身体が休息をさせるために睡眠を誘発させるという。深い深い睡眠が、人の心を回復へと導くこともあるのだ。
 香倉はそれを知っていた。
 そのまま待機所に帰す方法もあったのだろうが、ひとり警察の臭いがする冷たい部屋に帰しても、櫻井の心が休まることができないことを察知していたのだろう。
 実際、香倉の香りがするベッドで眠るのは、酷く落ち着いた。
 ── 何も考えずに眠れ。
 耳元で、香倉の声が再び聞こえたような気がした。
 櫻井は、そのまま深い眠りについた。


 次に櫻井が目を覚ますと、食欲をそそる匂いがかすかに香ってきた。
 ぐうぅと腹が鳴る。
 櫻井は顔を赤らめながら、ベッドに身体を起こした。
 そう言えば、今日一日何も口にしていない。
 時計を見ると、再び眠りに落ちて僅か二時間程度しか経っていなかった。案外、この匂いに誘われて目が覚めたのかもしれない。
 ベッドから起き上がると、意外に足取りはしっかりしていた。
 睡眠時間は短かったが、深い睡眠が得られたようだ。気分はすっきりとしていた。身体は多少だるかったが、病院にいた時よりは随分ましだ。
 櫻井は大きく深呼吸をして、おいしい香りを胸一杯に吸い込むと、部屋を出た。
 リビングに入ると、香りはより濃厚になった。
 トマトが煮える香りだ。
 香倉はキッチンカウンターの向こうのスツールに足を組んで腰掛け、雑誌を読んでいる。
「起きたか」
 櫻井の方には目を向けず、雑誌を見たまま香倉が言う。
「はい」
 櫻井はそう返事をしたが、うまく声が出なかった。
 櫻井がごほんと咳をする音を聞いて、ようやく香倉が後ろを振り返る。
 彼は椅子から立ち上がって冷蔵庫を開けると、中から冷えたミネラルウォーターのボトルを取り出し、大ぶりのグラスにそれを注いだ。無言で、それを櫻井に差し出す。
 櫻井は、カウンター越しにそれを受け取り、一気にそれを飲み干した。
 ── 美味い。
 ただの水なのに、こんなに美味く感じるなんて。
 櫻井は、カウンターにグラスを置きながら、リビングを見渡した。
 あちらこちらに、ダンボールの箱が詰まれてあり、本棚の本があらかたなくなっている。
「引越しするんですか?」
「ああ。あのクラブから撤退命令がくだったからな。ここの生活も、次の赴任先が決まったらおしまいという訳だ。潜入捜査先でのキャラクターによって、身分相応の生活をすることになっている」 
「そうなんですか・・・」
 香倉が改めて公安の特務員であることを思い知った。
 大変だろうと思う。
 常に自分個人の自我をはっきり持っていないと勤まらない仕事だ。
 へたすると、自分の演じているキャラクターに飲み込まれ、自分という本来の意味を無くしてしまいそうになりそうだ。
 その意味でも、厳しい仕事だと言えるだろう。
 その点香倉は、揺ぎ無い個性を持っている。
 表向きはどんな風に装っても、その根底には強い自我と信念を持ち合わせている。
 ── そんな人間になりたい・・・。
 櫻井はそう思った。
「そこに座れ。飯、食うだろ」
 香倉がキッチンに向かいながら言う。
「いただきます」
 櫻井は、リビング側にあるスツールに腰掛けた。
 その櫻井の前に、食器がどかどかと並べられる。
 チキンのトマト煮にアボガドのサラダ、鮭とキュウリのマリネ。最後に、大ぶりの茶碗によそわれたご飯。
 イタリア料理のレシピの最後に、よもや茶碗に盛られた白飯が出てくるとは思わなかったので、櫻井は思わず香倉の顔を見た。
「なんだよ、その顔。── パンよりは飯の方がいいんだろ。お前的に」
 事実それはそうだったので、櫻井は箸を持ち、両手を併せた。
「いただきます」
 ガツガツと見事な食いっぷりの櫻井を、香倉は呆れる顔で見つめた。 
「よっぽど腹が減ってんだね、お前」
「おかわりください」
 あっという間に茶碗を差し出す櫻井に、「はいはい」と香倉は溜息をついて茶碗に新たな白飯をよそう。
「ありがとうございます。・・・あの・・・」
 再びスツールに腰掛け、雑誌を見る香倉に櫻井はおずおずと声をかけた。 
「何だ」
「香倉さんは食べないんですか」
「作り腹が張ったんだよ。さっきちょっと摘んだしな。それに・・・」
 香倉が櫻井の前のきれいに平らげられようとする料理を見て言った。
「お前のその食いようを見てたら、もういいやって感じだよ。── ひょっとして、チキンもか?」
「はい。お願いします」
 香倉は空っぽになったシチュー皿を取ると、再びそれに先ほどと同じ量のチキンを盛った。
「食えるか?」
「問題ないです」 
「あ。そ」
 どこかの名作アニメの一場面みたいだな・・・と香倉はぼんやりと思いながら、再びガツガツと食べ始める櫻井を見つめた。 
「あ、お前、それ食い終わったら風呂に入れよ。顔とか腕とか、まだ血がこびりついてるし、それに、その伸ばしっぱなしの髭を剃れ」
 櫻井は、口をもごもごさせながら顔を上げた。今気がついたという顔つきをしている。実際、櫻井はほとんど丸二日間、髭を剃っていないことになる。
 香倉は、風呂場へと姿を消した。すぐにお湯がバスタブにぶつかる音が聞こえてくる。
 櫻井は、おかわりした分もきれいに平らげると、食器を流しに運んで洗おうとした。そこでハタと気がつく。
 自分の右腕に堅く巻かれた包帯。
 濡らしては駄目だと医者から堅く言われた。
 ── どうしよう。
 櫻井が考えあぐねていると、背後から香倉がそれを覗いた。 
「ああ、片付けといてやるから、風呂に入れ」
「・・・香倉さん。風呂、入れません」
「え? ── あ、そうか」
 香倉もやっと気がつく。 
「しかし・・・。その髭と血はどうにかした方がいいぞ。それにはっきり言って、お前、頭も汗臭い」
「え!」
 背後を振り返り、櫻井は顔を赤らめる。
 タオルで血は拭ったものの、その他にも色々なことがあって散々暴れている。
 なんせ酷い一日だったのだ。血もこびりついていれば、汗臭くもなる。
 櫻井が俯いて考えていると、香倉が軽く櫻井の頭を叩いた。
「しょうがないな。手伝ってやるよ。とにかく風呂に行け」
「すみません」 
 櫻井が風呂に向かう間、香倉はキッチンを探してラップを取ると、櫻井の後を追った。
 ドアをノックする。
「おい、開けるぞ」
「はい」
 バスルームの手前にある脱衣所にいた櫻井は、制服のシャツを脱いでいるところだった。 
「腕を出せ」
 櫻井が差し出す右腕に、ラップを分厚く巻きつけていく。
「これで大分ましだろ。先に中に入って待ってろ。ちょっと椅子を取ってくる」
 香倉は脱衣所を出て、本棚のある部屋で踏み台代わりに使っている小さなスチール製の椅子を持ってバスルームに引き返した。
 脱衣所でワイシャツを脱いで、身体にフィットするタイプのランニングシャツ一枚なり、ズボンを膝まで捲り上げると、椅子と髭剃り用のフォーム、剃刀を持って、中に入った。
 腰元に緩くタオルを掛けただけの恰好で、櫻井は風呂場の椅子に大人しく座っていた。香倉はその背後に椅子を置き、温タオルを作る。
 椅子に座り、後ろから櫻井の頭を抱え、上向きにさせた。丁度後ろから膝枕をしている恰好になる。
 髭の伸びた部分に温タオルをのせてやると、櫻井は気持ちよさそうに目をつぶった。
 しばらくして温タオルを外すと、そこにフォームを塗りつける。
「動くなよ」
 香倉はそう言って、剃刀を当てる。
 その瞬間ピクリと櫻井の身体が揺れたが、「安心しろ」と香倉が言うと、再び力を抜いて香倉に身を凭れ掛けてきた。
 ゾリゾリと髭を剃る音がバスルームに響く。 
「まったく、世話のかかる男だよ・・・」
 香倉がそう言うと、口を開けることのできない櫻井が目を開いた。
「気持ちいいか」
 香倉がそう訊くと、瞬きをして櫻井は頷く。
「まったく・・・」
 苦笑いしながら香倉は髭を剃り上げた。温タオルで、残ったフォームを拭い取る。
「次は頭だ。そこのシャンプーを取ってくれ」
 櫻井は、自分の前にあるラックからシャンプーを取ると、香倉の足元にボトルを置いた。
 その間に香倉は、ズボンの後ろポケットから煙草とライターを取り出し、煙草を口に咥え、火をつけた。二、三回煙草を吹かして再び咥え直すと、かがんでシャンプーを手に取った。
 その際に、香倉の右肩が櫻井の視界に入る。一瞬腕を見入った後、櫻井はさっと視線を前に戻した。 
「・・・本当だったんですね・・・」
「何が」
「刺青・・・」
「ああ、これか」
 香倉は、シャツから垣間見える自分の右上腕を見下ろした。 
「香港にいた頃にな。どうしても必要にかられて」
 煙草を咥えたまま、聞き取りにくい声で香倉は答える。
 櫻井は、再び後ろを振り返る。
 確かに、日本の刺青とは違うようだ。
 細い華奢な線画の繊細なタッチの刺青である。赤いラインで彩られたその絵柄は、朱雀だろうか。右上腕から右胸元にかけて広がっているようだ。だが、シャツに隠れてよく見えなかった。
「それにしてもお前、どうして知ってるんだ」
「大石さんが・・・。そんな噂が警視庁の上層部で流れてるって」
「クソ、出所は榊のオヤジだな」
 香倉は櫻井の頭を掴んで無理やり前に向けさせると、湯をぶっ掛けた後、シャンプーをその頭に垂らし、ジャクジャクと泡立てた。
「イタタ・・・。痛いです、香倉さん」
「わがまま言うな」
 機嫌が悪くなったのか、櫻井の頭を泡だらけの手で軽くパンと叩くと、再び香倉はガリガリと頭を洗った。
「流すぞ」
 櫻井がぎゅっと目を瞑る。香倉は何回か湯をかけ、シャンプーを流した。
「ついでに背中も擦ってやる。スポンジを貸せ」
 香倉は、スポンジにボディーソープを垂らすと、所々血が残ってこびりついていた箇所をゴシゴシと擦った。 
「前は自分でしろよ」
「はい」
 櫻井は、手のひらにボディーソープを取り、直接肌を擦る。
 櫻井の腕が動く度に、背中の筋肉もそれに添って動いた。
 浅黒く滑らかな肌。真っ直ぐに伸びた背筋。美しい影を落とす筋肉の影。
 純粋に美しい背中だった。
 その背筋の真ん中を、ボディソープの泡がするすると伝わり、小気味よく締まった尻の割れ目の奥へと落ちていく。
 香倉はふいに手を止めた後、ぷかぷかと煙草を吹かして、スポンジを前に放った。
「背中の汚れは取れたぜ。あとは自分でできるだろ」
 香倉は自分の手の泡を湯で流し、椅子を持って立ち上がった。
 さっさと浴室を出て行こうとする香倉を、「香倉さん!」と櫻井が呼び止める。
 香倉が「何だ」と振り返ると、櫻井は立ち上がって香倉に頭を下げた。 
「ありがとうございます。本当に。何から、何まで」
 香倉は、しばらく無言で櫻井を見つめると、 「あんまり誘うな。これでも一応、我慢してるんだ」 と言い捨て、浴室から出て行った。 
「え? あ・・・」
 櫻井がやっと意味を理解し、下を見下ろす。
 ボディソープの泡に濡れ光る自分の身体は、確かに少し興奮していた。
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