27 / 91
小さな宝石店で──『今日も妻の瞳に恋をする』
しおりを挟む
──過ぎたるは、及ばざるより胃に堪える。
これが伯爵家の“朝の軽食”だというのなら、私は朝という概念を見直さねばなるまい。
そんな格言を胸の奥で反芻しながら、私は伯爵家の朝食を前に苦笑していた。昨夜の豪勢な晩餐に続き、今朝も重厚な銀の蓋が次々と開かれる。バター香る焼きたてのパン、厚切りのベーコン、ベシャメルで覆われた野菜のグラタン……胃袋という器官の限界に挑戦するような献立だ。
「クロード……これは、私の胃には重すぎるよ……」
悲痛な表情を浮かべながら、男爵様は小さく囁いた。私もまた微笑みを浮かべつつも、内心でそっと同情する。男爵様の胃腸の限界を、私は誰よりもよく知っている。
食事が終わるや否や、男爵様はそそくさと退席しようとしたが、運の悪いことにそこを伯爵に捕まってしまった。
「ルードヴィッヒ男爵! 今日はゆっくり私の戦場譚を語らせていただこうじゃないか!」
「い、いや、その……少々胃が……」
「ハハハ! 胃も心も鍛えられてこそ男だ!」
まるで反論の余地などない。男爵様は悲壮感を滲ませた視線で助けを求めてきたが、私は申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「男爵様、申し訳ありません。私、少々用事がございまして──ご健闘をお祈りしております」
「クロードぉぉ……!」
背後で悲鳴じみた声が聞こえたが、気づかないふりをして街へと出た。
◆◆◆
午前の陽射しがまだ柔らかい時間。石畳の道に賑やかな市場の声が混じり、遠くからパンを焼く香ばしい匂いが漂ってくる。
街中は活気に満ちていた。露店には色とりどりの品物が並び、道行く人々の表情も明るい。
私はある宝石店の前で足を止めた。こぢんまりとしたその店は、豪奢ではないが誠実さが滲む造りで、窓越しに見える細工の美しいアクセサリーが印象的だった。
店内に足を踏み入れ、静かにショーケースを覗く。ふと、ひとつのブローチに目が留まった。
リボンのように銀の帯が交差してできた結び目のデザイン。中央に丸いサファイアがはめ込まれており、シンプルながら存在感がある。深く、落ち着きのある青。まるで、彼女の瞳のようだ。
「……これにしましょう。妻への贈り物です」
そう店主に伝えると、彼はにこやかに頷き、丁寧に包み始めた。その間、私は窓の外に目をやった──
そして、思わず眉を顰める。
「まあ、この店もたいしたことないわね!もっとましな物はないのかしら?」
通りの向こうから派手な笑い声と共に、目が痛くなるほど真紅のドレスをまとった令嬢が現れた。赤毛をなびかせ、香水の匂いすら届いてきそうな勢いで店を練り歩いている。取り巻きの男性たちは、まるで供物を携えた家臣のように彼女の後をついて回っていた。
「あの……お騒がせを……」
店主が小声で謝る。私は軽く首を振る。
「構いません。街とは、元より騒がしいものですから」
そして──私は思った。
次は、妻とふたりで訪れよう。彼女となら、ああいう喧噪も笑って眺められるに違いない。
◆◆◆
通りを歩いていると、不意に背後から聞き覚えのある声が飛んできた。
「ク、クロード……!?」
振り向けば、そこには騎士団長ウィルが、目を見開いて立ち尽くしていた。
「これはこれは、騎士団長殿。偶然ですね」
「まさか君がここにいるとは……男爵家を抜け出してきたのか?」
「いえ、少し私用で。男爵様は今、アルフォンス伯爵様と親交を深めておられます」
ウィルの表情に同情の色が浮かぶ。
「それは……お気の毒だな。伯爵殿の話はかなり長いことで有名だ」
「ええ。ですが男爵様はきっと立派に耐えてくださるでしょう」
そう答えると、ウィルはふっと肩を落としながらも微笑んだ。
「君がこうして楽しそうに買い物してる姿、初めて見たよ。ちょっと驚いた」
「妻へのプレゼントを選んでおりました。私は、彼女の笑顔を守るために生きておりますから」
私が微笑みながらそう答えると、ウィルは妙に納得したように頷いた。
「……君らしいな。だが、早く戻らないと、男爵殿が耳もたれを起こすぞ」
「それは困りますね」
私は再び笑みを浮かべて軽く会釈をした。
「またお会いしましょう、騎士団長殿」
ウィルは軽く手を挙げて去っていき、私はブローチの包みを胸元に収めて歩き出す。
街はいつも、他人の物語で満ちている。
だが今日ばかりは、私のささやかな幸せのために歩いても罰は当たるまい。
──伯爵家で繰り広げられる静かな戦いはまだ終わっていないが、少なくとも今の私は、この穏やかな時間を心ゆくまで楽しんだのだった。
これが伯爵家の“朝の軽食”だというのなら、私は朝という概念を見直さねばなるまい。
そんな格言を胸の奥で反芻しながら、私は伯爵家の朝食を前に苦笑していた。昨夜の豪勢な晩餐に続き、今朝も重厚な銀の蓋が次々と開かれる。バター香る焼きたてのパン、厚切りのベーコン、ベシャメルで覆われた野菜のグラタン……胃袋という器官の限界に挑戦するような献立だ。
「クロード……これは、私の胃には重すぎるよ……」
悲痛な表情を浮かべながら、男爵様は小さく囁いた。私もまた微笑みを浮かべつつも、内心でそっと同情する。男爵様の胃腸の限界を、私は誰よりもよく知っている。
食事が終わるや否や、男爵様はそそくさと退席しようとしたが、運の悪いことにそこを伯爵に捕まってしまった。
「ルードヴィッヒ男爵! 今日はゆっくり私の戦場譚を語らせていただこうじゃないか!」
「い、いや、その……少々胃が……」
「ハハハ! 胃も心も鍛えられてこそ男だ!」
まるで反論の余地などない。男爵様は悲壮感を滲ませた視線で助けを求めてきたが、私は申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「男爵様、申し訳ありません。私、少々用事がございまして──ご健闘をお祈りしております」
「クロードぉぉ……!」
背後で悲鳴じみた声が聞こえたが、気づかないふりをして街へと出た。
◆◆◆
午前の陽射しがまだ柔らかい時間。石畳の道に賑やかな市場の声が混じり、遠くからパンを焼く香ばしい匂いが漂ってくる。
街中は活気に満ちていた。露店には色とりどりの品物が並び、道行く人々の表情も明るい。
私はある宝石店の前で足を止めた。こぢんまりとしたその店は、豪奢ではないが誠実さが滲む造りで、窓越しに見える細工の美しいアクセサリーが印象的だった。
店内に足を踏み入れ、静かにショーケースを覗く。ふと、ひとつのブローチに目が留まった。
リボンのように銀の帯が交差してできた結び目のデザイン。中央に丸いサファイアがはめ込まれており、シンプルながら存在感がある。深く、落ち着きのある青。まるで、彼女の瞳のようだ。
「……これにしましょう。妻への贈り物です」
そう店主に伝えると、彼はにこやかに頷き、丁寧に包み始めた。その間、私は窓の外に目をやった──
そして、思わず眉を顰める。
「まあ、この店もたいしたことないわね!もっとましな物はないのかしら?」
通りの向こうから派手な笑い声と共に、目が痛くなるほど真紅のドレスをまとった令嬢が現れた。赤毛をなびかせ、香水の匂いすら届いてきそうな勢いで店を練り歩いている。取り巻きの男性たちは、まるで供物を携えた家臣のように彼女の後をついて回っていた。
「あの……お騒がせを……」
店主が小声で謝る。私は軽く首を振る。
「構いません。街とは、元より騒がしいものですから」
そして──私は思った。
次は、妻とふたりで訪れよう。彼女となら、ああいう喧噪も笑って眺められるに違いない。
◆◆◆
通りを歩いていると、不意に背後から聞き覚えのある声が飛んできた。
「ク、クロード……!?」
振り向けば、そこには騎士団長ウィルが、目を見開いて立ち尽くしていた。
「これはこれは、騎士団長殿。偶然ですね」
「まさか君がここにいるとは……男爵家を抜け出してきたのか?」
「いえ、少し私用で。男爵様は今、アルフォンス伯爵様と親交を深めておられます」
ウィルの表情に同情の色が浮かぶ。
「それは……お気の毒だな。伯爵殿の話はかなり長いことで有名だ」
「ええ。ですが男爵様はきっと立派に耐えてくださるでしょう」
そう答えると、ウィルはふっと肩を落としながらも微笑んだ。
「君がこうして楽しそうに買い物してる姿、初めて見たよ。ちょっと驚いた」
「妻へのプレゼントを選んでおりました。私は、彼女の笑顔を守るために生きておりますから」
私が微笑みながらそう答えると、ウィルは妙に納得したように頷いた。
「……君らしいな。だが、早く戻らないと、男爵殿が耳もたれを起こすぞ」
「それは困りますね」
私は再び笑みを浮かべて軽く会釈をした。
「またお会いしましょう、騎士団長殿」
ウィルは軽く手を挙げて去っていき、私はブローチの包みを胸元に収めて歩き出す。
街はいつも、他人の物語で満ちている。
だが今日ばかりは、私のささやかな幸せのために歩いても罰は当たるまい。
──伯爵家で繰り広げられる静かな戦いはまだ終わっていないが、少なくとも今の私は、この穏やかな時間を心ゆくまで楽しんだのだった。
11
あなたにおすすめの小説
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
侯爵夫人のハズですが、完全に無視されています
猫枕
恋愛
伯爵令嬢のシンディーは学園を卒業と同時にキャッシュ侯爵家に嫁がされた。
しかし婚姻から4年、旦那様に会ったのは一度きり、大きなお屋敷の端っこにある離れに住むように言われ、勝手な外出も禁じられている。
本宅にはシンディーの偽物が奥様と呼ばれて暮らしているらしい。
盛大な結婚式が行われたというがシンディーは出席していないし、今年3才になる息子がいるというが、もちろん産んだ覚えもない。
《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。
ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」
その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。
まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?
せいめ
恋愛
政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。
喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。
そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。
その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。
閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。
でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。
家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。
その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。
まずは亡くなったはずの旦那様との話から。
ご都合主義です。
設定は緩いです。
誤字脱字申し訳ありません。
主人公の名前を途中から間違えていました。
アメリアです。すみません。
ブスすぎて嫁の貰い手がないから閨勤侍女になれと言われたので縁を切ります、完全に!完全縁切りの先にあったのは孤独ではなくて…
ハートリオ
恋愛
ルフスは結婚が決まった従姉の閨勤侍女になるよう父親に命令されたのをきっかけに父に無視され冷遇されて来た日々を終わらせようとブラコン父と完全に縁を切る決意する。
一方、従姉の結婚相手はアルゲンテウス辺境伯とのことだが、実は手違いがあって辺境伯が結婚したいのはルフス。
そんなこんなの異世界ファンタジーラブです。
読んでいただけると嬉しいです。
貴妃エレーナ
無味無臭(不定期更新)
恋愛
「君は、私のことを恨んでいるか?」
後宮で暮らして数十年の月日が流れたある日のこと。国王ローレンスから突然そう聞かれた貴妃エレーナは戸惑ったように答えた。
「急に、どうされたのですか?」
「…分かるだろう、はぐらかさないでくれ。」
「恨んでなどいませんよ。あれは遠い昔のことですから。」
そう言われて、私は今まで蓋をしていた記憶を辿った。
どうやら彼は、若かりし頃に私とあの人の仲を引き裂いてしまったことを今も悔やんでいるらしい。
けれど、もう安心してほしい。
私は既に、今世ではあの人と縁がなかったんだと諦めている。
だから…
「陛下…!大変です、内乱が…」
え…?
ーーーーーーーーーーーーー
ここは、どこ?
さっきまで内乱が…
「エレーナ?」
陛下…?
でも若いわ。
バッと自分の顔を触る。
するとそこにはハリもあってモチモチとした、まるで若い頃の私の肌があった。
懐かしい空間と若い肌…まさか私、昔の時代に戻ったの?!
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる