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「悠翔」って、呼んだ?
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夕方の教室は、昼のざわめきが嘘のように静かだった。
放課後の空気というのは、なぜこうも時間をゆるやかにするのだろうか。教室の窓からは淡い夕日が射し込み、机の上の白い紙に長く影を落としている。時計の針は五時を少し回ったところだったが、空はすでに茜色に染まりかけていた。
天満悠翔は、向かいに座る京橋蒼真と、バディ学習の課題に取り組んでいた。英語のライティング。短いエッセイを二人で推敲して完成させるというものだ。
悠翔の手元には、きれいにまとめられた下書きのノートがあり、そこに修正点を赤ペンで書き加えている最中だった。集中していた。つもりだった。けれど、意識のどこかでは常に“隣の存在”を気にしていた。
京橋の指先が、紙をひらりとめくる。音もなく、軽やかに。
彼は読みながら、ふと顔を上げた。
「悠翔、それ、どう書いたらいい?」
その声は、本当に何気なかった。
けれど、悠翔の手が止まったのは、その“内容”ではなく、呼びかけの“名前”にあった。
ぴたりと、ペンが空中で止まる。
「……今、“名前”って、呼んだ?」
心の中で、反響するようにその言葉を繰り返した。
教室の奥の時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。周囲には誰もいない。ふたりだけの空間で、たった一度、たった一言の呼びかけが、悠翔の心臓を容赦なく撃ち抜いた。
「だめ、今のはダメ。音声保存したい。心臓が、おかしくなる…!」
目を大きく開いたまま、悠翔はしばし硬直していた。何かを返さなければと思うのに、口が動かない。
隣を見るのが、怖かった。けれど、どうしても見たくなって、ゆっくりと視線を向ける。
京橋は、まったく気にした様子もなく、自然体の笑顔を浮かべていた。どこまでも涼やかで、どこまでも無邪気で、そこには特別な意識などひとかけらもないように見えた。
けれど、悠翔にとっては、その無意識の優しさが、むしろ罪だった。
いつもは「天満くん」だった。学校では苗字呼びが普通で、それが当たり前だと信じていたのに。
たった一度の「悠翔」が、すべてを変えてしまった。
耳の奥が熱い。いや、耳だけじゃない。首の後ろからじわじわと熱が昇ってきて、ついには頬をも焼く。
悠翔は慌てて顔を伏せ、ノートに視線を戻す。手元の字が揺れて見える。ペン先が震えていた。
「……えっと、それは……この構文で、大丈夫……だと思う」
声が、かすれていた。情けないくらいに。
けれど、京橋は気にすることなく、うん、と頷いた。
「ありがとう。やっぱり、悠翔ってすごいな。ノートも丁寧だし、字もきれいだし」
また名前を呼んだ。
二度目だった。今度は明確に、自覚的に。
悠翔は、ぎゅっとペンを握りしめた。
「やめて……それ、何回もやられたら、本当に、心臓が持たない」
そう思いながらも、否定できなかった。
嬉しかった。
苦しかった。
でも、確かに、自分の名前が呼ばれることに、心が震えた。
“推し”には、名前を呼ばれることなんてなかった。
画面の中のレオ様は、物語の中の誰かの名前しか呼ばなかった。
でも、今ここで、現実の誰かが、自分の名前を呼んでくれている。
その事実が、あまりにも大きすぎて、思考がついていかなかった。
窓の外を見るふりをしながら、そっと深呼吸をする。
空は、すっかり茜色になっていた。
雲がゆっくりと流れていて、それを見ているだけで、少しだけ落ち着いた。
でも、胸の中のざわめきは、まだ消えていなかった。
「……これ、もうダメかもしれないな」
思わず、心の中でつぶやいた。
それは、恋という言葉に近づくには、まだ少し遠いけれど。
でも、かつての“推し”では説明がつかない感情が、確かに自分の中で育ちつつあることを、悠翔は、もう否定できなかった。
放課後の空気というのは、なぜこうも時間をゆるやかにするのだろうか。教室の窓からは淡い夕日が射し込み、机の上の白い紙に長く影を落としている。時計の針は五時を少し回ったところだったが、空はすでに茜色に染まりかけていた。
天満悠翔は、向かいに座る京橋蒼真と、バディ学習の課題に取り組んでいた。英語のライティング。短いエッセイを二人で推敲して完成させるというものだ。
悠翔の手元には、きれいにまとめられた下書きのノートがあり、そこに修正点を赤ペンで書き加えている最中だった。集中していた。つもりだった。けれど、意識のどこかでは常に“隣の存在”を気にしていた。
京橋の指先が、紙をひらりとめくる。音もなく、軽やかに。
彼は読みながら、ふと顔を上げた。
「悠翔、それ、どう書いたらいい?」
その声は、本当に何気なかった。
けれど、悠翔の手が止まったのは、その“内容”ではなく、呼びかけの“名前”にあった。
ぴたりと、ペンが空中で止まる。
「……今、“名前”って、呼んだ?」
心の中で、反響するようにその言葉を繰り返した。
教室の奥の時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。周囲には誰もいない。ふたりだけの空間で、たった一度、たった一言の呼びかけが、悠翔の心臓を容赦なく撃ち抜いた。
「だめ、今のはダメ。音声保存したい。心臓が、おかしくなる…!」
目を大きく開いたまま、悠翔はしばし硬直していた。何かを返さなければと思うのに、口が動かない。
隣を見るのが、怖かった。けれど、どうしても見たくなって、ゆっくりと視線を向ける。
京橋は、まったく気にした様子もなく、自然体の笑顔を浮かべていた。どこまでも涼やかで、どこまでも無邪気で、そこには特別な意識などひとかけらもないように見えた。
けれど、悠翔にとっては、その無意識の優しさが、むしろ罪だった。
いつもは「天満くん」だった。学校では苗字呼びが普通で、それが当たり前だと信じていたのに。
たった一度の「悠翔」が、すべてを変えてしまった。
耳の奥が熱い。いや、耳だけじゃない。首の後ろからじわじわと熱が昇ってきて、ついには頬をも焼く。
悠翔は慌てて顔を伏せ、ノートに視線を戻す。手元の字が揺れて見える。ペン先が震えていた。
「……えっと、それは……この構文で、大丈夫……だと思う」
声が、かすれていた。情けないくらいに。
けれど、京橋は気にすることなく、うん、と頷いた。
「ありがとう。やっぱり、悠翔ってすごいな。ノートも丁寧だし、字もきれいだし」
また名前を呼んだ。
二度目だった。今度は明確に、自覚的に。
悠翔は、ぎゅっとペンを握りしめた。
「やめて……それ、何回もやられたら、本当に、心臓が持たない」
そう思いながらも、否定できなかった。
嬉しかった。
苦しかった。
でも、確かに、自分の名前が呼ばれることに、心が震えた。
“推し”には、名前を呼ばれることなんてなかった。
画面の中のレオ様は、物語の中の誰かの名前しか呼ばなかった。
でも、今ここで、現実の誰かが、自分の名前を呼んでくれている。
その事実が、あまりにも大きすぎて、思考がついていかなかった。
窓の外を見るふりをしながら、そっと深呼吸をする。
空は、すっかり茜色になっていた。
雲がゆっくりと流れていて、それを見ているだけで、少しだけ落ち着いた。
でも、胸の中のざわめきは、まだ消えていなかった。
「……これ、もうダメかもしれないな」
思わず、心の中でつぶやいた。
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