経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!

中岡 始

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帰る場所は、ここでいい

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休日の午後。空は高く、雲はゆっくりと流れていた。  
光の部屋には、洗濯機の音も乾燥機の風も聞こえない。  
もう全てが終わり、静かに日常の風景だけがそこにある。

阿波座凛は、ベランダに出ていた。  
木製の小さな物干しラックの前で、洗濯かごからシャツを一枚ずつ取り出しては、整えるように干していく。  
ピンチハンガーの間隔は均等。  
シャツの袖は左右対称。  
何気ないその作業にも、凛の手つきはやはり正確だった。

光は、部屋の中からその様子を眺めていた。  
スウェットの上下に無造作な髪。  
ソファに深く腰を沈めたまま、マグカップを抱えている。

「……そろそろ、うちの合鍵、作ります?」

突然の声に、凛が手を止めた。  
ピンチにかけかけたシャツの襟元をつまんだまま、わずかに振り返る。

目を丸くしたというより、驚いた気配が目元にだけ滲む。  
けれどすぐに、それは消えた。  
淡く、唇の端が持ち上がる。

「……検討します」

その返事に、光は少し肩を揺らして笑った。  
真面目な顔でそう答える凛が、どうしようもなく愛しかった。  
たったひとつの言葉を、真剣に選んでくれることが、何よりも嬉しかった。

「はい、じゃあ書面で申請書提出します。タイトル、“合鍵許可願い”で」

「添付資料として、提出理由と今後の使用予定場所を明記してください」

「やっぱ厳しいなあ、うちの経理部」

そんなやり取りが、ごく自然に交わされていく。  
以前なら、それだけで凛の眉間には小さな皺が寄っていただろう。  
けれど今は違う。  
光の軽口を流すでもなく、真正面から受け止めるでもなく、  
ほんのりと受け取るような柔らかさが、そこにある。

再び凛がベランダに向き直り、最後の一枚をかける。  
白いシャツが二枚並ぶその姿は、よく似ていて、でも少しだけ違っていて、  
それがふたりの関係そのもののようだった。

光が立ち上がり、ベランダのガラス戸を開ける。  
外の風が少し入り込み、カーテンがふわりと揺れた。

「ねえ、凛さん」

「……何ですか」

「俺、もうこの景色で十分幸せです」

その言葉は、特別なものではなかった。  
でも嘘のない、まっすぐな実感がこもっていた。  
凛はシャツの袖をそっと直し、指先に残る生乾きの湿り気をぬぐってから、ゆっくりと振り返った。

「……整ったままで、好きと言えるなら。これ以上は、望みませんね」

光は、驚いたように瞬きをした。  
その言葉が、自分の胸の深いところに届いたのを、自覚している顔だった。  
そして、少しだけ目を細めた凛の表情を見て、目尻が緩む。

静かな風が吹く。  
ベランダのシャツが揺れ、ふたりの間にも風が通る。  
でも、その風は何も壊さない。  
むしろ余白を運んでくるような、優しい通り道だった。

ふたりが一緒に過ごす時間には、もう不安も、不確かさもなかった。  
交際の定義も、形式も、いまは重要ではなかった。  
ただ、“帰ってくる場所”が同じであることが、何よりの証だった。

光がふと、凛の隣に立つ。

「じゃあ、俺が干した洗濯物も、次はもう少し整えてみます」

「そうですね。多少は学習してもらえると助かります」

「はいはい、経理部チーフの審査、厳しいな」

ふたりの声が重なって笑いになる。  
日差しがゆっくりと角度を変え、ベランダの床に、ふたりの影が寄り添って落ちた。

それは、穏やかで、特別で、けれど何でもない一日の終わりだった。  
そして――  
彼らにとっての、“好き”がようやく日常に変わった日でもあった。

【完】
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