地味メガネだと思ってた同僚が、眼鏡を外したら国宝級でした~無愛想な美人と、チャラ営業のすれ違い恋愛

中岡 始

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素顔を封じた夜

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バー〈クラルテ〉の扉を押すと、空気が一変した。

外の雨音が、遠くに引いていく。  
照明は落ち着いていて、カウンターの向こうでは直人がグラスを磨いていた。  
天王寺は黙ってコートを脱ぎ、いつもの席に腰を下ろす。  
ジャケットのポケットからハンカチを取り出し、指先についた雨粒を拭った。

直人は何も聞かず、何も言わず、ただ琥珀色の液体を注いだ。  
グラスの中で、氷が静かに音を立てた。

ひと口、バーボンを口に含む。  
喉の奥で焼けるような熱が広がり、頭の中の雑音が、少しだけ遠ざかった。

「……今日も、また少し素顔が出たんやな」

直人が、グラスをふたつ並べながら呟いた。

天王寺は口元にかすかに苦笑を浮かべた。  
その笑いは、どこか照れくささと諦めの混ざったものだった。

「……見せたら、また壊すかもしれない」

静かなカウンターに、言葉が沈む。  
答えになっていない答え。  
けれど、直人はそれを否定も肯定もせず、ただ氷をかき混ぜる音だけを続けた。

「それでも、今の顔は……嫌じゃなかったんだろ?」

問うようでいて、責めるようではない声音。  
むしろ、答えを知っていて、確かめているような静けさだった。

天王寺はグラスを見つめたまま、何も返さなかった。  
ただ、液面が揺れるのをじっと見て、そしてもう一口、飲み干した。

そのアルコールの熱とともに、記憶が蘇る。

大学三年の春だった。

写真サークルで出会った、ひとつ上の先輩。  
ふわりとした雰囲気で、どこか少年のような笑顔を浮かべる人だった。  
向こうから声をかけられ、自然と一緒にいる時間が増えていった。

「お前、ほんま綺麗やな」  
「なんでそんな顔してんのに、そんな冷めた目してんの」  
「もっと、笑ってほしい」

言葉を交わすたびに、優しさの裏にある欲が、少しずつ顔を覗かせていた。  
それに気づいても、初めは嬉しかった。  
誰かに強く求められることを、心が肯定してしまった。

ふたりで過ごす夜、手を繋ぎ、肩を寄せて眠った部屋の匂い。  
それが温もりだと信じていた。

けれど、ある日を境に、先輩の言葉は変わっていった。

「他のやつに見せるなよ、その顔」  
「モデルのバイト? やめろ。俺だけが見てればええねん」  
「俺が怖いか? でもお前がそうさせたんやで」

そんなふうに、優しさの形をした暴力に変わっていった。

わかっていたのに、別れられなかった。  
弱さを突かれるたび、好きという感情が後ろに引きずられていった。

あの夜、狭いワンルームで、  
天王寺が「終わりにしたい」と告げたとき。

先輩は泣いていた。  
自分を抱きしめて、爪を立て、そして拳を振るった。

頬を打たれたあと、  
天王寺はただ黙って立ち上がり、玄関の扉を開けて外に出た。  
それきり、振り返らなかった。

街は静かで、夜風が痛かった。  
心の奥で何かがぽっきりと折れた音がした。

(俺が顔を見せると、人は変わる)

(好きになられると、俺も変わってしまう)

それから天王寺は、感情を閉じ込めるようになった。  
髪を伸ばし、眼鏡をかけ、言葉数を減らし、  
誰にも“好き”を持たせないようにした。

そのほうが、生きやすい。  
誰のことも壊さずにすむ。  
誰にも壊されずにすむ。

それでいいと思っていた。  
今日までは。

だが――  
会社のエントランスで、傘を差し出したときの、梅田の顔。

驚きと、戸惑いと、  
それでも「ありがとう」と言うときの、まっすぐで誠実な目。

あの目は、何も壊そうとしていなかった。  
支配しようとも、測ろうともしていなかった。

ただ、自分が差し出したものを、  
そのまま、まっすぐ受け取ろうとしてくれた。

その記憶が、今も胸の奥に残っていた。  
どこかに熱を残したまま、消えずにいた。

「……嫌じゃ、なかったよ」

呟くように言ったその声は、  
グラスの中で揺れる氷の音に、かき消されそうなくらい小さかった。

けれど、直人はその一言に、何も言わず、ただ一杯のバーボンを注いだ。

それを受け取って、天王寺は再び、ゆっくりと口に運んだ。

熱は、喉ではなく、すでに胸の奥に灯っていた。
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