78 / 91
その名前の意味──『クロードとサンゼール』
しおりを挟む
──生まれついたものを捨てるには、理由がいる。
けれど、それを忘れない覚悟にもまた、理由がいる。
名はその両方を繋ぐ橋だ。
私がクロードであるということ、それがすべての解だ。
「もっと……早く気づくべきでした」
そう口にした瞬間、胸の奥に残る古い疼きが、静かに広がっていくのを感じた。
昼下がりの光が、伯爵邸の庭に柔らかく差し込んでいる。夏草の匂いと、風にそよぐ噴水の水音が混じり合い、どこか遠い夢のようだ。だが、この庭の中心に立つ私は、今、確かに過去と対峙している。
「私は、ある存在に願いを届けました」
目を伏せてから、私は視線をゆっくりと上げた。膝をつくサンゼールと、その向こうに控えるティタ嬢の姿が目に入る。二人とも、何も言わずに私の言葉を待っていた。私はその沈黙に丁寧に応えるように、声を落とし、話を続ける。
「深淵の森に棲む魔女のもとへと赴き、私は、願いを告げたのです。……人の姿と、名前を得たいと」
その言葉を口にするたび、脳裏にあの湿った森の記憶が蘇る。苔むした木々、朽ちた枝の中で眠っていた黒い魔女。私の願いは、理性の声ではなかった。ただただ、得体の知れぬ衝動だった。人間の世界に、彼女の隣に立てる形を──ただそれだけを欲していた。
「代償は、脚と、眼。八本のうち、人間として必要な四本の脚を残し、他は差し出しました。眼も同様。八つの単眼の中の主眼二つを除き、副眼はすべて、彼女に捧げました」
冷ややかな風が、頬をかすめた。陽の光が庭の片側を照らしていたが、私の足元には、その影が長く伸びていた。何かを語るたび、身体の奥が軋むように痛む。それでも、語るべきだった。今、この瞬間だけは、言葉にしなければならなかった。
「クローディアス」
私はそう口にした。
「それが、私に与えられた名。意味は――『足の不自由な者』。すなわち、クロード。私は、そうしてこの姿を得たのです」
アトラの瞳が微かに揺れたように思えたが、彼女は一言も発しなかった。私もまた、それを求めてはいなかった。ただ、自らの輪郭をこの場に刻みつけるように、静かに、丁寧に語り続けた。
私は視線を、隣に控える伯爵に移す。彼の表情には、驚きと困惑が入り混じっていたが、それでもこの場を逃げずに受け止めてくれている。私はゆっくりと問う。
「伯爵。サンゼールの……いえ、彼の、本当の名を、お聞かせ願えますか」
ほんの一拍の間があった。伯爵は唇を引き結び、やがて低い声で応えた。
「……サンク・ゼール・クレメンス。それが、彼の正式な名だ」
私の中で、音が重なった。森の中で聞いた言葉。魔女が最後に囁いた、誰かの名に似た響き。
私は微笑んだ。
それは、戦いの勝利に酔ったような笑みではなく、ただ理解の末に辿り着いた、穏やかな微笑だった。
「サンク・ゼール……サンゼール。フランクス語では、『羽のない』という意味です。……つまり、貴方は、命に等しい羽を代償に捧げた。人の姿と名を得るために」
風が止んだ。
あれほど柔らかかった木の葉のざわめきさえ、今はぴたりと鳴りを潜めている。サンゼールは表情を動かさなかった。ただ、呆然としていた。私はその姿に、一歩だけ近づく。
「それが、貴方の選んだ覚悟なのですね」
私は、自分の声がどこか遠くで響いているように感じた。言葉にした今、ようやく霧が晴れるように、己の過去と向き合えた気がした。
心の奥底には、未だに確かな痛みが残っている。脚のことでも、視界の端が歪むことでもない。それは、理解に辿り着くまでに、あまりにも長く時間をかけてしまったことへの、悔い。
けれど私は、ここに立っている。
あの日、名もない蜘蛛と蝶を救った二人の少女。彼女達に恋をし、魔女の森で願いを告げた私と彼。すべてが、今ここで、繋がっているのだ。
私はそっと深く一礼した。サンゼールの返答は求めない。ただ、名を持った同胞として、礼を尽くしたかった。
けれど、それを忘れない覚悟にもまた、理由がいる。
名はその両方を繋ぐ橋だ。
私がクロードであるということ、それがすべての解だ。
「もっと……早く気づくべきでした」
そう口にした瞬間、胸の奥に残る古い疼きが、静かに広がっていくのを感じた。
昼下がりの光が、伯爵邸の庭に柔らかく差し込んでいる。夏草の匂いと、風にそよぐ噴水の水音が混じり合い、どこか遠い夢のようだ。だが、この庭の中心に立つ私は、今、確かに過去と対峙している。
「私は、ある存在に願いを届けました」
目を伏せてから、私は視線をゆっくりと上げた。膝をつくサンゼールと、その向こうに控えるティタ嬢の姿が目に入る。二人とも、何も言わずに私の言葉を待っていた。私はその沈黙に丁寧に応えるように、声を落とし、話を続ける。
「深淵の森に棲む魔女のもとへと赴き、私は、願いを告げたのです。……人の姿と、名前を得たいと」
その言葉を口にするたび、脳裏にあの湿った森の記憶が蘇る。苔むした木々、朽ちた枝の中で眠っていた黒い魔女。私の願いは、理性の声ではなかった。ただただ、得体の知れぬ衝動だった。人間の世界に、彼女の隣に立てる形を──ただそれだけを欲していた。
「代償は、脚と、眼。八本のうち、人間として必要な四本の脚を残し、他は差し出しました。眼も同様。八つの単眼の中の主眼二つを除き、副眼はすべて、彼女に捧げました」
冷ややかな風が、頬をかすめた。陽の光が庭の片側を照らしていたが、私の足元には、その影が長く伸びていた。何かを語るたび、身体の奥が軋むように痛む。それでも、語るべきだった。今、この瞬間だけは、言葉にしなければならなかった。
「クローディアス」
私はそう口にした。
「それが、私に与えられた名。意味は――『足の不自由な者』。すなわち、クロード。私は、そうしてこの姿を得たのです」
アトラの瞳が微かに揺れたように思えたが、彼女は一言も発しなかった。私もまた、それを求めてはいなかった。ただ、自らの輪郭をこの場に刻みつけるように、静かに、丁寧に語り続けた。
私は視線を、隣に控える伯爵に移す。彼の表情には、驚きと困惑が入り混じっていたが、それでもこの場を逃げずに受け止めてくれている。私はゆっくりと問う。
「伯爵。サンゼールの……いえ、彼の、本当の名を、お聞かせ願えますか」
ほんの一拍の間があった。伯爵は唇を引き結び、やがて低い声で応えた。
「……サンク・ゼール・クレメンス。それが、彼の正式な名だ」
私の中で、音が重なった。森の中で聞いた言葉。魔女が最後に囁いた、誰かの名に似た響き。
私は微笑んだ。
それは、戦いの勝利に酔ったような笑みではなく、ただ理解の末に辿り着いた、穏やかな微笑だった。
「サンク・ゼール……サンゼール。フランクス語では、『羽のない』という意味です。……つまり、貴方は、命に等しい羽を代償に捧げた。人の姿と名を得るために」
風が止んだ。
あれほど柔らかかった木の葉のざわめきさえ、今はぴたりと鳴りを潜めている。サンゼールは表情を動かさなかった。ただ、呆然としていた。私はその姿に、一歩だけ近づく。
「それが、貴方の選んだ覚悟なのですね」
私は、自分の声がどこか遠くで響いているように感じた。言葉にした今、ようやく霧が晴れるように、己の過去と向き合えた気がした。
心の奥底には、未だに確かな痛みが残っている。脚のことでも、視界の端が歪むことでもない。それは、理解に辿り着くまでに、あまりにも長く時間をかけてしまったことへの、悔い。
けれど私は、ここに立っている。
あの日、名もない蜘蛛と蝶を救った二人の少女。彼女達に恋をし、魔女の森で願いを告げた私と彼。すべてが、今ここで、繋がっているのだ。
私はそっと深く一礼した。サンゼールの返答は求めない。ただ、名を持った同胞として、礼を尽くしたかった。
11
あなたにおすすめの小説
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
侯爵夫人のハズですが、完全に無視されています
猫枕
恋愛
伯爵令嬢のシンディーは学園を卒業と同時にキャッシュ侯爵家に嫁がされた。
しかし婚姻から4年、旦那様に会ったのは一度きり、大きなお屋敷の端っこにある離れに住むように言われ、勝手な外出も禁じられている。
本宅にはシンディーの偽物が奥様と呼ばれて暮らしているらしい。
盛大な結婚式が行われたというがシンディーは出席していないし、今年3才になる息子がいるというが、もちろん産んだ覚えもない。
《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。
ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」
その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。
まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?
せいめ
恋愛
政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。
喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。
そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。
その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。
閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。
でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。
家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。
その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。
まずは亡くなったはずの旦那様との話から。
ご都合主義です。
設定は緩いです。
誤字脱字申し訳ありません。
主人公の名前を途中から間違えていました。
アメリアです。すみません。
貴妃エレーナ
無味無臭(不定期更新)
恋愛
「君は、私のことを恨んでいるか?」
後宮で暮らして数十年の月日が流れたある日のこと。国王ローレンスから突然そう聞かれた貴妃エレーナは戸惑ったように答えた。
「急に、どうされたのですか?」
「…分かるだろう、はぐらかさないでくれ。」
「恨んでなどいませんよ。あれは遠い昔のことですから。」
そう言われて、私は今まで蓋をしていた記憶を辿った。
どうやら彼は、若かりし頃に私とあの人の仲を引き裂いてしまったことを今も悔やんでいるらしい。
けれど、もう安心してほしい。
私は既に、今世ではあの人と縁がなかったんだと諦めている。
だから…
「陛下…!大変です、内乱が…」
え…?
ーーーーーーーーーーーーー
ここは、どこ?
さっきまで内乱が…
「エレーナ?」
陛下…?
でも若いわ。
バッと自分の顔を触る。
するとそこにはハリもあってモチモチとした、まるで若い頃の私の肌があった。
懐かしい空間と若い肌…まさか私、昔の時代に戻ったの?!
ブスすぎて嫁の貰い手がないから閨勤侍女になれと言われたので縁を切ります、完全に!完全縁切りの先にあったのは孤独ではなくて…
ハートリオ
恋愛
ルフスは結婚が決まった従姉の閨勤侍女になるよう父親に命令されたのをきっかけに父に無視され冷遇されて来た日々を終わらせようとブラコン父と完全に縁を切る決意する。
一方、従姉の結婚相手はアルゲンテウス辺境伯とのことだが、実は手違いがあって辺境伯が結婚したいのはルフス。
そんなこんなの異世界ファンタジーラブです。
読んでいただけると嬉しいです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる