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あの人と、どんな関係でしたか?
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夕方の光が、ブラインドの隙間からオフィスに射し込んでいた。
経理部のフロアは少しずつ人が減り始め、静けさが戻りつつある。
その一角、阿波座凛のデスク前に立つ谷町光は、左手で軽くシャツの袖をまくりながら、小さく息を吐いた。
凛は目の前の書類をめくる手を止めず、パソコンの画面と紙面を交互に確認している。
だが、その動きにはいつものような迷いのなさがなかった。
指の動きが妙に遅く、ペンを取る手もぎこちない。
「……ちょっとだけ、いいですか」
光の声は普段よりも一段低い。
落ち着いた響きの中に、かすかな不安が混じっていた。
凛は応えない。
目線を上げることなく、ほんのわずかに眉を寄せる。
「今日、会ってたあの会計士の人。平野さん」
光の言葉に、凛の指先が止まる。
ページをめくりかけたまま、手が動かない。
「……何か気になることでも?」
凛の声は平静を装っていた。
けれど、少しだけ掠れたその音に、光は小さく口を結んだ。
「俺、見たんです。チーフとあの人のやり取り。
いつもと違うっていうか、他の人には見せない顔で、接してましたよね」
凛は静かに書類の端を整えながら、視線を画面に戻す。
「業務上の関係があっただけです。以前、彼はこの会社に在籍していたこともあるので」
「だけ?」
光の言葉が、少しだけ尖る。
だが、それは怒りではなく、戸惑いのにじんだ響きだった。
「“業務上の関係があっただけ”って、そんなに他人行儀に言うなら、
むしろ何かあったって、言ってるようなもんじゃないですか」
凛は顔を上げなかった。
ただ、机の端に置いた書類を何度も揃え直す指先が、その内心を語っていた。
「……あなたに関係のある話ではないと思います」
凛のその言葉は、淡々としていた。
けれど、光にとっては、その淡白さがむしろ苦しかった。
「俺が、凛さんを好きじゃなかったら。
たぶんそうだったかもしれません。
でも今は、そうじゃない」
凛はようやく、静かに顔を上げた。
光の目を、まっすぐに見た。
その瞬間、何かが空気の中で切り替わった。
光はその視線に、一瞬怯んだように見えたが、すぐに立て直す。
声を落とし、少しだけ笑うように言った。
「……嫉妬とか、そういうんじゃないです。
でも、気になるんですよ。
自分が知らない凛さんを、他の人が“知ってる”っていうのが」
凛はその言葉に、口を開きかけて、言葉を引っ込めた。
目線だけが、再び机上へと落ちる。
「平野さんと、何かあったんですね。
恋人だった、とか……付き合ってた、とか」
その直球の言葉に、凛は少しだけ息を止めた。
だが、否定もしなかった。
「……過去の話です」
「でも、消えてはいない。今も、その記憶は凛さんの中にある」
光はそう言いながら、机に片手を置いた。
指先が震えてはいない。
けれど、その声には誤魔化せない揺れがあった。
「凛さんが、俺にそれを話さないのは、
まだ整理がついてないからですか?
それとも、俺には“聞かせる価値がない”って、思ってるからですか?」
凛はその問いに、即答できなかった。
何も言えず、ただ視線を机の一点に落としたまま、黙っていた。
過去を話すことは、過去を“再び生かす”ことに近い。
そしてそれは、自分が過去のままであることを認めることでもある。
けれど、凛は思っていた。
もう、あの頃の自分ではない。
弱さを見せられなかった自分、感情を閉ざしていた自分。
そのすべてから、少しずつでも変わってきたのだと。
だからこそ――今、平野との過去を口にすることが、
どこかで“後退”になるような気がして、怖かった。
「……私は、もう過去の自分ではないと思いたい」
ようやく出た言葉は、かすれていた。
光は少し驚いたように凛を見たが、すぐに頷いた。
「だったら、今の凛さんを、俺にもっと見せてください」
それだけを残して、光は静かに立ち去った。
後ろ姿はまっすぐで、だがその肩越しに見えた横顔は、少しだけ寂しそうだった。
残された凛は、ようやく肩から力を抜いて、椅子の背に体を預けた。
窓の外はもう夕闇に染まり始めている。
その色をぼんやりと見つめながら、凛はそっと目を閉じた。
過去と向き合うことは、思ったよりずっと難しい。
だが、それでも。
今、自分のそばに立ってくれる誰かがいる。
そう思えたことだけは、たしかに、救いだった。
経理部のフロアは少しずつ人が減り始め、静けさが戻りつつある。
その一角、阿波座凛のデスク前に立つ谷町光は、左手で軽くシャツの袖をまくりながら、小さく息を吐いた。
凛は目の前の書類をめくる手を止めず、パソコンの画面と紙面を交互に確認している。
だが、その動きにはいつものような迷いのなさがなかった。
指の動きが妙に遅く、ペンを取る手もぎこちない。
「……ちょっとだけ、いいですか」
光の声は普段よりも一段低い。
落ち着いた響きの中に、かすかな不安が混じっていた。
凛は応えない。
目線を上げることなく、ほんのわずかに眉を寄せる。
「今日、会ってたあの会計士の人。平野さん」
光の言葉に、凛の指先が止まる。
ページをめくりかけたまま、手が動かない。
「……何か気になることでも?」
凛の声は平静を装っていた。
けれど、少しだけ掠れたその音に、光は小さく口を結んだ。
「俺、見たんです。チーフとあの人のやり取り。
いつもと違うっていうか、他の人には見せない顔で、接してましたよね」
凛は静かに書類の端を整えながら、視線を画面に戻す。
「業務上の関係があっただけです。以前、彼はこの会社に在籍していたこともあるので」
「だけ?」
光の言葉が、少しだけ尖る。
だが、それは怒りではなく、戸惑いのにじんだ響きだった。
「“業務上の関係があっただけ”って、そんなに他人行儀に言うなら、
むしろ何かあったって、言ってるようなもんじゃないですか」
凛は顔を上げなかった。
ただ、机の端に置いた書類を何度も揃え直す指先が、その内心を語っていた。
「……あなたに関係のある話ではないと思います」
凛のその言葉は、淡々としていた。
けれど、光にとっては、その淡白さがむしろ苦しかった。
「俺が、凛さんを好きじゃなかったら。
たぶんそうだったかもしれません。
でも今は、そうじゃない」
凛はようやく、静かに顔を上げた。
光の目を、まっすぐに見た。
その瞬間、何かが空気の中で切り替わった。
光はその視線に、一瞬怯んだように見えたが、すぐに立て直す。
声を落とし、少しだけ笑うように言った。
「……嫉妬とか、そういうんじゃないです。
でも、気になるんですよ。
自分が知らない凛さんを、他の人が“知ってる”っていうのが」
凛はその言葉に、口を開きかけて、言葉を引っ込めた。
目線だけが、再び机上へと落ちる。
「平野さんと、何かあったんですね。
恋人だった、とか……付き合ってた、とか」
その直球の言葉に、凛は少しだけ息を止めた。
だが、否定もしなかった。
「……過去の話です」
「でも、消えてはいない。今も、その記憶は凛さんの中にある」
光はそう言いながら、机に片手を置いた。
指先が震えてはいない。
けれど、その声には誤魔化せない揺れがあった。
「凛さんが、俺にそれを話さないのは、
まだ整理がついてないからですか?
それとも、俺には“聞かせる価値がない”って、思ってるからですか?」
凛はその問いに、即答できなかった。
何も言えず、ただ視線を机の一点に落としたまま、黙っていた。
過去を話すことは、過去を“再び生かす”ことに近い。
そしてそれは、自分が過去のままであることを認めることでもある。
けれど、凛は思っていた。
もう、あの頃の自分ではない。
弱さを見せられなかった自分、感情を閉ざしていた自分。
そのすべてから、少しずつでも変わってきたのだと。
だからこそ――今、平野との過去を口にすることが、
どこかで“後退”になるような気がして、怖かった。
「……私は、もう過去の自分ではないと思いたい」
ようやく出た言葉は、かすれていた。
光は少し驚いたように凛を見たが、すぐに頷いた。
「だったら、今の凛さんを、俺にもっと見せてください」
それだけを残して、光は静かに立ち去った。
後ろ姿はまっすぐで、だがその肩越しに見えた横顔は、少しだけ寂しそうだった。
残された凛は、ようやく肩から力を抜いて、椅子の背に体を預けた。
窓の外はもう夕闇に染まり始めている。
その色をぼんやりと見つめながら、凛はそっと目を閉じた。
過去と向き合うことは、思ったよりずっと難しい。
だが、それでも。
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