触覚

国沢柊青

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act.37

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 俺は、罪深き罪人。
 俺が愛した者は、俺の目の前で死んでいった。
 俺は救うことができなかった。
 救うと約束したのに、いつも約束を果たすことができなかった。
 なのに俺は、自分の心が弱い故に、数々の人間を愛してきた。
 そして“失って”きたのだ。
 俺と出会わなければ、失われずにすんだ生命。
 たくさんの悲しみ。痛み。
 己の孤独を貫き通さねばならないはずなのに。
 俺はまた、罪を重ねようとしている。
 ああ、何と言うことだ。
 俺が悪い。すべてこの俺が。
 どう償えばいいというのだろう。
 なぁ、櫻井。
 俺はお前を目の前にして、また、罪を重ねる。
 俺は、どうすればいい?
 俺は、どうすべきなんだ。
 答えは、すぐそこにある・・・。


 助手席に安部が乗り込んだのを確認して、櫻井は車をスタートさせた。
「お前、どういう体力してんだ」
 安部が上がった息をどうにか殺しながら言う。
 安部は櫻井のフェンス越えに驚いているのだ。
 彼は、あっという間に背丈を遙かに越えるフェンスをやり過ごす櫻井のバネのようにしなやかな身体に純粋に感心して見せた。
 だが櫻井は、それに答えることはしなかった。
 気持ちが急いて、スピードメーターはあっという間に三桁を指し示した。
 元警察官の分際で、派手な交通違反をしていることが頭の隅に過ったが、今は香倉の命を救うことが何より重要だった。これでもし、一生免許を取り上げられたとしても悔いはない。
 夜の幹線道路は車の往来が少ないとはいえ、まったくない訳ではない。 おまけに地元の暴走族が騒ぎ出す時間帯だった。
「おいおい、あんまり無茶をするな・・・」
 百戦錬磨の安部刑事もシートに張り付き、冷や汗を掻いている。
「しっかり捕まってください。この先、障害物が増えますから」
 櫻井は、アクセルを威勢よく踏み込む足下とは逆に、やたら冷静な声でそう言った。
 目指す高速道路の入口はすぐそこだ。
「お、おい、道路塞がれてるぞ・・・」
 改造した暴走車両が点在する道路。
 そこへ向かって櫻井の乗る何の変哲もないセダン車が突っ込む。
「ぶ、ぶつかるって・・・」
 安部が呟いている間に、櫻井はカースタントさながらにアクセルとハンドル、サイドブレーキを駆使しながら、車の間を縫っていく。
 暴走車両の連中は、文句をつけることも忘れて、普通のセダン車の尋常でない運転裁きをポカンとした顔つきで見送っていた。 
「お、お前さん、公安に再就職したらどうだ・・?」
 はははと引きつった笑みを浮かべながら、安部が額の汗を拭う。
 櫻井達の乗った車は、櫻井が昼間来たばかりの櫻井の実家を目指した。
 香倉が連れ去られた場所に残されたプラモデル。
 間違いなく櫻井の姉、北原正実が残していった代物だった。
 だってあれは・・・あの隠し場所は、姉しか知らない筈だから。
 まさしくそれは、櫻井にしかわからないメッセージだった。
 榊警視が櫻井に目を付けたのは正しい判断といえる。榊も必死なのだろう。
 姉は ── 北原正実は、最後の決着をつけようとしているのだと思った。古の場所で、古の罪を精算しろと言っているのだろう。
 ならば、受けて立つしかない。
 今度は、俺が香倉さんを救う番だと思った。
 ── 必ず救ってみせる。どんなことをしても。そして・・・どんな結果が待っていようとも。


 ついに雨が落ちてきた。
 すぐに、どしゃぶりになった。
 ワイパーが多量の雨を押し流す先に、真っ黒く浮き上がった櫻井の実家が現れた。
 車の外に出ると、木造の建物にバラバラと激しく雨が叩き付ける音がしていた。そのお陰で、中の気配が全く伺えない。
 一見すると、中には誰もいなさそうだった。
 安部もコートの袖で雨を避けながら塀越しに中を軽く覗き込み、「本当にここに居るのか?」と櫻井を見た。
「居ます。絶対に」
 櫻井は、あっという間にびしょ濡れになった髪を掻き上げながら、表の門を見つめていた。
 櫻井が来た時にあったはずの、門を結わえていた鎖がなかった。そして門は、誘うように少し開いている。櫻井を出迎えていることに他ならなかった。
 櫻井が門を押し開け中にはいると、安部もすぐについてきた。
 櫻井はふり返る。
「大丈夫ですか。あなたにも危険が及ぶかもしれない」
 安部は再び肩を竦める。 
「ここまで来ておいて、外で見学ってこともないだろう」
 櫻井は玄関のドアに触れた。
 案の定、鍵が開いている。
 雨音に混じって、古いドアが開く嫌な音がした。
 家の中に踏み込む。 
 暗くて中の様子がわからない。
 だが、櫻井にとっては身体にしみこんだ空間だった。
 躊躇いもなく足を進める。
 ふいに背後がぼんやりと明るくなった。
 振り返ると、安部が火を灯したライターを翳していた。もう片方の手には、銃が握られている。
 それを見て、櫻井は肌が泡立つのを感じた。何とも言えない緊張感が辺りに漂う。
 櫻井が足を進める度に、廊下に小さな水たまりができていく。
 廊下が軋む音は、激しい雨音にかき消されていた。
 ライターの小さな明かりに照らされる黒光りした廊下の壁が、湿気のせいなのか妙に艶めかしく見えた。
 息が詰まるような閉塞感を感じさせる。
「随分広い家だな・・・」
  溜息にのせて、安部の囁き声が聞こえる。
  だが、櫻井の目指す部屋はひとつだった。
  すべての始まりの場所。
  罪深き印が残っている部屋。
  その部屋にまで続く廊下に出た時、二人はふいに足を止めた。
  廊下の一番奥、ピッタリと閉じられた重厚なドアの隙間から、細い線状の明かりが漏れていたからだ。
 ゴクリと安部が喉を鳴らす。
 このドアの向こうに、向かい討つべき相手がいる。
 ── 武者震いだろうか・・・。
  櫻井の身体は小刻みに震えていた。妙な浮遊感を感じる。
  櫻井は、慎重に足を進めた。
 ドアの向こうには、気配を一切感じない。
  思い切ってドアを開けた。
  その途端。
  耳の奥を突き刺すような破裂音が響いた。
「ぐぁ!」
 鋭い破裂音の後に上がった悲鳴を聞いて、櫻井は振り返る。
 安部が衝撃を受け、吹き飛ばされていた。
 反射的に櫻井はその場に身体をかがめ、部屋の中を見た。
 まず見えたのは、真っ黒いズボンを履いた男の足。
 目線を上げると、その足の主は香倉裕人、その人だった。
 その手前に見えるのは、硝煙を立ち上らせている真っ黒い銃口・・・。 
 ハッとして櫻井は、安部を見た。
 安部は、ぴくりとも動かない。
「香倉さん?!」
 櫻井は香倉を返り見る。そして息を呑んだ。
 その病的に見開かれた瞳。
 普段の彼ではないことは、一目瞭然だった。
 彼が安倍を撃ったことは明白だったが、その目には何も見ていないようにみえた。
 櫻井は背筋に寒気を感じたが、それは雨に濡れたせいだけではないだろう。
 ゴクリと喉を鳴らした櫻井は、ゆっくり立ち上がる。
 香倉の身体の陰から、次第に新たな人間の姿が見えてきた。
 ベージュの薄いニットにチャコールグレイのスラックス。
 父がよく好んで着ていた服。
 だがその上にある顔は、母の面影を色濃く残す、透き通るような白い肌をした、美しい男の顔だった。
「姉さんだね。姉さんなんだね」
 櫻井がそう言うと、男がにっこりと微笑んだ。
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