不肖ながら、お嬢様は渡しません

松本雀

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【サンゼール視点】翅のない執事──『その手は、彼女のために』

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──自分であることと、自分であり続けることは、似て非なる。

どこまでが私だったか、どこからが彼女を想う誰かだったのか。翅を捨てたのは意思か衝動か、私にはもう答えられない。

けれど確かに、私は私を捨てて彼女に近づこうとした。

深淵の魔女に願いを告げた日を、私は生涯忘れることはないだろう。

「人間に……なりたいのです」

その言葉を口にした瞬間、深い森は完全な沈黙に包まれた。朽ちた大樹の内部で蠢く黒い影がゆっくりと瞳を開く。水底のように揺らめく藍色の瞳は私を静かに見つめていた。

「人間に? なぜ?」

それは、興味や好奇心ではない。ただ義務的に答えを求めるような、冷え切った問いかけだった。けれど私はその冷淡な問いに、震える翅を奮わせて答える。

「逢いたい人がいるのです。どうしても……」

魔女は微笑んだ。慈愛に満ちた、残酷な笑みだった。

「そう……では、慈悲を与えましょう。あなたの美しい黄色の翅と、六本のうち二本の足を代償に。その願いを叶えましょう」

その言葉が終わるや否や、私は自らの身体が引き裂かれるような痛みに襲われた。けれども、不思議と後悔はなかった。ただ、翅が千切れ飛び、二本の足が失われる苦痛の中で、私は静かに祈り続けた。

──どうか、もう一度彼女の許へ。

人間の身体は重く、不自由だった。小さな蝶として舞っていたあの軽やかさは、もうどこにも存在しない。二度と空を飛ぶことは叶わないと知った時、少しだけ寂しさを感じたけれど、それも束の間だった。

私は人の名を得た。サンク・ゼイル・クレメンス、通称サンゼール。羽のない者という皮肉な名前を胸に、私は人間の世界へ踏み出した。

人の身体に慣れるのは困難だった。最初は言葉もうまく話せず、手足を動かすのさえ苦痛で、よく転び、生傷が絶えなかった。文字を覚えるのも、礼儀作法を身につけるのも、簡単なことではなかった。

だが、心の奥で彼女の笑顔を思い浮かべるたび、不思議と勇気が湧いてきた。どんなに厳しい仕事も、どんなに冷たい視線を受けようとも、私はあの日見た彼女の微笑みを目指して歩き続けた。

執事の仕事を学びながら、私は常に情報を探していた。やがて、偶然見つけた求人票には、私がずっと探していた名前があった。

【ロベルシュタイン伯爵家令嬢 ティタ・ロベルシュタイン様付きの執事募集】──それは、私にとって魔法の呪文のような響きを持っていた。

初めて彼女の邸宅を訪れた時、私は震える指先を必死で抑え込んだ。豪奢な屋敷の庭には花が咲き乱れ蝶が舞い、その中央に立つ彼女はまるで妖精の女王の様だった。けれど、昔の輝くような笑顔は影を潜め、どこか刹那的で、儚げな表情をしていた。

「あら、新入り? まあいいわ、どうせすぐに辞めるでしょうから」

彼女の冷たい言葉を受け止めながらも、私は静かに微笑んだ。彼女がどれほど私を試そうとも、私が彼女を嫌うことはない。それどころか、彼女がどれほど冷淡であろうと、どれほど気まぐれであろうと、私にとっては宝石のように輝いて見えた。

日々の仕事は過酷だった。彼女は頻繁に無理難題を押し付け、気まぐれで使用人を辞めさせることも珍しくなかった。けれど私は、どんな理不尽な要求にも、どんなに激しい怒りや気まぐれな態度にも、ただ穏やかに対応し続けた。

ある雨の日のことだった。

華やかな音楽と笑い声が満ちる伯爵家主催の夜会で、彼女はお気に入りの純白のドレスを纏っていた。その輝くような美しさは、まるで白い花が咲いたように、私の目には映っていた。

だが、その美しさを影で囁く令嬢たちの冷笑が引き裂いた。

「ティタに白なんて似合わないわよね。あんなにお盛んな人には」

その言葉に重なる嘲笑の笑い声。彼女の表情が一瞬凍りついたのを私は見逃さなかった。後ろ姿が小さく震え、胸の奥が痛んだ。

静かに彼女の後を追い、自室へ向かう扉を閉める音を聞き取る。しばらくの間を置き、私は静かにその扉を叩いた。

「失礼いたします」

小さく告げて部屋に入ると、彼女は涙に濡れた顔を上げた。床には裾が破れた純白のドレスが打ち捨てられている。私は何も言わずそのドレスを拾い上げ、静かに針を取り出し、丁寧に縫い始めた。

指先が動くたびに、彼女の引き裂かれた心を繕うような気持ちだった。少しずつ美しく元に戻っていくドレスを見つめながら、私は穏やかに声をかけた。

「このドレス、お嬢様にとてもお似合いですよ」

彼女はわずかに涙を拭い、小さく頷いた。修復したドレスを再び纏ったその姿は、初めて見た時のように美しく、私は思わず微笑んだ。

「少し踊ってみませんか、お嬢様?」

ためらいがちに差し出した手を、彼女は静かに握る。誰もいない静かな部屋の中、私たちはゆっくりとワルツを踊った。

「……サンゼール、あなたはどうしてこんなに優しいの?」

彼女の問いに、私はただ静かに微笑んだ。

「それが、私の務めですから」

けれど、本当の答えは違う。私は蝶だった頃、彼女に救われたあの一瞬から、何一つ変わっていない。

「私はあなたの執事です、お嬢様」

そう告げた私に、彼女は小さく唇を噛んで顔を背けた。その表情がほんの少しだけ緩んだように見えたのは、私の気のせいだったかもしれない。

姿が変わっても、私という存在の核は変わらない。

それでもなお、変わらなければ手に入らないものがある。ならば私は変わり続けよう。彼女の側にいるために。

自分を越えることだけが、愛のかたちであるのなら。
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