触覚

国沢柊青

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 人間なんて・・・。
 人間の人格なんて、微弱な電気信号で形成される薄っぺらい経験記憶により作り出されるに過ぎないもの。
 その脆さを熟知し、アクセスする方法さえ確立すれば、その人格を意のままに書き換えることも可能。

 そうやっていつも、いろんな人間を惑わせてきたんだな、お前は。
 中谷由起夫や橘邦夫、吉岡刑事、そしてお前の父親でさえ、お前のその化け物じみたエゴに操られ、犯さずともよい罪を重ねたのではないのか。そうじゃないのか。

 私はその秘密を知っていただけ。
 お前達が言うような化け物や呪術者なんて、陳腐なレッテルとは無縁のもの。
 私はより崇高な導きをお前達に与えるもの。 
 私は、お前達の悩める魂の欲望を解放し、世俗の柵を解いて己の欲望のまま行動をするための手助けをしてやっているに過ぎない。

 崇高な導きだと。
 ふざけるな。
 これがそうだというのか。 
 この溢れ出てくる感情がそうだと? 
 俺はこんな悲しみに出会ったことがない。 
 今にも胸が押しつぶされそうだ。
 人は罪を重ねる。 
 そしてそれは、雪のように降り積もり、個々の心に覆い被さっていく。
 だが、それを解放するために他人を傷つけろというのか。 
 己の弱い心を誤魔化すために、お前の父親や母親がしたように、自分の身近な人間を傷つけろと? 
 お前は悪魔だ。 
 人の悲しみを利用して、己の欲望を満たす悪魔に違いない。
 お前などの手に、あいつは落ちたりしない。

 お前の私に対する批判は、お門違いというものだ。
 お前の血は、私やあの子とは交わることができない。
 あの子と私の間の、決して消えることのない絆は、何者も汚すことができないのだ。
 私達の意識の奥底には、父の遺伝子から受け取った、選ばれし者の絶対記憶が存在する。
 我らはそれを幼い頃から、現実の体験記憶と共に確実なものとしてきたのだ。
 その価値がお前には判るまい。
 あの感触。あの刺激。 
 お前の汚れた手であの子に触れたとしても、お前には何もわからないのだ。

 お前こそ、何もわかってやしない。
 あいつの悲しみ、痛み、それの欠片でもお前は感じたことがあるのか。
 どんな気持ちでこれまで生きてきたか。
 どんな気持ちでお前の誘発した数々の“罪”と向き合ってきたか。
 お前には、わからない。 
 わかるはずがない・・・。

 愚かな者よ。
 わかるとは、そういうことではない。 
 それは最も根本的な場所にあるもの。
 皮膚の下に流れる血。全身に張り巡らされた感覚。細胞の、そのもっと先の、遺伝子をも越えた分子の段階から、我らは引き合っている。
 ああ、お前には、わかるまい。
 人の手がその肌に触れて感じるように、私達は研ぎ澄まされた脳髄で人の心に触れるのだ。そして深いところで混じり合う。
 この特別な『触覚』が、お前にわかるのか?
 脳細胞の一つひとつが直に歓喜する感覚。
 選ばれた者でしか味わえない電子信号を越える神の領域。
 お前にわかるはずがないのだ。
 私はあの子の心を、この脳髄で鷲掴みする。
 そしてあの純粋な心を、私の脳にまといつかせるのだ。
 永遠に汚れない愛情。
 真実の心。
 私をこの泥まみれの奈落から救い出してくれるのが、あの子の純粋な血の役目。
 それを阻むことは、誰にもできない。
 お前がいくら抵抗し、あの子のことを想っても、私の感覚に比べれば、取るにたらないちっぽけな信号なのだ。
 お前達のような人間は、私の世界から無くなるべきである。
 特にその汚らわしい手で、あの子に触れたようなお前は。
 お前のような人間が『愛情』を語るというのか。
 決して拭うことのできない罪に汚れきった、お前のような人間が。
 お前のようなヤツは許せない。
 お前は木戸の隙間を這い寄ってくるような害虫。
 お前なんか、悲しみに潰されてしまうがいい。



 櫻井は、注意深くスピーカーから洩れてくる男の息づかいまでも聞き取るように、神経を研ぎ澄ました。
『櫻井正道だな』
 有無を言わさない声。
「はい。そうですが、そういうあなたは、誰なんです?」
 沈黙が流れた。
 櫻井は瞳を閉じる。
 喉にからみつくような呼吸音。微かに聞こえる蛍光灯の音。
 何の確証もなかったが、ふいに櫻井の脳裏に閃いたものがある。
 つい先ほどまでわからなかった謎が、一気に明るく照らし出されたような感覚。
 いまだ、刑事の勘とやらが生きているのか。
 耳を通して、まだ会ったことがない男の感情が、脳の奥に浮かび上がる。
「 ── 榊警視正ですね」
 スピーカーの向こうでは何も物音や声はしなかったが、それでも微かな動揺が感じ取れた。
「香倉さんを拉致したのはあなただ。 ── 香倉さんが次の標的になったんですね。そうなんですね。だからあなたは・・・」
『随分と察しのいいヤツだ。この先を話すには、お前の携帯だとちとマズい。お前のは、あの男のもののようにプロテクトが掛かっていない。これから言う場所に向かえ。そしてその場所で男に会ってもらう。お前には訊きたいことが山のようにあるんでな』
 だみ声の男は、手早く近くの工場地帯の一角を指定すると、櫻井が次に何かを言い出す前にぷっつりと電話を切ったのだった。


 櫻井は、車を走らせた。
 地図を見なくとも、その場所は容易にわかった。
 大規模な工場地帯。
 大きな建造物に向かって車を走らせればすむことだった。 
 たくさんの企業の工場が隣接している工場地帯の入口につくと、閉ざされた門越しに指定された工場街の案内看板が見えた。
 櫻井は車から降り立ち、周囲を見回す。
 もう深夜に差し掛かる時間帯だったので、人気はなかった。
 よくよく目を凝らすと、各社の工場の入口ごとに守衛が居るようで、工場地帯の入口であるここには警備員はいないようである。
 櫻井は再び車に乗り込み、フェンス越しに指定された工場街への看板を目で追いながら、工場地帯のフェンス越しに車を進めた。
 そして目立たないところを探して車を置くと、2メートル以上もあるフェンスをあっという間に乗り越えた。
 乗り越えた先は雑草の生えた藪になっていて、櫻井は周囲に人気がないかどうか念のためしばらくそこで様子を伺った。だが、虫の鳴く音や風が草を揺らす音以外、聞こえてこない。
 櫻井は、看板の指し示す方向に向かって注意深く足を進めた。その足元から、重々しく長い影が伸びる。 
 空気が重く湿っている。
 空を見上げると、富樫家を出た時よりも更に暗雲がたれ込めているような気がする。
 不穏な風が、ざわざわと木立を揺らした。
 道の両脇に所々点けられた街灯の青白い光が、アスファルトを不気味に照らし出している。
 予定なら、既にここは指定された工場街であった。
 聞いたことがないような会社の持ち物である。
 櫻井が立っている約50メートル先には、別会社の名前が書かれた工場の壁が見えていた。
 背後で唐突に人の気配を感じて、櫻井は建物の陰に素早く身を隠す。
「お前、俺の気配がわかったのか」
 道路上に、遠慮のない男の声が響いた。
 櫻井は眉間に皺を寄せ、建物の影から顔を出す。
 コツリコツリと足音を立てながら歩いてくる男を見て、更に櫻井は顔を顰めた。
 どこかで見たことのある顔だ、と思った。
 年の頃は四十代始め。くたびれた背広に無償髭の生えた顔。中肉中背で、伺いしれないような飄々とした表情を浮かべている。
「あなたは・・・」
 櫻井も、目の前の中年男が榊警視の指定した男であることを察し、男に向き合った。
「警視庁公安部の安部だ。お前には悪いが、お前と香倉裕人の動きをずっと追わせてもらっていた」
 櫻井は記憶の糸を辿った。
 次の瞬間、「あ」と声が出る。
 思えば、度々櫻井の視界の隅に登場していた男だった。
 例えば、香倉のマンションの駐車場で。ある時は、吉岡が運ばれた病院の廊下で。櫻井が空き巣を逮捕した時の野次馬の中にも、その顔があった。どれもあまりにさりげなくて、気にも止めないような希薄な存在感。
 だが、目の前の男は、臓物がギュッと萎縮しそうなほどの圧力感を持って、櫻井の目の前に立ちはだかっていた。
「俺の気配がわかっただけでも大したものだ。うちのサラブレッドが心酔するのもわかるような気がする」
 ── サラブレッド・・・? ああ、香倉さんのことか、と櫻井は思った。
 安部の少し嫌みとも取れる口調を聞いて、今更ながらに香倉が、キャリア出身の変わり種であることを実感した。
「いつから ── いつ頃から自分達を・・・」
 櫻井が訊くと、安部は懐からタバコを取り出し、それを口に銜えながら、肩を竦める。
「香倉が警視庁で、お前さんの過去のレコードを検索してからだ。うちの親父は、あのお兄さんのことになると余裕がなくなる。過保護に育ててるからな。じゃじゃ馬息子が何かしら自分で勝手に動いているのが心配でたまらないのさ。だが、本格的にヤバイと思い始めたのは、ここ数日前のことだぜ。例の事件を起こしている相手 ── お前のネェチャンとやらが、あそこまでのことをやらかすとは正直思っても見なかったからな」
「一体何が・・・」
 安部はタバコの煙を荒っぽく吐き出すと、タバコを挟んだ手で無精ひげが生えた顎をボリボリと掻いた。
「香倉裕人がお前のネェチャンの次の標的にされたんで、安全な場所にアイツを隔離した。だが、安全だと思いこんでいたそこに何者かが現れ ── といってもお前のネェチャンだろうが ── うちの工作員を二人ばかり“キャベツ”にして、香倉を連れ去った」
 あまりのことに、櫻井は言葉を失った。
 香倉は今、“本当に”行方がわからなくなっているのだ。
 櫻井は、安部を睨み付けた。
 公安が力づくで介入したお陰で、失われなくともいいはずの命が二つも失われ、あろうことか標的にされている香倉でさえも守ることができなかったのだ。
 安部は、櫻井の凄まじい光を放つ瞳を真っ向から受け、自嘲気味に顔の筋肉を緩めた。
「まぁ、そんな目で見るな。お前さんの言いたいことはわかるさ。 ── はっきり言って、今回のことは公安の失態だ。いや、親父の失態と言っていいだろう。相手を甘く見すぎていたんだな。もっとも、警察の幹部連中は、元々自分達が蓋を閉めた手前、親父を責めたりはできないだろうが、親父は少なくとも自分でそう思っている」
 櫻井は苛立った。
 今こうしている間にも、あの人は危険に晒されているのだ・・・。
「どうして・・・。あなた達は一体何をしているんだ?! あなたが、今ここで俺に会っていることに何の意味があるんです?!」
 櫻井は容赦なく、安部に噛み付いた。
 歯痒かった。
 安部は、淡々とした表情で、櫻井を見る。
「香倉が連れ去られた後に残された唯一の手がかり。その意味を知る者が、恐らくお前一人だからだ」
 櫻井は、ぴたりと口を閉ざした。
 安部が懐から出してきた“手がかり”。
 本来なら、今も北原家の廃墟の床下で眠っていなければならないもの。
 櫻井の目の前に翳されたものは、幼い頃、父と一緒に作って遊んだ、戦闘機のプラモデルだった。
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