29 / 44
始業前、ただふたりだけの朝
しおりを挟む
朝八時を少し回ったカフェの店内には、一定のリズムで人の出入りがあった。
出勤前のサラリーマンたちが、新聞を読みながらトーストをかじり、あるいはスマートフォンを片手にラテを啜っている。
ひとつひとつの会話は小声だが、重なればそれなりのざわめきとなって、店内の空気を満たしていた。
その中で、窓際のカウンター席だけが、どこか静けさを保っていた。
阿波座凛と谷町光が並んで腰をかけ、それぞれのコーヒーに口をつけていた。
ふたりのあいだに、言葉はなかった。
しかし、沈黙は重くない。
朝という時間が与える、少しだけ柔らかく、少しだけ眠たげな空気がふたりのまわりを緩やかに包んでいた。
凛は、手にしたアイスコーヒーのストローをゆっくりと回していた。
カップの氷がカランと鳴る。
指の動きは無意識のようでいて、どこか思案をはらんでいる。
彼の眉間には、わずかな皺。
眉を寄せるほどでもないが、何かを考えているときにだけ見せる、静かなしわ。
隣に座る光は、シンプルな白いシャツに濃紺のジャケットを羽織っていた。
髪は昨夜より整えられていて、ネクタイもきっちりと結ばれている。
けれどその姿勢はどこか緊張感をはらみながらも、視線の先は凛の横顔に向けられていた。
ふと、凛が小さく息を吐いた。
「……平野と付き合ってた頃」
光の指先がわずかに止まる。
それでも、顔を動かさずに耳を傾けていた。
「会社に来るのが、怖い朝が続きました」
凛は窓の外を見たまま続ける。
朝の通勤風景。
道路を急ぎ足で渡る人々や、信号待ちをする自転車。
そのすべてが他人事のようで、しかしかつての自分もそこにいたのだと、静かに思い返していた。
「誰かにバレたらって、そればかり考えてた。
朝の会話、昼の視線、何もかもが意味を持ってしまって。
……ただ、会社に行くだけなのに」
言葉のひとつひとつが、今の凛には珍しく、断片的だった。
語るたびに、自分の内側を少しずつ掘り起こすような、慎重さと恐れがにじんでいた。
光は、自分のコーヒーに手を伸ばすことなく、ただ耳を澄ませていた。
凛の言葉が終わるまで、何も言わず、何もはさまずに。
「……それでも、好きだったんですよね。その人のこと」
ようやく口を開いた光の声は、驚くほどまっすぐだった。
批判も、哀れみも、羨望もない。
ただその事実を確認するように、まるで過去に触れた葉の感触を確かめるように、柔らかく響いた。
凛は答えなかった。
だが、わずかにストローを持つ手が止まった。
「その人に問題があったわけじゃない。
……誰かを信じきるって、想像以上に勇気がいるんですね」
ぽつりと落とされたその言葉に、光は小さく頷いた。
「はい、そうだと思います。
でも、俺は、信じてもらえるようになりたいです」
言葉を遮られることなく、その一文がふたりのあいだに落ちた。
凛は視線をようやく窓から引き、カップに口をつけた。
アイスコーヒーの冷たさが喉をすべり落ちる。
その温度が、今の自分には少しだけ心地よいと感じた。
「……じゃあ、どうすれば、信じられますか」
「時間です。
毎日、横にいるだけで、気づいたら信じてた、みたいな。
俺、それをやりたくて、ここにいるのかもしれません」
凛は目を伏せ、わずかに微笑んだ。
その微笑みは一瞬だったが、明らかに、誰かに向けたものだった。
テーブルの上には、すでにぬるくなりはじめたコーヒー。
隣の席では、別のサラリーマンが新聞をたたんで立ち上がる。
ふたりの朝だけが、店の時間とずれていた。
けれど、そのずれが心地よく思えるほどに、空気は静かであたたかかった。
凛は再び窓の外を見つめながら、思った。
この人といるときだけ、自分は過去から少しだけ離れられる。
そしてそれこそが、今いちばん欲しかった“時間”なのかもしれないと。
出勤前のサラリーマンたちが、新聞を読みながらトーストをかじり、あるいはスマートフォンを片手にラテを啜っている。
ひとつひとつの会話は小声だが、重なればそれなりのざわめきとなって、店内の空気を満たしていた。
その中で、窓際のカウンター席だけが、どこか静けさを保っていた。
阿波座凛と谷町光が並んで腰をかけ、それぞれのコーヒーに口をつけていた。
ふたりのあいだに、言葉はなかった。
しかし、沈黙は重くない。
朝という時間が与える、少しだけ柔らかく、少しだけ眠たげな空気がふたりのまわりを緩やかに包んでいた。
凛は、手にしたアイスコーヒーのストローをゆっくりと回していた。
カップの氷がカランと鳴る。
指の動きは無意識のようでいて、どこか思案をはらんでいる。
彼の眉間には、わずかな皺。
眉を寄せるほどでもないが、何かを考えているときにだけ見せる、静かなしわ。
隣に座る光は、シンプルな白いシャツに濃紺のジャケットを羽織っていた。
髪は昨夜より整えられていて、ネクタイもきっちりと結ばれている。
けれどその姿勢はどこか緊張感をはらみながらも、視線の先は凛の横顔に向けられていた。
ふと、凛が小さく息を吐いた。
「……平野と付き合ってた頃」
光の指先がわずかに止まる。
それでも、顔を動かさずに耳を傾けていた。
「会社に来るのが、怖い朝が続きました」
凛は窓の外を見たまま続ける。
朝の通勤風景。
道路を急ぎ足で渡る人々や、信号待ちをする自転車。
そのすべてが他人事のようで、しかしかつての自分もそこにいたのだと、静かに思い返していた。
「誰かにバレたらって、そればかり考えてた。
朝の会話、昼の視線、何もかもが意味を持ってしまって。
……ただ、会社に行くだけなのに」
言葉のひとつひとつが、今の凛には珍しく、断片的だった。
語るたびに、自分の内側を少しずつ掘り起こすような、慎重さと恐れがにじんでいた。
光は、自分のコーヒーに手を伸ばすことなく、ただ耳を澄ませていた。
凛の言葉が終わるまで、何も言わず、何もはさまずに。
「……それでも、好きだったんですよね。その人のこと」
ようやく口を開いた光の声は、驚くほどまっすぐだった。
批判も、哀れみも、羨望もない。
ただその事実を確認するように、まるで過去に触れた葉の感触を確かめるように、柔らかく響いた。
凛は答えなかった。
だが、わずかにストローを持つ手が止まった。
「その人に問題があったわけじゃない。
……誰かを信じきるって、想像以上に勇気がいるんですね」
ぽつりと落とされたその言葉に、光は小さく頷いた。
「はい、そうだと思います。
でも、俺は、信じてもらえるようになりたいです」
言葉を遮られることなく、その一文がふたりのあいだに落ちた。
凛は視線をようやく窓から引き、カップに口をつけた。
アイスコーヒーの冷たさが喉をすべり落ちる。
その温度が、今の自分には少しだけ心地よいと感じた。
「……じゃあ、どうすれば、信じられますか」
「時間です。
毎日、横にいるだけで、気づいたら信じてた、みたいな。
俺、それをやりたくて、ここにいるのかもしれません」
凛は目を伏せ、わずかに微笑んだ。
その微笑みは一瞬だったが、明らかに、誰かに向けたものだった。
テーブルの上には、すでにぬるくなりはじめたコーヒー。
隣の席では、別のサラリーマンが新聞をたたんで立ち上がる。
ふたりの朝だけが、店の時間とずれていた。
けれど、そのずれが心地よく思えるほどに、空気は静かであたたかかった。
凛は再び窓の外を見つめながら、思った。
この人といるときだけ、自分は過去から少しだけ離れられる。
そしてそれこそが、今いちばん欲しかった“時間”なのかもしれないと。
64
あなたにおすすめの小説
【完結】君の穿ったインソムニア
古都まとい
BL
建設会社の事務として働く佐野純平(さの じゅんぺい)は、上司のパワハラによって眠れない日々を過ごしていた。後輩の勧めで病院を受診した純平は不眠症の診断を受け、処方された薬を受け取りに薬局を訪れる。
純平が訪れた薬局には担当薬剤師制度があり、純平の担当薬剤師となったのは水瀬隼人(みなせ はやと)という茶髪の明るい青年だった。
「佐野さんの全部、俺が支えてあげますよ?」
陽キャ薬剤師×不眠症会社員の社会人BL。
【短編】初対面の推しになぜか好意を向けられています
大河
BL
夜間学校に通いながらコンビニバイトをしている黒澤悠人には、楽しみにしていることがある。それは、たまにバイト先のコンビニに買い物に来る人気アイドル俳優・天野玲央を密かに眺めることだった。
冴えない夜間学生と人気アイドル俳優。住む世界の違う二人の恋愛模様を描いた全8話の短編小説です。箸休めにどうぞ。
※「BLove」さんの第1回BLove小説・漫画コンテストに応募中の作品です
兄貴同士でキスしたら、何か問題でも?
perari
BL
挑戦として、イヤホンをつけたまま、相手の口の動きだけで会話を理解し、電話に答える――そんな遊びをしていた時のことだ。
その最中、俺の親友である理光が、なぜか俺の彼女に電話をかけた。
彼は俺のすぐそばに身を寄せ、薄い唇をわずかに結び、ひと言つぶやいた。
……その瞬間、俺の頭は真っ白になった。
口の動きで読み取った言葉は、間違いなくこうだった。
――「光希、俺はお前が好きだ。」
次の瞬間、電話の向こう側で彼女の怒りが炸裂したのだ。
【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
彩華
BL
俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました
僕の恋人は、超イケメン!!
八乙女 忍
BL
僕は、普通の高校2年生。そんな僕にある日恋人ができた!それは超イケメンのモテモテ男子、あまりにもモテるため女の子に嫌気をさして、偽者の恋人同士になってほしいとお願いされる。最初は、嘘から始まった恋人ごっこがだんだん本気になっていく。お互いに本気になっていくが・・・二人とも、どうすれば良いのかわからない。この後、僕たちはどうなって行くのかな?
ハイスペックストーカーに追われています
たかつきよしき
BL
祐樹は美少女顔負けの美貌で、朝の通勤ラッシュアワーを、女性専用車両に乗ることで回避していた。しかし、そんなことをしたバチなのか、ハイスペック男子の昌磨に一目惚れされて求愛をうける。男に告白されるなんて、冗談じゃねぇ!!と思ったが、この昌磨という男なかなかのハイスペック。利用できる!と、判断して、近づいたのが失敗の始まり。とある切っ掛けで、男だとバラしても昌磨の愛は諦めることを知らず、ハイスペックぶりをフルに活用して迫ってくる!!
と言うタイトル通りの内容。前半は笑ってもらえたらなぁと言う気持ちで、後半はシリアスにBLらしく萌えると感じて頂けるように書きました。
完結しました。
本気になった幼なじみがメロすぎます!
文月あお
BL
同じマンションに住む年下の幼なじみ・玲央は、イケメンで、生意気だけど根はいいやつだし、とてもモテる。
俺は失恋するたびに「玲央みたいな男に生まれたかったなぁ」なんて思う。
いいなぁ玲央は。きっと俺より経験豊富なんだろうな――と、つい出来心で聞いてしまったんだ。
「やっぱ唇ってさ、やわらけーの?」
その軽率な質問が、俺と玲央の幼なじみライフを、まるっと変えてしまった。
「忘れないでよ、今日のこと」
「唯くんは俺の隣しかだめだから」
「なんで邪魔してたか、わかんねーの?」
俺と玲央は幼なじみで。男同士で。生まれたときからずっと一緒で。
俺の恋の相手は女の子のはずだし、玲央の恋の相手は、もっと素敵な人であるはずなのに。
「素数でも数えてなきゃ、俺はふつーにこうなんだよ、唯くんといたら」
そんな必死な顔で迫ってくんなよ……メロすぎんだろーが……!
【攻め】倉田玲央(高一)×【受け】五十嵐唯(高三)
入社1ヶ月のワンコ系男子が、知らずのうちに射止めたのはイケメン社長!?
monteri
BL
CM制作会社の新入社員、藤白純太は入社1ヶ月で教育係の先輩が過労で倒れたため、特別なクライアントの担当を引き継ぐことになる。
そのクライアントは、女子禁制ミーハー厳禁の芸能事務所だった。
主人公の無知で純なところに、翻弄されたり、骨抜きにされるイケメン社長と、何も知らない純太がドキドキするお話です。
※今回の表紙はAI生成です
※小説家になろうにも公開してます
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる