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主任補佐と新入社員と、距離感ゼロの恋未満
エレベーター、あと三十センチ
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金曜の夕方は、どの部署も早めに帰宅ムードに入る。
次の週に備えて、あえて仕事を詰め込まない者も多く、社内の空気がやや緩む時間帯だった。
だが、営業部の一角で、佐倉はひとりだけ残っていた。
次週のクライアントプレゼン用の会議資料を、直前になって内容調整することになったためだ。
本来ならチーム全体で再編成すべき内容だったが、陽翔と他メンバーはすでに出払っており、榊課長も会食で外出中。
「はあ……また俺かいな」
ひとりごとのように呟きながら、佐倉はパソコンに表示されたグラフを修正していた。
オフィスの照明は、今や半分だけ点いている。
フロアにはほとんど人の気配がなく、コピー機の小さなうなりだけが続いていた。
そこへ、トン、と軽い足音がひとつ。
「……瀬戸?」
呼びかけると、間もなく細身の背中が振り返った。
「はい。まだ資料、終わってないんですか」
「終わるわけないやろ、こんなん。そもそも……お前、もう退勤してたんちゃうんか」
「タイムカードは押しました。でも、ロッカーに忘れ物があって」
そう言いながら、瀬戸は佐倉の隣に自然に立った。
なにか指示を求めるわけでもなく、ただそこに“いる”。
「……なんや、お前、最近よくおるな。俺の横に」
佐倉が意図的に軽口を投げると、瀬戸は小さく笑った。
「佐倉さんが、よくそこにいるからです」
まるで前にも聞いたような台詞だった。
だが、今のほうが、なぜかずっと“距離”を近く感じた。
資料の印刷を終え、ファイルに綴じる。
佐倉がロッカーへ戻り、上着を羽織ると、
瀬戸も当然のように横に並んでいた。
「鍵、一緒に閉めますから」
そのひと言に、思わず視線が止まる。
なにかを期待していたわけではない。
けれど、なぜこの子は“そんなふうに”自然に、俺と並ぶのか。
佐倉は言葉にせず、内心で問いかけた。
オフィスを出て、エレベーターへ向かう。
廊下の照明は感知式で、ふたりが通るたび、ぽつぽつと明かりが灯る。
やがてエレベーターが到着し、扉が開く。
無人の箱の中にふたりが並んで入ると、内側の照明だけがふわりと灯った。
閉まる扉。
狭い空間。
壁際に立つふたりの間、わずか三十センチ。
背中同士が向いていれば気にならない距離でも、
横に並ぶと、そこにある空気の温度が、まるで違って感じられる。
瀬戸は何も言わず、前を見つめている。
佐倉も視線をそらせず、床のボタンをぼんやり見ていた。
気まずいわけではない。
むしろ落ち着いている。
ただ――
心臓が、少しだけうるさい。
ふと、瀬戸の視線がこちらへ動いた気がして、
佐倉はまばたきを一度、ゆっくりとした。
その遅さを自覚したときには、もう遅かった。
視線が重なったわけではない。
けれど、たしかに“見られた”という気配だけが、肩に残った。
そのまま、沈黙。
やがて一階に到着し、扉が開く。
ふたり同時に歩き出す。
言葉はない。
建物を出て、ビルの前まで来たところで、ようやく瀬戸が口を開いた。
「……お疲れさまでした」
静かに、でも確かに感情がこもっていた。
佐倉も、ほんの少しだけ息を吐くように返した。
「……ああ。お前もな」
それだけで、会話は終了した。
だが、帰り道。
足音が同じリズムで鳴っていることに、佐倉は気づいていた。
合わせているわけではない。
けれど、ずっと同じ歩幅。
同じテンポ。
それに気づいた瞬間、佐倉はひとりだけ、赤面した。
なにを照れてんねん。
別になんも、されてへん。
けど――
なんやこの、居心地。
ちょっと、落ち着きすぎとるやろ。
夜風が少しだけ強くなって、ふたりの髪を軽く揺らした。
そのとき佐倉は、まだ言葉にできない何かを、胸の中で確かに感じていた。
次の週に備えて、あえて仕事を詰め込まない者も多く、社内の空気がやや緩む時間帯だった。
だが、営業部の一角で、佐倉はひとりだけ残っていた。
次週のクライアントプレゼン用の会議資料を、直前になって内容調整することになったためだ。
本来ならチーム全体で再編成すべき内容だったが、陽翔と他メンバーはすでに出払っており、榊課長も会食で外出中。
「はあ……また俺かいな」
ひとりごとのように呟きながら、佐倉はパソコンに表示されたグラフを修正していた。
オフィスの照明は、今や半分だけ点いている。
フロアにはほとんど人の気配がなく、コピー機の小さなうなりだけが続いていた。
そこへ、トン、と軽い足音がひとつ。
「……瀬戸?」
呼びかけると、間もなく細身の背中が振り返った。
「はい。まだ資料、終わってないんですか」
「終わるわけないやろ、こんなん。そもそも……お前、もう退勤してたんちゃうんか」
「タイムカードは押しました。でも、ロッカーに忘れ物があって」
そう言いながら、瀬戸は佐倉の隣に自然に立った。
なにか指示を求めるわけでもなく、ただそこに“いる”。
「……なんや、お前、最近よくおるな。俺の横に」
佐倉が意図的に軽口を投げると、瀬戸は小さく笑った。
「佐倉さんが、よくそこにいるからです」
まるで前にも聞いたような台詞だった。
だが、今のほうが、なぜかずっと“距離”を近く感じた。
資料の印刷を終え、ファイルに綴じる。
佐倉がロッカーへ戻り、上着を羽織ると、
瀬戸も当然のように横に並んでいた。
「鍵、一緒に閉めますから」
そのひと言に、思わず視線が止まる。
なにかを期待していたわけではない。
けれど、なぜこの子は“そんなふうに”自然に、俺と並ぶのか。
佐倉は言葉にせず、内心で問いかけた。
オフィスを出て、エレベーターへ向かう。
廊下の照明は感知式で、ふたりが通るたび、ぽつぽつと明かりが灯る。
やがてエレベーターが到着し、扉が開く。
無人の箱の中にふたりが並んで入ると、内側の照明だけがふわりと灯った。
閉まる扉。
狭い空間。
壁際に立つふたりの間、わずか三十センチ。
背中同士が向いていれば気にならない距離でも、
横に並ぶと、そこにある空気の温度が、まるで違って感じられる。
瀬戸は何も言わず、前を見つめている。
佐倉も視線をそらせず、床のボタンをぼんやり見ていた。
気まずいわけではない。
むしろ落ち着いている。
ただ――
心臓が、少しだけうるさい。
ふと、瀬戸の視線がこちらへ動いた気がして、
佐倉はまばたきを一度、ゆっくりとした。
その遅さを自覚したときには、もう遅かった。
視線が重なったわけではない。
けれど、たしかに“見られた”という気配だけが、肩に残った。
そのまま、沈黙。
やがて一階に到着し、扉が開く。
ふたり同時に歩き出す。
言葉はない。
建物を出て、ビルの前まで来たところで、ようやく瀬戸が口を開いた。
「……お疲れさまでした」
静かに、でも確かに感情がこもっていた。
佐倉も、ほんの少しだけ息を吐くように返した。
「……ああ。お前もな」
それだけで、会話は終了した。
だが、帰り道。
足音が同じリズムで鳴っていることに、佐倉は気づいていた。
合わせているわけではない。
けれど、ずっと同じ歩幅。
同じテンポ。
それに気づいた瞬間、佐倉はひとりだけ、赤面した。
なにを照れてんねん。
別になんも、されてへん。
けど――
なんやこの、居心地。
ちょっと、落ち着きすぎとるやろ。
夜風が少しだけ強くなって、ふたりの髪を軽く揺らした。
そのとき佐倉は、まだ言葉にできない何かを、胸の中で確かに感じていた。
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