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推しと恋、その境界線に立つ
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夜の風はまだ冷たく、袖口から入り込む空気に思わず身をすくめた。
図書室を出たあと、駅とは反対方向へと足を向けてしまったのは、無意識だった。
気がつけば、悠翔は図書館前の坂道を歩いていた。
街灯がまばらに灯る帰り道。
足元には夕方の残照がすでに消え、夜の静寂が音もなく降りていた。
そのなかを、悠翔はノートを抱きしめるようにして、ひとり歩いていた。
通学鞄ではなく、胸の前に抱えるようにして持つそのノートは、今日描いた京橋のスケッチを挟んだまま閉じられている。
けれど、ページを閉じても、頭の中では何度もその絵が浮かんでは消えた。
描いた横顔、あの目元、口元、そして微かな笑み。
それはもう、悠翔にとって“レオ様”ではなかった。
どんなに形が似ていたとしても。
どんなに声や仕草が重なっていたとしても。
そこにあるのは、物語の登場人物ではなく、教室で、図書室で、隣に座る“現実の彼”だった。
「これは“恋”じゃない。ただ、“尊い”だけ」
そう自分に言い聞かせてみる。
口の中で小さく転がしたその言葉は、どこか空虚だった。
響きが浮いて、しっくりこない。
言葉としての収まりが、悪い。
尊い。
確かにそうだ。
この感情は、誰にも渡せない宝物のようで、触れるのが怖いくらいにきらきらしている。
でもそれは、本当に“推し”に向けた気持ちと同じなのだろうか。
手が、勝手に動いた。
あの笑顔を描きたいと思ったとき、理屈なんてなかった。
「これは尊いから」なんて理由ではなかった。
ただ、「忘れたくない」と思った。
声が頭に残っている。
ノート越しに、名前を呼ばれた記憶が、ずっと体の奥にこだましていた。
その声をレオ様の台詞に重ねようとしたとき、違和感があった。
まるで違う旋律の上に、無理やり別の歌を重ねようとしたようなずれ。
どれだけ近くても、それは“別の存在”だった。
「……それでも、好きだと思ってしまうのは、いけないことなのかな」
独り言のように、呟く。
風の中に溶けたその声に、答える人はいない。
けれど、自分の中で、確かに問いが返ってきた。
「俺は“推し”を愛してた。
だから、こんなにも必死に描いてきた。
誰よりも、綺麗に、誰よりも、正確に。
その姿を、形にして残すことで、いつか消えてしまうことへの恐怖に抗ってきた」
それは、愛であり、信仰でもあった。
でも。
「“好きになること”は、こんなにも苦しくて、優しくて、予想できない」
京橋くんの笑顔を描いたとき、自分の心が、あんなに優しく揺れるなんて思わなかった。
名前を呼ばれて、こんなにも動揺するなんて、想像もしなかった。
ノートに記録するどころか、自分の鼓動が“生きている”と叫んでいるようだった。
「京橋くんを描くたび、レオ様の輪郭がぼやけていく」
怖い。
それは、“裏切り”のようにも思える。
ずっと愛してきた物語に、背を向けるような気がしてしまう。
でも――
「それって、裏切り…じゃないよね?」
立ち止まり、見上げた空には、星がひとつだけ光っていた。
図書館の前にある時計塔の上を、夜が静かに支配している。
遠くで車の音がして、すぐにまた静けさが戻る。
何も答えてはくれないその空を見ながら、悠翔は自分の胸の中にある言葉と向き合っていた。
感情は、常に名前を必要とする。
“推し”と呼ぶことで、守れる距離があった。
でも、今、自分が感じているこの気持ちは、その距離ではもう足りなかった。
ノートを胸にぎゅっと抱きしめる。
その中には、描かれた笑顔がある。
思い出だけじゃない、“今”を見て動いた線。
それは、もう過去を追いかけるものではない。
静かに歩き出す。
靴音が、夜の道に馴染んでいく。
この先に、どんな感情が待っているのかはまだわからない。
けれど、今夜、たしかにひとつ、線を超えたような気がしていた。
図書室を出たあと、駅とは反対方向へと足を向けてしまったのは、無意識だった。
気がつけば、悠翔は図書館前の坂道を歩いていた。
街灯がまばらに灯る帰り道。
足元には夕方の残照がすでに消え、夜の静寂が音もなく降りていた。
そのなかを、悠翔はノートを抱きしめるようにして、ひとり歩いていた。
通学鞄ではなく、胸の前に抱えるようにして持つそのノートは、今日描いた京橋のスケッチを挟んだまま閉じられている。
けれど、ページを閉じても、頭の中では何度もその絵が浮かんでは消えた。
描いた横顔、あの目元、口元、そして微かな笑み。
それはもう、悠翔にとって“レオ様”ではなかった。
どんなに形が似ていたとしても。
どんなに声や仕草が重なっていたとしても。
そこにあるのは、物語の登場人物ではなく、教室で、図書室で、隣に座る“現実の彼”だった。
「これは“恋”じゃない。ただ、“尊い”だけ」
そう自分に言い聞かせてみる。
口の中で小さく転がしたその言葉は、どこか空虚だった。
響きが浮いて、しっくりこない。
言葉としての収まりが、悪い。
尊い。
確かにそうだ。
この感情は、誰にも渡せない宝物のようで、触れるのが怖いくらいにきらきらしている。
でもそれは、本当に“推し”に向けた気持ちと同じなのだろうか。
手が、勝手に動いた。
あの笑顔を描きたいと思ったとき、理屈なんてなかった。
「これは尊いから」なんて理由ではなかった。
ただ、「忘れたくない」と思った。
声が頭に残っている。
ノート越しに、名前を呼ばれた記憶が、ずっと体の奥にこだましていた。
その声をレオ様の台詞に重ねようとしたとき、違和感があった。
まるで違う旋律の上に、無理やり別の歌を重ねようとしたようなずれ。
どれだけ近くても、それは“別の存在”だった。
「……それでも、好きだと思ってしまうのは、いけないことなのかな」
独り言のように、呟く。
風の中に溶けたその声に、答える人はいない。
けれど、自分の中で、確かに問いが返ってきた。
「俺は“推し”を愛してた。
だから、こんなにも必死に描いてきた。
誰よりも、綺麗に、誰よりも、正確に。
その姿を、形にして残すことで、いつか消えてしまうことへの恐怖に抗ってきた」
それは、愛であり、信仰でもあった。
でも。
「“好きになること”は、こんなにも苦しくて、優しくて、予想できない」
京橋くんの笑顔を描いたとき、自分の心が、あんなに優しく揺れるなんて思わなかった。
名前を呼ばれて、こんなにも動揺するなんて、想像もしなかった。
ノートに記録するどころか、自分の鼓動が“生きている”と叫んでいるようだった。
「京橋くんを描くたび、レオ様の輪郭がぼやけていく」
怖い。
それは、“裏切り”のようにも思える。
ずっと愛してきた物語に、背を向けるような気がしてしまう。
でも――
「それって、裏切り…じゃないよね?」
立ち止まり、見上げた空には、星がひとつだけ光っていた。
図書館の前にある時計塔の上を、夜が静かに支配している。
遠くで車の音がして、すぐにまた静けさが戻る。
何も答えてはくれないその空を見ながら、悠翔は自分の胸の中にある言葉と向き合っていた。
感情は、常に名前を必要とする。
“推し”と呼ぶことで、守れる距離があった。
でも、今、自分が感じているこの気持ちは、その距離ではもう足りなかった。
ノートを胸にぎゅっと抱きしめる。
その中には、描かれた笑顔がある。
思い出だけじゃない、“今”を見て動いた線。
それは、もう過去を追いかけるものではない。
静かに歩き出す。
靴音が、夜の道に馴染んでいく。
この先に、どんな感情が待っているのかはまだわからない。
けれど、今夜、たしかにひとつ、線を超えたような気がしていた。
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