知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆の如し~武田家異聞~

氷室龍

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風の章

我が子の誕生と諏訪の調略

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天文七年(1538年)、晴信と三条の間に男児が誕生した。国中の領民が喜び、躑躅ヶ崎館は祝いの品であふれかえった。それに応えるように信虎は皆に酒や餅を振る舞ったのである。

「いやぁ、これほど早うに若子が生まれるとは!」
「これで武田の行く末は安泰ですな!」

信方も虎康も満面の笑みを浮かべている。普段冷たい態度を取っている信虎もこのときばかりは顔を綻ばせ、喜んでいた。

「いやはや、これで御館様の下手な芝居を見ずに済みますな」

原虎胤がそう言い出せば、信方と虎康がギロリと睨みつける。だが、当の虎胤はたらふく呑んで酔っているせいか全く意に介していないようだ。

「虎胤、それはどういう意味じゃ?」
「御館様は我らを欺き通せておると思われておったのですか?」
「なんじゃと?!」

信虎の顔が徐々に険しくなっていく。信方も虎康も内心冷や汗を掻いている。本来なら虎胤を止めるべきなのだろうがそれをすれば自分たちも信虎の芝居に気づいていたと白状するようなものだ。対処を誤れば信虎の逆鱗に触れかねない。そんな二人の事などお構いなしに虎胤は話し続ける。

「我らは二十年以上御館様にお仕えしておりますぞ。多少なりともそのお心の内、察することくらいできまする」
「ほぉ。では、儂の心の内とはいかなる事か?」
「若殿を疎んじて次郎様を可愛がっておいではいざというときのためにございましょう?」
「むむぅ」

虎胤にズバリ当てられて返す言葉のない信虎。そんな主君の姿をカラカラと笑いながら楽しそうに語る。そして、視線を信方・虎康に向けてきた。
ここまできてはと観念した二人は信虎に向き合う。

「御館様。我らは何があっても武田を支えます」
「そして、若殿を必ずや天下人にしてみせまする」

信方と虎康の言葉に胸が熱くなり、信虎は瞬きをして頬を伝い落ちぬように堪える。

「そなたらは気付いておりながら、儂に付き合うてくれたのか」
「当たり前ではございませぬか!」
「左様。我らは煮ても焼いても【武田の家臣】にございます」
「それがしも同じく……」

頼もしき家臣の言葉に信虎は安堵した。そして、心の底から嫡孫の誕生を祝い、大いに喜んだのである。



そんなことなどつゆ知らぬ晴信は広間の酒宴から離れ、一人、庭で月を眺めながら飲んでいた。そこへ酒を持って現れたのは弟の次郎だ。先頃元服を迎え、今は信繁と名を改めた。

「兄上、このたびはおめでとうございます!」
「ああ、漸く我が子をこの手に抱けた」

信繁は晴信の言葉に複雑な表情を浮かべる。阿佐が亡くなった当時、信繁はまだ幼く、人の死がどういうものか理解出来ていなかった。ただ、周りの暗く沈んだ気配から何かしら感じ取っていたようだ。

「義姉上には阿佐様のこと……」
「話してある。懐妊が分かったときにな」
「そうでしたか」

少し暗い雰囲気になっているのを感じたのか、信繁は明るい口調でもう一度祝いの言葉を口にする。そして、杯を差し出し晴信と酒を酌み交わしたのだった。



広間では祝宴が続いているようで家臣たちの踊りや歌を披露する声が聞こえてくる。それを聞きながら晴信は三条の腕の中ですやすやと眠る我が子の顔を眺める。

「三条、ご苦労であった」
「ほんに良かった……」
「ありがとう」

晴信の心に温かなものが流れ込んでくる。三条の腕の中で眠る我が子は小さく壊れてしまいそうなくらいだ。この子の成長を見届けるために、何としても生き残らねばならない。晴信の中に強い決意が生まれたのだった。

「晴信様」
「なんだ?」
「若子に名を付けてやって下さいませ」
「おお、そうだった。俺としたことが失念しておった」
「まぁ。それでは早う名付けて下さいませ」
「実はもう決めておる。この子の名は【太郎】だ。俺と共に武田を大きくする男の子だ。そして、三条。そなたに今一度京の地を踏ませてやる」
「晴信様……」
「父上から俺は【武田の悲願を叶える男】と言われた」
「武田の悲願?」
「新羅三郎義光公の血筋である我が武田が【武家の棟梁】となること。それが武田の悲願だ」
「つまり、天下に号令すると?」
「そうだ。俺が天下人となって世を変える」

晴信は初めて天下統一の野望を口にした。守るべき者が増えたことで晴信は強くなった。そして、もっと強くなると妻と我が子に誓ったのだ。
三条はそんな夫についていくこと、そして支え続けることを誓う。

「必ずや二人で京の地を踏もうぞ!」

晴信の決意に三条はうれし泣きをしながら頷いたのだった。



その後、武田は諏訪調略に動く。だが、元々反武田の機運が高いため事はすんなりとは進まなかった。表立っては当主・信虎が主導して交渉を続け、それとは別に晴信も動いたのだった。

「勘助、高遠の方はどうだ?」
「はい。やはり、少なからず不満は持っておるようですが、表に出すほどのことではないようで……」
「そうか」
「何と言っても先代・頼満殿がご健在ですから」
「このまま手をこまねいているわけにもいかぬ。勘助、なんとかして頼重殿に渡りを付けてくれ」
「承知」

勘助はその場から煙の如く消え去った。当代の頼隆が首を縦に振らぬのであれば、次代である頼重と手を組めないか、晴信はそう考えていたのだ。
頼重は晴信と年も近い。何かと話が合うだろう。そんな思いもあった。何より、あのとき初代・信義より告げられた助言が頭の片隅にこびりついていたのだ。

「何としてでも諏訪を取り込んでみせる」

独りごちながら晴信は強く決意したのであった。



天文八年(1539年)十二月。事態は急展開を見せる。諏訪の当主・頼隆が死去したのだ。先代の頼満は嫡孫である頼重を後継に指名。これにより頼重が新たな諏訪家当主となったのである。
それを好機と取った信虎は三女の禰々との婚儀を打診したのだった。その交渉役に晴信自ら志願したのは言うまでもない。

「何もそなたが行かずとも……」
「なりませぬ。諏訪の心を得るためには腹を割って話すべきです」
「むむぅ、それはそうだが……」
「武田の跡取りは猪武者ではないというところを見せつける絶好の機会。ここはそれがしにお任せ下さい」
「そこまで言うのであれば、必ずや良き返事を持って参るのじゃぞ」
「はっ!」

晴信は全権を任せられ、甲府を出立したのだった。



諏訪一族の居城・上原城。そこは美しい諏訪湖を見下ろす場所に立っていた。その湖を横目に晴信は勘助を伴いこの地へとやってきた。

「諏訪はこれほどまでに美しいのか……」
「気に入ってもらえましたかな?」

通された広間から湖を眺めていた晴信に後ろから声を掛けてきたのは当主となった頼重だ。年は晴信より五つ上。そのため、自分より落ち着いた物腰の柔らかそうな男だった。

(禰々にはこういう男の方が似合っているだろうな)

気が強くて、思ったことをはっきり口にする妹の姿を思い浮かべ笑みがこぼれる。その様子を不思議そうに見ている頼重。晴信は苦笑して肩をすくめるのだった。

「して、用向きは?」
「頼重殿は未だ独り身と伺いましたので、我が妹・禰々を妻にどうかと」
「なるほど、婚姻による血の繋がりで我が諏訪との仲を強固なものにしたいというわけですか」
「有り体に言えば……」
「晴信殿は嘘がつけぬお方とお見受けする」
「頼重殿?」
「我が諏訪家の事情、既に察しておられるのでしょ?」

頼重の自嘲めいた笑みに晴信は言葉を詰まらせる。次の一手で事が決する。そう感じた晴信は逡巡した。だが、それを見抜いているのか頼重は柔らかな笑みを向けると晴信に頭を下げた。

「此度の申し出、お受けいたします」
「頼重殿……」
「代わりといっては何ですが。我が娘、香を人質に差し出しましょう」

晴信は驚きに目を見開いた。だが、頼重は笑みを崩さず話を続けた。

「それほど驚くことではないでしょう」
「しかし……」
「あれはここに置いておけばいらぬ争いを生むでしょう」
「いらぬ争い?」
「晴信殿は【傾国の美女】という言葉をご存じか?」

【傾国の美女】。
この言葉の意味はまさしく読んで字の如く。【国を傾けてしまう】ほどの美しい女性に与えられる呼び名だ。古くから大陸でよくあることである。一人の女を巡り多くの男たちが争い合う。そうして、国が疲弊し滅ぶのだ。
頼重は自分の娘もそのような存在になることを薄々感じていたようだった。

「香は今はお転婆で通っておりますが、いずれ劣らぬ【大輪の花】となりましょう。ならば、今のうちから囲われておった方があの娘のためかと」
「まるで、それがしが香姫を欲しがっておるように聞こえますが」
「はは、会えば欲しくなりますぞ」

全てを見抜かれているようで晴信は居心地が悪かった。頼重はそんな晴信をよそに香姫を呼んだのだった。

「父上、お呼びですかぁ?」
「香、こちらに参れ」

現れたのは可愛らしい少女だった。香姫は頼重の膝の上に座り、笑顔を向ける。年の頃は十を過ぎた辺りか。まだまだ子供ではあるが確かにあと五年もすれば三条と良い勝負かもしれない。

「お客人ですか?」
「甲斐の武田晴信殿じゃ。甲府からいらしたのだ」
「甲府!」

香姫が目を輝かせてこちらを見る。香姫は立ち上がると向かいに座る晴信の胸に飛び込んできた。晴信は突然のことに驚き、目を丸くした。

「甲府というと富士のお山が見えるのですよね?」
「あ、ああ」
「どんなお山ですか?日の本一の山だと聞いてますが、私見たことないから……」
「立派な山だ。【霊峰】と呼ぶに相応しいどんと構えた美しい山だよ」
「へぇ」
「香姫は見てみたいか?」
「はい!私は諏訪を出たことがないから」

香姫は城に出入りする行商人から他国の景色を聞いて回っているのだという。気付けば死の中で一番の物知りとなっていた。好奇心旺盛で時には自ら馬を駆って遠乗りに出るほどのお転婆のようだった。
いつも無口で無表情な晴信はたとえ幼いといえど女子から声を掛けられることなどほぼない。だから、香姫に強請られるのは悪い気はしなかった。

「香、そのくらいにしなさい」
「えぇ~。まだ聞きたいことあるのにぃ」
「晴信殿は武田の使者として参られた。そなたの遊び相手ではない」
「は~い」

香姫は渋々といった表情で自室に下がることになる。去り際にもう一度笑みを向けて「またお話を聞かせて下さいね」といって下がったのだった。

「如何ですかな?」
「な、何がですか?」
「今は蕾ですが、五年もすれば咲き誇りましょう」
「頼重殿!」
「そのときは側室にしてやって下さい」
「……」

そう言い切った頼重に返す言葉もなく真っ赤になって俯く晴信だった。

晴信は頼重から禰々を妻に迎える事、香姫を人質に差し出す事の二つの約束を取り付けて甲府へと帰還したのだった。


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