不肖ながら、お嬢様は渡しません

松本雀

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秘された真実──『執事はかつて人ならざるものだった』

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──進化とは、姿を変えることではなく、願いを持つことだ。

私は蜘蛛だった。名もなく、意志もなく、ただ糸を張り、生きるだけの存在。だが、あの声が私を呼んだ瞬間、私は『私』という概念を持った。

それは、呪いか──あるいは祝福だったのかもしれない。

勝者の決まらぬ沈黙の中、風が一度、木々のあいだから抜けた。

私はひとつ息を吐き、言葉を紡ぐ。

「イワン。君は『元蜘蛛だった』という執事の話を……聞いたことは?」

彼はぴくりと肩を揺らし、気まずそうに私から目を逸らした。庭園の草花が風に揺れる音が、やけに耳につく。

「……え、えっと……その、なんか……噂っていうか……」

戸惑いながらも、懸命に言葉を探す。いつもは軽口を叩く彼が、今は明らかに困っていた。そんな様子に、私は苦笑を漏らす。

「なんでも構いません。聞いたままをどうぞ」

促すと、イワンはおずおずと頷いた。

「……その。なんか、王都のごく一部の貴族の間で……とてつもなく強い蜘蛛がいて、魔法の力だかなんだかで人間になったって……それで、執事になって、貴族のお嬢様と結婚した……って……」

「ふふ。正解です」

私はにこやかに微笑んだ。

「……でも、それって、本当なんですか?前にも聞いたけど、本当に先輩は蜘蛛だったんですか?」

「はい。理性も言葉もない、ただ巣を張って獲物を待つだけの、静かな生き物でした」

私は目を細めて、遠い記憶の中へと指先を滑らせるように言葉を継ぐ。

「ですが、私だけではありません。あなたの隣にいる誰かも、街を行き交う人々の中の誰かも……元は獣や虫、果ては悪魔や神様だったかもしれませんね」

私の言葉に、風が応じるように木々の枝を揺らした。枝の間から差す光が斑に揺れて、まるで誰かの記憶を掘り起こすような静けさが訪れる。

「見かけだけで、人を、人であると定義することはできません。在り方や魂がどうであるかは、常に内側にあるものでしょう?」

誰も声を発さなかった。この沈黙は否定ではない。ただ、咀嚼していたのだ。言葉の裏にあるものを。それを私は知っていたから、ゆっくりと語り続けた。

「私が蜘蛛だった頃、ただ生きるためだけに生きていました。何かを思うことも、何かを望むこともなかった。ただ、巣を張り、獲物を待ち、それを食べる──それだけが私の世界の全てでした」

私は木立を見上げる。かつてその葉陰に巣を張っていた時期があった。あの静けさと孤独が、私の原点だ。

「ある日、私は一人の少女に命を救われました。巣を壊され、水たまりに投げ込まれた私を、自らが濡れるのも構わず手を差し伸べてくれた存在。私は彼女に恋をしました。嫌われ者の蜘蛛に、優しさをくれた手に」

目を伏せ、微笑む。

「そして私は、こうして人として皆様の前に立っています。蜘蛛であったことを恥じたことはありません。むしろ、私の誇りです。なぜなら、その生き様が今の私を形作ったのですから」

アトラの目が潤んでいる。彼女は涙を拭おうとせず、ただまっすぐに私を見ていた。

「サンゼール」

私は膝をついた彼に視線を落とす。

「あなたは今、過去の私と同じ目をしています。己の在り方に葛藤し、それでも譲れぬ信念を抱いている」

サンゼールはゆっくりと顔を上げた。流れる鼻血を拭おうともせず、ただ私を見据えていた。

「この戦いは無意味なものではありません。あなたが信じるべき『在り方』のために戦っているのなら、それを否定するつもりもありませんが……」

私は一歩踏み出す。地面がわずかに鳴った。

「その選択に、“嘘”がないことだけを、私は確かめたいのです」

風が吹いた。誰もが黙ったまま、その言葉の余韻に耳を澄ませていた。

さて、と私は心のなかで区切りをつけるように呟いた。

あの日、巣を破かれ、水たまりに投げ込まれた私が、少女の手で救われたように──もうひとつの小さな命もまた、あの庭で救われていたのだ。

「……さて、この話には、続きがあったのです」

言葉を発した瞬間、どこかで鳥が飛び立つ羽音がした。庭園を囲む木々が揺れ、春の終わりを告げる乾いた風が、冷ややかに頬をなぞる。

そのときだった。私の言葉を遮るように、サンゼールがふらりと立ち上がった。

「……クロード様」

声は震えていた。怒りでも、哀しみでもなく、恐れとも違う。何かを必死に留めようとする、切実な願いのような声色だった。

「お願いです……それ以上は、……言わないでください」

その瞳には、かつて見せたことのない脆さがあった。闘志ではない。憎しみでもない。彼はただ、守りたかったのだろう。言葉ではなく、沈黙で。

「……いいえ」

私は首を振り、ゆっくりと口元に笑みを浮かべた。それは慰めでも、嘲りでもない。真実に立ち会う者としての、静かな誠意だった。

「知るべきなのです。……彼女は」

サンゼールの表情が歪んだ。まるで胸の奥で何かが崩れるように。次の瞬間、彼は叫びもせず、ただ音もなく踏み出した。鋭く、鋼のように踏み込む気配。

だが──遅い。

私はその一歩を、身体の半分で避ける。彼の手が虚空を裂き、空気が震える。重心を失った身体が、勢いのまま前のめりに崩れた。

「っ……!」

サンゼールは地面に倒れ込む。白い手袋に土が滲み、肩が震えていた。彼は立ち上がろうとしたが、もう立てなかった。身体がではない。心が、だ。

私は一歩、彼に近づいた。地面に伏せたその背に、目を伏せる。

「……あなたが、立ち上がれないのは当然です」

私の声は、誰よりも静かだった。暴かれることの痛みも知っている。だからこそ、私は、これを慈しむように語らねばならなかった。

「蜘蛛が人間になったのなら、もう一つの虫も、人の姿を得たのです」

私はゆっくりと顔を上げ、彼女を見た。いや、彼女だけを見た。

「──ティタ嬢」

風が一瞬、止んだように感じた。葉擦れも、遠くの鳥の声も。世界が、次の言葉を待っていた。

「あなたが、あの日救った黄色い蝶。それが、彼の本当の正体です」

私は視線をティタ嬢に向けたまま、はっきりと、そう告げた。

サンゼールの吐息が、背後で小さく漏れた。まるで、押し殺した嗚咽のようだった。

私は彼を責めているわけではない。誰よりもそれを理解していた。

──あれは夏の午後だった。陽に透ける羽を持つ小さな黄色い蝶が、私の網に絡まっていた。

「蝶々さんが、かわいそう!」

あのとき、彼女は、ためらいなくそれを助けたのだ。

無力な生き物に、過剰なまでの優しさを注いだあの手が、サンゼールのすべてを変えた。

私と同じだ。

私たちは、彼女たちによって、人間にされた。

言葉ではない。魔法でもない。ただ、あの一瞬の眼差しが、私たちの世界を決定的に変えた。

私はその事実を、忘れていなかった。

──だからこそ、彼もまた、告げたくなかったのだ。

彼の命が、彼の形が、あの一瞬の奇跡の上にあったことを。

けれど。
けれど、それを知るのは、彼女の権利だ。

私はそっと目を閉じた。

この世界には、語られぬ奇跡がいくつもある。だがその奇跡を、ただ奇跡として片付けてしまうことは、罪なのだ。

だから、私は語る。

それがたとえ、誰かの尊厳を傷つけることになっても。

──なぜなら、真実とは、そういうものだからだ。

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