触覚

国沢柊青

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act.32

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 高速を降りると、櫻井はすぐに実家のあった場所を尋ねた。
 坂道の多い町で、細い路地がいくつもあった。開発される前の古い街並みが残っている地域だ。そのせいだろうか、意外なことに櫻井の実家はまだそこにあった。
 既に廃墟と化した家。
 元々が頑丈な造りの建物だったので、外観はほぼ昔と変らない。
 だが、あんなに几帳面に手入れされていた庭は荒れ果て、縁側の窓ガラスのいくつかは割れていた。
 昔不吉なことがあったせいなのだろうか。門へ回ると、古びて真っ茶色に汚れた『売り家』の看板が鎖で門に結わえられている。
 櫻井は門の前に立ち、瞳を閉じた。
 深く息を吸い込む。
 思えば、この門の前で、涙に暮れる姉と別れたのだ。
 必死に探して、それでも見つからないと諦めたその時、姉にはもう二度と逢えないのだと思った。それが、こんな形で姉の存在を身近に感じることになろうとは。
 櫻井は、目の奥が充血する感覚を覚えた。
 香倉と知り合ってから、自分は随分と涙もろくなったと思う。
 正直、自分が弱くなったのか、強くなったのかがわからない。
 櫻井は再び大きく深呼吸をすると、身軽な身のこなしで門を登って、向こう側に飛び降りた。
 玄関には鍵がかかっていた。
 庭に周り、ガラスの割れた窓から入ろうとしたが無理そうだった。
 ふと、記憶のさざなみが櫻井の中で沸き起こる。 
 櫻井は勝手口に回った。
 財布から銀行のカードを取り出すと、ドアの間に挟んで上下に動かした。直にカチャリとドアが開く音がする。
 子どもの頃、両親や家政婦が家にいない時に限って鍵を忘れて、よくここからこうして家の中に入っていた。いざと言う時のために、プラスチック製の洗面器を足で割って、破片を周囲に撒き散らしていた。その破片を使ってドアを開けるのは実に簡単で、櫻井はそれを姉によく自慢していたものだ。20年経った今でも、身体に染み付いている。
 懐かしいやら物悲しいやらで、櫻井は一瞬少し混乱した。
 勝手口から中に入る。
 家の中はがらんとしていて、床は砂埃が覆っていた。一歩歩く度にじゃりじゃりと音がする。ところどころに割れた電球の破片やら倒れた家具がそのままになっていた。落書きも見える。
 どうやらここは近所の子ども達の遊び場になっているらしい。縁側のガラスが割れていたのは、子ども達の仕業ということか。
 部屋を覗いていく度、昔の生活が蘇ってくる。 
 僅か7年間しか過ごさなかった家なのに、こんなにも鮮明に記憶が蘇ってくるなんて。
 母がいつも疲れたように座って、ぼんやりとしていた台所のテーブルと椅子。
 時折くる家政婦が磨いていた黒い板張りの廊下。
 姉がよく眺めていた鏡 ── その鏡は割れている・・・。
 子ども部屋の押入を開け、隅の床板を触ると、コトリと傾いた。
 床板を外す。
 そこには、アルミ製の大きな缶が置かれてあった。あの日のままだ。
 缶を取り出し、蓋を開ける。
 幼い頃の櫻井がここへ隠した、思い出の宝物だった。
 ビー玉、水鉄砲、パチンコ・・・。
 櫻井は、缶の中を探りながら、あれっと小首を傾げた。
 一番お気に入りだったプラモデルがない。父と一緒に作った戦闘機・・・。
 ── あれは、壊れたんだっけ・・・?
 定かでない曖昧な記憶もそのままに、櫻井は缶に蓋をすると部屋を出た。
 廊下に出る。
 櫻井は、ゆっくりと足を進めた。
 長い廊下の先にある部屋。
 櫻井はドアの前に立ち、ゴクリと唾を飲み込んだ。ドアに触れた手がブルブルと震えている。
 今でも、重厚なこの気の感触は変わりない。
 父の部屋。
 全ての始まりとなった舞台だった。
「しっかりしろ・・・・」
 櫻井は自分に言い聞かせて、ドアを開けた。
 ギギギギギと軋む音がして、あの忌まわしい部屋が櫻井の前に現れる。
 中は意外に明るい。
 窓を覆っていた大きな本棚達がなくなっていたからだ。
 ここにあった本は貴重なものも多く、ほとんどが大学や図書館に寄付されたと聞き及んでいた。
 だが、その中の数冊は、あのマンションの隠し部屋に収められてあった。
 櫻井は、ゆっくりと一歩部屋の中に入った。
 今は骨組みだけになった木製のベッド。父の部屋は特に洋式のインテリアで統一されていた。
 板張りの床には、所々黒い染みがある。
 拭っても拭いきれない血の跡だろうと思った。
 櫻井は、両手で顔を被う。
 姉に覆い被さっていた父。まだ成熟していない身体を開いて、父を受け入れていた姉。
 姉や家政婦の悲鳴と、父の断末魔の唸り声が蘇ってくる。
 心が痛い。
 そもそも人間の心など、どこに存在するかもわからないのに、鷲づかみにされているようだ。
 いろんな人の手が、櫻井の腕を掴んだ。
 秘密の呪文を教えてあげると庭で咲いているカキツバタの茂みの裏に招き入れた姉の手。
 刺された直後、ナイフを持っていた手を力強く掴んだ父の手。
 父を刺した時、後ろから自分を羽交い絞めにした家政婦の手。
 家を出て行く時の母の強引な手。
 母が親権を放棄し、都会の孤児院から自分を連れにきた施設職員の手。
 その他にも、様々な手が櫻井に触れ、彼を傷つけていった。
 悲しみや苦しみが溢れて、どうしようもなくなる。
 次々と記憶が流れて止らなくなる。
 ── これでは駄目だ。これでは・・・・・。
 櫻井がそう思った矢先、温かい手が震える櫻井の腕をそっと握ってくれた感覚を思い出した。
 櫻井は、じっと閉じた瞼の奥で、“見て”いた。  
『もうそんなに、ひとりで頑張るな』 
 あの時。
 吉岡の入院した病院の帰り、車を止めて初めて優しく抱いてくれた香倉の手。 
 そうだ。
 俺は独りで戦っているんじゃない。
 櫻井は瞼を開いた。
 今までと変らない空間が広がっていたが、厳密に言うと、さっきまでとは違って見えた。
 自分は、戦うためにここに来た。 
 生きるために、ここに来たんだと思った。


 大石に啖呵を切って監察医務院を後にした香倉だったが、正直何の不安もないと言えば嘘になった。
 自分が立ち向かおうとしている相手が、どれほど危険な人間であるかということは、大石に言われなくても十分にわかっている。
 科学では解明できない人間の恐ろしい力が、この事件を終わることなく支配し続けているのだから。
 勿論、香倉だって過去そのような事件に出合った事はない。これまで数多くの様々な経験を積み重ねてきたが、今回のような“得体の知れない恐怖”を感じるのは初めてのことだった。 
 香倉とて、自分が完璧な人間でないことは知っている。相手に付け入る隙があることも確かだ。普通の人間ならば、心の何処かに何かしらの悲しみや罪を持っているはずである。
 だが、それだからこそ尚更許せなかった。
 負けるわけにはいかないと思った。
 ひょっとすれば、自分の力なんて足元にも及ばないかもしれない。抵抗するよりもなによりも、端からそんな次元の話ではないのかもしれない。
 だが、負けるわけにはいかないのだ。
 警官としてのプライドと、そして何より深い傷を背負うことになった櫻井のために。
 実際、兄の言うことは正しい。
 人に手を差し伸べるということは、その人の傷をも一緒に背負い込むこと。そしてその覚悟ができない限り、人を本当に救うことなんてできないこと。
 そう言われ、香倉は迷った。
 珍しく自分に苛立ちを感じて、うろうろと病室前を歩き回った。自分を試されているような気がして、居心地が悪かった。
「お前の人生をかけてまで救わねばならない人なのかな? 人生のギリギリを何とか生きている彼に手を差し伸べることとは、つまりそういうことだ」
 だが、兄のこの言葉を思い起こした時、香倉は決心をしたのだ。
 櫻井は、自分の人生をかけてでも救うべき人間なのだと。
 櫻井は昔の自分だった。
 その生い立ちが似ていたせいだけではない。
 暗闇を手探りで生きてきた苦しみ。そしてそんな生き方を選んできたお陰で、背負わなければならなくなった孤独。
 ただひたすら正しく生きようとしてきた人間が、どうしてこのような仕打ちを受けねばならないのか。
 お前を支えてやる言ったのは、本心からだ。
 今までそんな言葉、誰にも言ったことはない。
 それまで支えてやりたいと思った人間はいた。だが、実際に言葉に出して、それに魂が篭ったのは、あの時が初めてだ。
 不器用だが、必死にしがみ付いてきた櫻井。
 そのぬくもりを救うことが、自分の孤独をも救うということを肌で知った瞬間だった。
 ── 自分は、逃げる訳にはいかない・・・。
 香倉の足は、自然と例のマンションに向かっていた。
 車は櫻井に貸していたので、タクシーを探しながら、歩く。
 だが、平日の昼間、人通りの全くない裏道ではタクシーは通りかからない。とにかく大通りに出ることが先決だ。 
 香倉がそう思った矢先、携帯電話が鳴った。
 立ち止まり、懐から電話を取り出す。着信の番号を見ると、榊からだった。
『おい、例のねぇちゃんのマンション。こっちで押えたからな』 
 電話に出るなり、あのだみ声がそう告げた。 
「押えたって?」
 榊の動きの素早さに正直驚いた香倉は、「どういう権限で押えたんです?」と厳しい口調で続けた。
『権限も何もあるか。大石の事件は表向きだけだったとしても無事解決。それならこっちは遠慮する必要がないだろう。こっちはこっちで、あの議員の件で無関係ではないんだ。お前が言ったことだぞ』 
 それは榊の本意ではないと思った。
 いくら公安でも、そんな無茶な押え方はしない。不自然すぎる。
 大石のケースを閉めたものの、不安に思った幹部連中が弱腰になって榊に取り付いたか。いや、そんな可能性は低い・・・。何より、榊の声に余裕が感じられないことが気に掛かった。それは香倉だからこそ感じえる程度のことだったが。 
「 ── 何を企んでいるんです?」
 そう言いながら、香倉は背後を振り返った。
 黒塗りの車が、香倉の側までスーと近づいてくると、香倉の横でピタリと止まる。
 ドアが開いて出てきたのは、中年の表情のない男二人。サラリーマン風の印象の薄い男達だった。
 彼らの顔を見た瞬間、香倉は全てを悟った。
「大石ですか。大石が、あの写真のことを」
 受話器の向こうから鼻で笑う音が聞こえてきた。 
『残念。不正解。ブーだ。写真のところまではあっているがな』
 ピンときた。
「河瀬さん」
 香倉がそう口に出すと、榊がふふふと笑った。
『公安のサラブレッドをみすみす潰すつもりかと痛い言葉を言われたぞ。部隊の管理をお前はどうしているのかとな』
 榊にそんな口を叩けるのは確かに河瀬しかいない。警視総監でさえ、榊には一目置いているのだ。 
『もっとも、河瀬さんもお前のじゃじゃ馬振りはご存知だ。河瀬さんの優しさだと思え。本日よりお前の身柄を拘束する。写真のことを知っているお前だ。異存はないな』
「今更ケツまくれっていうんですか? あわよくば相手を確保できる可能性だってある。異存だらけですよ」
『可能性はこの際問題ではない。俺はリスクの高すぎる取引はしないし、お前が相手の手に落ちてみすみす殺されることを選ぶなら、いっそこの俺が殺してやる。いいか、その連中には半殺しにしてでも連れて来いと言ってある。観念しやがれ』
 香倉が抗議する前に、電話は切れた。
「チクショウ」
 香倉がそう呟いた瞬間、青白い電流がバチバチと音を立て、無骨な姿のスタンガンが、香倉の首筋に押し付けられたのだった。


 櫻井は廃墟となった実家を出て、近所の旧家を聞き込みしながら回った。
 警察手帳を持っていない櫻井だったが、身体に染み付いた刑事以外の何者でもないその雰囲気のお陰で、手帳を見せずとも不審に思われなった。
 聞き込みをした旧家の中には、櫻井が子どもの頃に見知っていた家もあったが、どの家も櫻井が昔近所に住んでいた少年であるということは気づかない様子だった。なにせ20年も昔の話だったし、櫻井の質問内容が昔ここら辺一帯の家の主治医をしていた医者についての質問であったがために、櫻井の過去とは結びつかなかったようである。櫻井も敢えてそのことは言わず、ただ淡々と片足の悪い医者の行方を訊いて回った。
 結局、数軒の家から聞いた情報で、片足の悪いその医者は、名を『富樫』といい、10数年前に隠居をして、開業医である息子夫婦の家に越して行ったとのことだった。
 息子が経営する病院は櫻井の実家がある町にはなく、聞き込みをしたどの家もその病院のことまでを知っている者はいなかった。
 櫻井はその町の中心街にある電話局に向かい、その町周辺の電話帳を調べることにした。通常の捜査活動でもよく行っている方法である。
 だがあいにくと、町の周辺にも富樫と名のつく病院はなかった。櫻井は、他の数冊の電話帳を手に取ると、もう少し調べるエリアを広げてみることにした。
 おぼろげに空腹感を覚えだした頃、電話帳のナンバーを辿る櫻井の指が止まった。
「あった」
 隣の県の電話帳に、『富樫内科クリニック』という名前を見つけた。 
 早速櫻井は、その病院に電話を入れてみる。
 電話を掛けた時間帯が丁度午後の忙しい診療時間帯であったがためにしばらく待たされたが、やがて富樫内科クリニックの院長 ── つまり、あの足の悪い医者の息子が電話口に出た。
 櫻井が20年前のことを訊くと、息子はその頃のことをよく覚えていた。
 幸運なことに彼の父親は現在ベッドの上の生活を強いられていながらも元気にしており、息子夫婦の家で暮らしているという。「おそらくボケてもいないから、あなたの訊きたいことは教えてもらえるのではないだろうか」と好意的な答えが返ってきた。
 息子に自宅の住所を教えてもらい、これから家を訪ねることに対して了解を取ると、息子は「家で父親の介護をしている妻に連絡をいれておく」と言ってくれた。
 20年前、大人達は姉に何をしていたのか。何を隠していたのか。
 ── この人ならば、その秘密を知っているに違いない・・・。
 櫻井は、手近にあったチラシの裏に書き付けた『富樫久信』の名前を見つめてそう思った。
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