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弁天町の“優しいやじ”
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午後三時を回ったころ、経理部のフロアは少しだけ緩やかな空気に包まれていた。
午前中に山場を越えた案件の処理も一段落し、皆それぞれのデスクで黙々と日常業務をこなしている。
そんな中、弁天町はイヤホンを片方だけ外し、肩をくるりと回しながら立ち上がった。
目線の先には、席を外していた凛がちょうど戻ってきたところだった。
タイミングを見計らったように、彼女は何気なくコピー機の方へ向かいながら、凛のデスクの横で歩みを止める。
背後に人の気配を感じた凛が、わずかに顔を上げた。
「最近、顔やわらかいですね」
弁天町の声は、思っていたよりも低く落ち着いていた。
軽口のようでいて、芯のある言葉。
冗談めかした調子ではなかったからこそ、凛はすぐには返事ができなかった。
たしかに最近、表情が以前とは違うと自覚していた。
厳しさも、張り詰めたような静けさも、完全には消えていないが、
それでもどこか、張った糸の一部が緩んだような日々が続いている。
「……何の話ですか」
ようやく返した言葉は、以前の凛らしい硬さを少しだけ残していた。
だが、語気には抵抗がなかった。
弁天町は、そんな返答を想定していたかのように小さく笑う。
片目で凛を見ながら、軽く手を上げてコピー機に紙を差し込みつつ言葉を重ねた。
「チーフが恋愛するとこ、見れると思わなかったなー」
凛はわずかに眉を寄せた。
でも、それは怒りや否定の表情ではなかった。
むしろ、どこか照れ隠しのような、もどかしい自覚のにじむ仕草だった。
「……見るものではありません」
「でも、見えてるんだよね。すごくいい感じで」
その一言には、からかいの色も、突き放すような空気もなかった。
ただ、“よかったね”という、素朴な応援のまなざしだけがそこにあった。
凛は何も言い返さず、手元の書類に視線を戻した。
だが、その耳元がわずかに赤く染まっていることに、弁天町は気づいていた。
コピーが終わるまでの短い間、ふたりの間には言葉がなかった。
けれどその沈黙は、遠慮ではなく、安心感のようなものだった。
恋愛話など持ち出すキャラではなかった凛が、何も否定せずにこの空気を許している。
それは、弁天町にとっては十分な“変化の証明”だった。
彼女はコピー用紙を手に取りながら、ふと思い出したように小声でつぶやいた。
「……チーフに恋させた谷町、えらいな」
凛の指先が、わずかに止まった。
それでも、何も言わず。
何も訂正せず。
ただ書類をめくり、作業に戻る。
その姿は、過去の凛と変わらないように見えて、どこか違っていた。
無言で受け止める、という選択肢を持てるようになった人間は、もう逃げない。
弁天町はコピーを持って戻りながら、ちらりと凛の背中を振り返った。
姿勢は変わらず、端正なまま。
けれど、その背中から漂う空気が、以前よりもずっと柔らかくなっているのを感じた。
ふたりの間には、何も変わったことはなかった。
言葉を交わしたのはほんの数行。
でも、その短いやり取りの中には、小さな革命のような温度があった。
連帯感というには淡いが、確かに通じ合った何か。
それは、女同士の“ひそやかな了解”にも似ていた。
弁天町はひとつ深く息をついてから、自分の席に戻り、何事もなかったようにパソコンを立ち上げた。
その後ろ姿を見ながら、凛はそっと書類を一枚めくった。
恋という言葉を、自分の生活の中で聞くようになるとは思っていなかった。
けれど今は、こうして誰かがその名を口にしても、
拒まずにいられる自分がいる。
それだけで、世界の輪郭は少し変わって見えた。
午前中に山場を越えた案件の処理も一段落し、皆それぞれのデスクで黙々と日常業務をこなしている。
そんな中、弁天町はイヤホンを片方だけ外し、肩をくるりと回しながら立ち上がった。
目線の先には、席を外していた凛がちょうど戻ってきたところだった。
タイミングを見計らったように、彼女は何気なくコピー機の方へ向かいながら、凛のデスクの横で歩みを止める。
背後に人の気配を感じた凛が、わずかに顔を上げた。
「最近、顔やわらかいですね」
弁天町の声は、思っていたよりも低く落ち着いていた。
軽口のようでいて、芯のある言葉。
冗談めかした調子ではなかったからこそ、凛はすぐには返事ができなかった。
たしかに最近、表情が以前とは違うと自覚していた。
厳しさも、張り詰めたような静けさも、完全には消えていないが、
それでもどこか、張った糸の一部が緩んだような日々が続いている。
「……何の話ですか」
ようやく返した言葉は、以前の凛らしい硬さを少しだけ残していた。
だが、語気には抵抗がなかった。
弁天町は、そんな返答を想定していたかのように小さく笑う。
片目で凛を見ながら、軽く手を上げてコピー機に紙を差し込みつつ言葉を重ねた。
「チーフが恋愛するとこ、見れると思わなかったなー」
凛はわずかに眉を寄せた。
でも、それは怒りや否定の表情ではなかった。
むしろ、どこか照れ隠しのような、もどかしい自覚のにじむ仕草だった。
「……見るものではありません」
「でも、見えてるんだよね。すごくいい感じで」
その一言には、からかいの色も、突き放すような空気もなかった。
ただ、“よかったね”という、素朴な応援のまなざしだけがそこにあった。
凛は何も言い返さず、手元の書類に視線を戻した。
だが、その耳元がわずかに赤く染まっていることに、弁天町は気づいていた。
コピーが終わるまでの短い間、ふたりの間には言葉がなかった。
けれどその沈黙は、遠慮ではなく、安心感のようなものだった。
恋愛話など持ち出すキャラではなかった凛が、何も否定せずにこの空気を許している。
それは、弁天町にとっては十分な“変化の証明”だった。
彼女はコピー用紙を手に取りながら、ふと思い出したように小声でつぶやいた。
「……チーフに恋させた谷町、えらいな」
凛の指先が、わずかに止まった。
それでも、何も言わず。
何も訂正せず。
ただ書類をめくり、作業に戻る。
その姿は、過去の凛と変わらないように見えて、どこか違っていた。
無言で受け止める、という選択肢を持てるようになった人間は、もう逃げない。
弁天町はコピーを持って戻りながら、ちらりと凛の背中を振り返った。
姿勢は変わらず、端正なまま。
けれど、その背中から漂う空気が、以前よりもずっと柔らかくなっているのを感じた。
ふたりの間には、何も変わったことはなかった。
言葉を交わしたのはほんの数行。
でも、その短いやり取りの中には、小さな革命のような温度があった。
連帯感というには淡いが、確かに通じ合った何か。
それは、女同士の“ひそやかな了解”にも似ていた。
弁天町はひとつ深く息をついてから、自分の席に戻り、何事もなかったようにパソコンを立ち上げた。
その後ろ姿を見ながら、凛はそっと書類を一枚めくった。
恋という言葉を、自分の生活の中で聞くようになるとは思っていなかった。
けれど今は、こうして誰かがその名を口にしても、
拒まずにいられる自分がいる。
それだけで、世界の輪郭は少し変わって見えた。
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