経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!

中岡 始

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まだ会社にいる組、俺たちだけみたいです

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経理部のフロアに人影がなくなってから、すでに二時間が経とうとしていた。  
時計の針は日付をまたぎ、パソコンのブルーライトが室内に淡い照明を落としている。  
どこかの窓から、わずかに雨音が聞こえる。しとしとと、歩く足音さえ吸い込んでしまいそうな静かな雨。

阿波座凛は、自席のデスクで黙々と帳票の確認作業を続けていた。  
眼鏡の奥の視線は変わらず冷静で、指先は紙の端を揃え、電卓を弾く動作も寸分の狂いがない。  
ただ、肩にはやや疲労の色が浮かんでいた。  
月末、それも年度切り替え前。確認すべき数字の量は膨大で、すでに何十件もの書類を処理していた。

隣の島から控えめな椅子の軋む音がした。  
谷町光が立ち上がり、ストレッチをするように背筋を伸ばす。  
その拍子にネクタイがわずかに緩み、シャツの袖口から手首がのぞいた。

「……俺、まだもう少しかかりそうです。凜さんも、ですよね?」

凛は視線を上げず、電卓を叩いたまま頷いた。

「ええ。報告書の照合が残っていますので」

光はそれを聞いて、ふっと笑う。  
自分のペースで仕事ができる人は、この会社にも多くない。  
ましてや、日付が変わるこの時間まで、集中力を切らさずに机に向かう人間など、ほんの一握りだ。

だが凛は、そういう存在だった。  
黙々と、正確に、揺るがない。

光は静かに席を離れ、凛の机の近くに立った。  
足元にはコートの気配がない。  
思い出したように自分の肩を抱きながら、ぽつりと呟く。

「今日、上着持ってきてないんですよね。雨、降ってますけど……阿波座さん、寒くないですか?」

凛は指を止めた。  
顔を上げ、眼鏡越しに光を見つめる。  
その視線は変わらず静かだったが、どこか不思議そうな光があった。

「私は特に。社内は暖房が効いていますし」

「ですよね」

光は笑って肩をすくめたが、続けて口にする言葉を少しだけ迷った。

「……あの、もしよかったらですけど。帰り、一緒にタクシー使いませんか?」

凛は眉をひそめるわけでもなく、むしろ自然に首を傾げた。

「タクシー?」

「はい。終電、もうないと思うので」

そう言って、光は壁際の時計を指さす。  
凛も視線を向けたその針は、確かに、すでに深夜一時を回っていた。

「あ……」

その一音は、思わず漏れたもので、凛自身が驚いたように口元を閉じた。  
その反応に、光の胸がかすかに跳ねた。  
阿波座凛が“しまった”という表情を見せることなど、滅多にない。

「……確認していませんでした。私も、帰るつもりで作業をしていたので」

「じゃあ、相乗りしましょうか。経路、途中まで同じ方向ですし。  
タクシー会社に連絡しますね」

光はそう言いながら、もうスマートフォンを取り出していた。  
凛は何も言わなかったが、止めようともしなかった。  
静かにうなずき、手元のファイルを閉じて立ち上がる。

立ち上がった瞬間、ほんの少しだけ、ふらついた。  
長時間座りっぱなしだった足が、一瞬だけ感覚を忘れていたのかもしれない。  
光がすぐに横に寄り、腕を伸ばしかける。

だが凛は、何事もなかったように姿勢を整えた。

「……大丈夫です」

「もちろん。無理しないでくださいね。今夜は、もうゆっくりしましょう」

言いながら、光は自分のシャツのボタンをひとつ外した。  
それは、いつもの彼らしい、気取らない仕草。  
けれど、凛の目に映るその姿は、どこか違って見えた。

緩めたネクタイ。少し崩れた髪先。  
そして、すぐ隣にある体温。

オフィスという緊張の場から、わずかに距離を取ったその姿が、  
なぜか今日は、とても近く感じた。

「谷町くん」

「はい?」

「タクシー、予約が取れたら教えてください」

凛は眼鏡を外し、ハンカチでそっとレンズを拭いた。  
その動作は、いつも通りに見えて、どこかしら落ち着かない。

光は小さく笑って、スマートフォンに目を落とす。

彼の内心は、さっきからずっと跳ねていた。  
「相乗り」のひとことを受け入れてもらえたことが、  
これほどまでに嬉しいと思うなんて、本人も想定していなかった。

だがそれを、顔には出さない。  
この夜は、焦らずに、少しずつ縮めていけばいい。

外ではまだ、雨が降り続いていた。  
しとしとと、ふたりの間の距離を、穏やかに包み込むような雨音だった。
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