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風の章
兄の死と弟の誕生
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勝千代が誕生してほどなく、兄・竹松が僅か七歳で夭折する。これにより、勝千代は嫡男となり名を太郎と改めることとなった。
信虎は一門衆でもあり、腹心でもある板垣信方を呼び寄せる。
「御館様……」
「信方、そなたに太郎の傅役を申しつける」
「はっ」
「太郎を武田の当主として恥ずかしくないよう立派に育ててくれ」
信方はその期待に応えるべく、太郎を鍛える。とはいえ、まだまだ幼子。母の側をなかなか離れることはなかった。
「お方、太郎は相変わらずか?」
「はい」
信虎は大井の方に酌をされながら、息子のことを考える。竹松の死で嫡男となった太郎は漸く言葉がわかり始めたばかりだ。まだまだ、母の乳が恋しいのであろう。いつも大井の方の後ろに隠れている。今日も信虎がここを訪れると不安そうな顔をして母にしがみついていた。
「どうしたものであろうか?」
「信方殿を傅役にされたと伺いました」
「うむ。太郎こそ新羅三郎義光公よりの悲願達成のために必要な子じゃ」
その言葉に大井の方は静かに頷く。どうやら、太郎の中に非凡なものを感じているのであろう。
「今の太郎に必要なのは弟妹やもしれませぬ」
「そうは言うてもすぐには……」
大井の方は信虎の手を取ると自身の腹に導く。頬を赤らめ信虎に微笑みかけた。呆気にとられた信虎は手にした杯を落としてしまう。
「ま、まさか?!」
「はい。ややが……」
「まことか!」
信虎の問いに大井の方がこくりと頷く。信虎は抱き寄せ新たに宿った命を喜んだのだった。
大永五年(1525年)、大井の方は再び男児を出産した。次郎と名付けられたその子は、後に信玄を内政・軍事共に支え、『武田二十四将』の一人と数えられる武田信繁その人である。
「ほうほう、太郎も元気がよい子であったが次郎も元気じゃのぉ」
「御館様」
「お方、ご苦労であった」
「ありがとうございます」
信虎に抱かれながらすやすやと眠る次郎。その様子を太郎は柱の陰から息を殺してじっと眺めている。
「若殿、おそばに行かれませ」
信方がそっと背中を押して促す。だが、太郎は首を横に振りその場から動こうとはしなかった。それに気づいた信虎が太郎を手招きする。太郎はどうすべきか悩み信方を見上げると信方は優しく微笑み頷いた。
「太郎、そなたもこちらへ参れ」
その一言に太郎は父の元に走り寄った。そして、父の抱く弟の顔をのぞき込む。
「可愛いであろう」
太郎は静かに頷いた。信虎は太郎を膝の上に座らせ語りかける。
「太郎よ。この子がそなたの弟じゃ」
「おとうと……」
「見ての通り、この子は何も出来ぬ。誰かが守ってやらねばならぬ」
父の言葉に太郎はゴクリと唾を飲み込む。褥に横たわる母も不安そうに見上げている。太郎は子供ながらにどう答えるべきか必死で考える。そんな考えを見抜いてか信虎は太郎の頭を撫でて、優しく笑う。だが、次の瞬間には厳しい顔をして言葉を発した。
「太郎、よいか。人はいずれ死ぬ。だが、いつ死ぬかは誰にもわからぬ。故に『今』を悔いなく生きねばならぬ」
「ちちうえ」
「そのためには強うならねばならぬ」
「つよく……」
「そうじゃ。そなたは武田の跡取りとして何千・何万の命を預かる身になる。生半可な努力では生き残れんぞ」
太郎は恐怖に打ち震える。その恐怖を和らげるが如く信虎は太郎を抱き寄せた。太郎はその大きくて力強い父の胸に顔を埋める。
「これよりは母の乳は次郎のものじゃ。そなたは我慢をせねばならぬ。だが、その我慢はやがてそなたの身を助けるようになる。知恵を付け、体を鍛え、母と次郎を守る漢になるのじゃ」
「はい……」
「よしよし、それでこそ儂の跡継ぎじゃ」
信虎は笑い声を上げる。それにつられて太郎も笑顔を見せる。その屈託のない笑顔に信虎だけでなく大井の方、傅役の信方も安堵する。
ひとしきり、笑い終えた信虎が太郎に耳打ちをする。
「たまには母の乳を吸うてもよいぞ」
「え?」
「男にはそういうときも必要じゃて」
ニヤリと笑う信虎に太郎は意味がわからずキョトンとしていた。そして、またしても大声で笑い始める。信虎の言った意味を理解して大井の方は頬を染め、信方は咳払いをするのだった。
あまりに大きな笑い声だったせいで眠っていた次郎が目を覚まし泣き始める。
「すまぬ、すまぬ。起こしてしまったようじゃ」
信虎は腕に抱くもう一人の息子・次郎をあやし始める。その眼差しは優しいものである。
「そなたもはよう大きゅうなって儂と太郎を……。そして、武田を支えてくれ」
そんな父の横顔を見ながら太郎は決意する。いつまでもこの幸福な時間が続くように自身も強くなると……。
信虎は一門衆でもあり、腹心でもある板垣信方を呼び寄せる。
「御館様……」
「信方、そなたに太郎の傅役を申しつける」
「はっ」
「太郎を武田の当主として恥ずかしくないよう立派に育ててくれ」
信方はその期待に応えるべく、太郎を鍛える。とはいえ、まだまだ幼子。母の側をなかなか離れることはなかった。
「お方、太郎は相変わらずか?」
「はい」
信虎は大井の方に酌をされながら、息子のことを考える。竹松の死で嫡男となった太郎は漸く言葉がわかり始めたばかりだ。まだまだ、母の乳が恋しいのであろう。いつも大井の方の後ろに隠れている。今日も信虎がここを訪れると不安そうな顔をして母にしがみついていた。
「どうしたものであろうか?」
「信方殿を傅役にされたと伺いました」
「うむ。太郎こそ新羅三郎義光公よりの悲願達成のために必要な子じゃ」
その言葉に大井の方は静かに頷く。どうやら、太郎の中に非凡なものを感じているのであろう。
「今の太郎に必要なのは弟妹やもしれませぬ」
「そうは言うてもすぐには……」
大井の方は信虎の手を取ると自身の腹に導く。頬を赤らめ信虎に微笑みかけた。呆気にとられた信虎は手にした杯を落としてしまう。
「ま、まさか?!」
「はい。ややが……」
「まことか!」
信虎の問いに大井の方がこくりと頷く。信虎は抱き寄せ新たに宿った命を喜んだのだった。
大永五年(1525年)、大井の方は再び男児を出産した。次郎と名付けられたその子は、後に信玄を内政・軍事共に支え、『武田二十四将』の一人と数えられる武田信繁その人である。
「ほうほう、太郎も元気がよい子であったが次郎も元気じゃのぉ」
「御館様」
「お方、ご苦労であった」
「ありがとうございます」
信虎に抱かれながらすやすやと眠る次郎。その様子を太郎は柱の陰から息を殺してじっと眺めている。
「若殿、おそばに行かれませ」
信方がそっと背中を押して促す。だが、太郎は首を横に振りその場から動こうとはしなかった。それに気づいた信虎が太郎を手招きする。太郎はどうすべきか悩み信方を見上げると信方は優しく微笑み頷いた。
「太郎、そなたもこちらへ参れ」
その一言に太郎は父の元に走り寄った。そして、父の抱く弟の顔をのぞき込む。
「可愛いであろう」
太郎は静かに頷いた。信虎は太郎を膝の上に座らせ語りかける。
「太郎よ。この子がそなたの弟じゃ」
「おとうと……」
「見ての通り、この子は何も出来ぬ。誰かが守ってやらねばならぬ」
父の言葉に太郎はゴクリと唾を飲み込む。褥に横たわる母も不安そうに見上げている。太郎は子供ながらにどう答えるべきか必死で考える。そんな考えを見抜いてか信虎は太郎の頭を撫でて、優しく笑う。だが、次の瞬間には厳しい顔をして言葉を発した。
「太郎、よいか。人はいずれ死ぬ。だが、いつ死ぬかは誰にもわからぬ。故に『今』を悔いなく生きねばならぬ」
「ちちうえ」
「そのためには強うならねばならぬ」
「つよく……」
「そうじゃ。そなたは武田の跡取りとして何千・何万の命を預かる身になる。生半可な努力では生き残れんぞ」
太郎は恐怖に打ち震える。その恐怖を和らげるが如く信虎は太郎を抱き寄せた。太郎はその大きくて力強い父の胸に顔を埋める。
「これよりは母の乳は次郎のものじゃ。そなたは我慢をせねばならぬ。だが、その我慢はやがてそなたの身を助けるようになる。知恵を付け、体を鍛え、母と次郎を守る漢になるのじゃ」
「はい……」
「よしよし、それでこそ儂の跡継ぎじゃ」
信虎は笑い声を上げる。それにつられて太郎も笑顔を見せる。その屈託のない笑顔に信虎だけでなく大井の方、傅役の信方も安堵する。
ひとしきり、笑い終えた信虎が太郎に耳打ちをする。
「たまには母の乳を吸うてもよいぞ」
「え?」
「男にはそういうときも必要じゃて」
ニヤリと笑う信虎に太郎は意味がわからずキョトンとしていた。そして、またしても大声で笑い始める。信虎の言った意味を理解して大井の方は頬を染め、信方は咳払いをするのだった。
あまりに大きな笑い声だったせいで眠っていた次郎が目を覚まし泣き始める。
「すまぬ、すまぬ。起こしてしまったようじゃ」
信虎は腕に抱くもう一人の息子・次郎をあやし始める。その眼差しは優しいものである。
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