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傘を差し出す手
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夜六時を少し回った頃、オフィスの一階ロビーに、濡れた足音と、傘のはじく水音が響いていた。
退勤ラッシュの時間帯、社員たちはそれぞれの帰路につき、次々とエントランスを抜けていく。
ドアが開くたび、湿気を含んだ冷たい風がロビーに入り込み、
ガラス越しに見える外の景色は、降りしきる雨で霞んでいた。
梅田は玄関脇の柱にもたれ、ポケットに両手を突っ込んだまま、空を見上げていた。
傘は、ない。
天気予報を見逃していた。
午前中は快晴だったのに、午後から急に空が暗くなり、帰るころにはこのざま。
(まあ、しゃあないか)
タクシーを呼ぶほどでもない。
雨足は強いが、しばらくすれば小降りになるかもしれない。
そう思いながら、スマホの画面でレーダー予報を眺めていたそのときだった。
ガラスの扉が開く音がした。
振り返ると、ひとりの姿が視界に入る。
天王寺悠だった。
黒い鞄を肩に掛け、手には透明なビニール傘。
髪には一滴も水気がなく、歩く姿にはいつものように無駄がなかった。
足を止めた天王寺が、梅田の横に立つ。
何も言わないまま、傘をすっと差し出してくる。
「……これ、使ってください」
言葉は静かで、抑揚がなかった。
梅田は、一瞬反応が遅れた。
心のどこかで、彼が傘を差し出す理由を探してしまう自分がいた。
仕事帰りにたまたま出くわしただけか。
それとも、他に使うあてがなかったのか。
でも、そんな理屈を並べても、今この状況で傘を手放す意味はない。
「いや…天王寺は?」
問いかけると、天王寺はわずかに首を傾け、
ほんの少しだけ、唇の端を緩めた。
それは笑顔と呼べるほどのものではなかった。
けれど、確かにそこには感情があった。
「俺は濡れても大丈夫ですから」
さらりと言ったその一言に、梅田は胸を掴まれたような感覚を覚えた。
差し出された傘を受け取りながら、視線がぶつかる。
彼の目は、いつもより少しだけ色を帯びていた。
「……なんで、そんな優しさを誰にも見せへんの?」
堪えきれず、言葉に出た。
こんなふうに人を助けられるくせに。
どうして、誰にも見せないように生きてるんや。
天王寺は、一瞬だけ視線を泳がせた。
そして、手にしていた傘を、押しつけるように梅田の手に重ねる。
その動作に、わずかに力がこもっていた。
「見せたら、壊れるでしょ。あなたも」
その言葉は、静かで、でも冷たくなかった。
むしろ、どこか自分自身を抱きしめるような、
そうしなければ壊れてしまうような、壊してしまうような、そんな声だった。
梅田は言葉が出なかった。
その瞬間、どんな顔をしていたか自分でもわからない。
ただ、彼の言葉に込められた“過去”の重みと、
“これ以上は近づくな”という警告のようなやさしさが、
喉の奥を塞いでしまった。
透明な傘の骨が、手の中でかすかに軋む。
見せたら、壊れる。
それは、自分のことではない。
彼自身のことだ。
何度もそうやって壊されてきたから、
だから今は、誰にも見せないと決めている。
梅田は、何も言えずに傘を握りしめたまま、雨の外を見た。
天王寺は、それ以上何も言わずにくるりと背を向ける。
肩にかかった鞄の重さが、その細い背中をひときわ小さく見せていた。
梅田の足は動かなかった。
胸の奥に熱いものが広がっていた。
雨のせいでも、寒さのせいでもない。
感情の渦が静かに押し寄せてきていた。
傘を開く。
パチンと音がして、透明な屋根が頭上に広がった。
その透明の向こう、雨が静かに降り続いている。
目の前の光景がぼんやりと滲んでいく。
傘の中、ひとりきり。
けれど、その中に、天王寺の温度がまだ残っているように感じた。
退勤ラッシュの時間帯、社員たちはそれぞれの帰路につき、次々とエントランスを抜けていく。
ドアが開くたび、湿気を含んだ冷たい風がロビーに入り込み、
ガラス越しに見える外の景色は、降りしきる雨で霞んでいた。
梅田は玄関脇の柱にもたれ、ポケットに両手を突っ込んだまま、空を見上げていた。
傘は、ない。
天気予報を見逃していた。
午前中は快晴だったのに、午後から急に空が暗くなり、帰るころにはこのざま。
(まあ、しゃあないか)
タクシーを呼ぶほどでもない。
雨足は強いが、しばらくすれば小降りになるかもしれない。
そう思いながら、スマホの画面でレーダー予報を眺めていたそのときだった。
ガラスの扉が開く音がした。
振り返ると、ひとりの姿が視界に入る。
天王寺悠だった。
黒い鞄を肩に掛け、手には透明なビニール傘。
髪には一滴も水気がなく、歩く姿にはいつものように無駄がなかった。
足を止めた天王寺が、梅田の横に立つ。
何も言わないまま、傘をすっと差し出してくる。
「……これ、使ってください」
言葉は静かで、抑揚がなかった。
梅田は、一瞬反応が遅れた。
心のどこかで、彼が傘を差し出す理由を探してしまう自分がいた。
仕事帰りにたまたま出くわしただけか。
それとも、他に使うあてがなかったのか。
でも、そんな理屈を並べても、今この状況で傘を手放す意味はない。
「いや…天王寺は?」
問いかけると、天王寺はわずかに首を傾け、
ほんの少しだけ、唇の端を緩めた。
それは笑顔と呼べるほどのものではなかった。
けれど、確かにそこには感情があった。
「俺は濡れても大丈夫ですから」
さらりと言ったその一言に、梅田は胸を掴まれたような感覚を覚えた。
差し出された傘を受け取りながら、視線がぶつかる。
彼の目は、いつもより少しだけ色を帯びていた。
「……なんで、そんな優しさを誰にも見せへんの?」
堪えきれず、言葉に出た。
こんなふうに人を助けられるくせに。
どうして、誰にも見せないように生きてるんや。
天王寺は、一瞬だけ視線を泳がせた。
そして、手にしていた傘を、押しつけるように梅田の手に重ねる。
その動作に、わずかに力がこもっていた。
「見せたら、壊れるでしょ。あなたも」
その言葉は、静かで、でも冷たくなかった。
むしろ、どこか自分自身を抱きしめるような、
そうしなければ壊れてしまうような、壊してしまうような、そんな声だった。
梅田は言葉が出なかった。
その瞬間、どんな顔をしていたか自分でもわからない。
ただ、彼の言葉に込められた“過去”の重みと、
“これ以上は近づくな”という警告のようなやさしさが、
喉の奥を塞いでしまった。
透明な傘の骨が、手の中でかすかに軋む。
見せたら、壊れる。
それは、自分のことではない。
彼自身のことだ。
何度もそうやって壊されてきたから、
だから今は、誰にも見せないと決めている。
梅田は、何も言えずに傘を握りしめたまま、雨の外を見た。
天王寺は、それ以上何も言わずにくるりと背を向ける。
肩にかかった鞄の重さが、その細い背中をひときわ小さく見せていた。
梅田の足は動かなかった。
胸の奥に熱いものが広がっていた。
雨のせいでも、寒さのせいでもない。
感情の渦が静かに押し寄せてきていた。
傘を開く。
パチンと音がして、透明な屋根が頭上に広がった。
その透明の向こう、雨が静かに降り続いている。
目の前の光景がぼんやりと滲んでいく。
傘の中、ひとりきり。
けれど、その中に、天王寺の温度がまだ残っているように感じた。
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