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業務指導じゃなくて、好きです
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終業時刻を過ぎ、社内の空気がゆっくりと沈んでいく。
フロアの照明は一部が落とされ、静けさがじわじわと広がっていた。
経理部の一角だけがまだ灯りに包まれていて、その中心には阿波座凛の背中があった。
彼のデスクではなく、コピー台横の端末用サブ机。
ふだんは補助的な事務処理をする場所に、彼は一枚の紙を置いていた。
紙の上部には、手書きのタイトルが記されている。
「精算書・谷町」
光が数日前に差し出した、“私的感情費用の申請書”。
本気と冗談のあいだで揺れるように書かれたその書類は、
今日、凛の前で静かに処理されようとしていた。
凛は無言で、朱肉のフタを開ける。
朱色のインクに指先が触れた瞬間、わずかに迷うように指が止まった。
だがすぐに、その迷いは押さえ込まれる。
認印を持った右手が、ゆっくりと押印位置の上に構えられた。
「申請者:谷町光」
「承認者:阿波座凛」
その下に設けられた捺印欄に、音もなく、印が落ちる。
軽い乾いた音。
それだけで、書類の意味が変わった。
茶化しのように提出された一枚が、今や正式な“承認済み書類”になった。
その瞬間、凛の肩の力がふっと抜ける。
押した直後の手元は、ほんの少しだけ揺れていた。
けれど、印影を確認するときにはもう、彼の表情には微かな安堵が宿っていた。
「……ちゃんと、処理完了」
彼が小さくそう呟いたそのとき。
背後で誰かの声がした。
「……ほんとに、押してくれると思わなかった」
振り返ると、廊下の奥から谷町光が歩いてくるところだった。
ネクタイを緩めたまま、ファイルを抱えていたはずの手は空で、目元が潤んでいる。
凛は驚いたような顔をして、だがすぐにそれを表情から消した。
目を伏せて、押印済みの紙を丁寧に封筒に戻す。
「申請書に不備がなかったので」
「……え、そこ?」
光はくすっと笑い、思わず顔を両手で覆いそうになるのを堪えた。
笑っているのに、瞳の奥にじんわりと滲む光がある。
嬉しさと、少しの照れと、そして何より安心。
「経費申請も、自分の気持ちも、ちゃんと処理するから」
凛の言葉は静かで、けれどどこか温かかった。
誰に見せるでもなく、ただ光にだけ向けられたその一言は、まるで結びの印のようだった。
光は言葉を返せず、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
そしてようやく絞り出すように呟いた。
「……うわ、俺、絶対泣けって言われたら泣けます、今」
凛は目を細め、ほんの少し口角を上げる。
「泣くほどの書類ではありませんよ」
「いや、これ気持ちの確定申告ですって」
やりとりの最中、経理部のパーテーションの影から、小さくひそひそと声が漏れた。
「……あれはもう完全に正式交際でしょ」
「チーフ、照れてる。いや、照れてないふりしてるだけで、絶対照れてる」
今里と弁天町だった。
紙コップのコーヒーを片手に、息をひそめて物陰から覗いていたふたりは、
ニヤニヤが止まらない様子でささやき合っていた。
光はその気配に気づき、ちらりと目をやるが、何も言わずに笑って見逃した。
凛もまた、気づいているはずなのに、黙って書類の整頓を続けていた。
黙っていても、笑っていても、交わす言葉は少なくても。
今、この瞬間、彼らの間にある感情は、もうごまかしようがない。
押されたひとつの印が、誰かの胸の奥を静かに打った。
処理完了の証明は、書類ではなく、ふたりの表情に刻まれていた。
フロアの照明は一部が落とされ、静けさがじわじわと広がっていた。
経理部の一角だけがまだ灯りに包まれていて、その中心には阿波座凛の背中があった。
彼のデスクではなく、コピー台横の端末用サブ机。
ふだんは補助的な事務処理をする場所に、彼は一枚の紙を置いていた。
紙の上部には、手書きのタイトルが記されている。
「精算書・谷町」
光が数日前に差し出した、“私的感情費用の申請書”。
本気と冗談のあいだで揺れるように書かれたその書類は、
今日、凛の前で静かに処理されようとしていた。
凛は無言で、朱肉のフタを開ける。
朱色のインクに指先が触れた瞬間、わずかに迷うように指が止まった。
だがすぐに、その迷いは押さえ込まれる。
認印を持った右手が、ゆっくりと押印位置の上に構えられた。
「申請者:谷町光」
「承認者:阿波座凛」
その下に設けられた捺印欄に、音もなく、印が落ちる。
軽い乾いた音。
それだけで、書類の意味が変わった。
茶化しのように提出された一枚が、今や正式な“承認済み書類”になった。
その瞬間、凛の肩の力がふっと抜ける。
押した直後の手元は、ほんの少しだけ揺れていた。
けれど、印影を確認するときにはもう、彼の表情には微かな安堵が宿っていた。
「……ちゃんと、処理完了」
彼が小さくそう呟いたそのとき。
背後で誰かの声がした。
「……ほんとに、押してくれると思わなかった」
振り返ると、廊下の奥から谷町光が歩いてくるところだった。
ネクタイを緩めたまま、ファイルを抱えていたはずの手は空で、目元が潤んでいる。
凛は驚いたような顔をして、だがすぐにそれを表情から消した。
目を伏せて、押印済みの紙を丁寧に封筒に戻す。
「申請書に不備がなかったので」
「……え、そこ?」
光はくすっと笑い、思わず顔を両手で覆いそうになるのを堪えた。
笑っているのに、瞳の奥にじんわりと滲む光がある。
嬉しさと、少しの照れと、そして何より安心。
「経費申請も、自分の気持ちも、ちゃんと処理するから」
凛の言葉は静かで、けれどどこか温かかった。
誰に見せるでもなく、ただ光にだけ向けられたその一言は、まるで結びの印のようだった。
光は言葉を返せず、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
そしてようやく絞り出すように呟いた。
「……うわ、俺、絶対泣けって言われたら泣けます、今」
凛は目を細め、ほんの少し口角を上げる。
「泣くほどの書類ではありませんよ」
「いや、これ気持ちの確定申告ですって」
やりとりの最中、経理部のパーテーションの影から、小さくひそひそと声が漏れた。
「……あれはもう完全に正式交際でしょ」
「チーフ、照れてる。いや、照れてないふりしてるだけで、絶対照れてる」
今里と弁天町だった。
紙コップのコーヒーを片手に、息をひそめて物陰から覗いていたふたりは、
ニヤニヤが止まらない様子でささやき合っていた。
光はその気配に気づき、ちらりと目をやるが、何も言わずに笑って見逃した。
凛もまた、気づいているはずなのに、黙って書類の整頓を続けていた。
黙っていても、笑っていても、交わす言葉は少なくても。
今、この瞬間、彼らの間にある感情は、もうごまかしようがない。
押されたひとつの印が、誰かの胸の奥を静かに打った。
処理完了の証明は、書類ではなく、ふたりの表情に刻まれていた。
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