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【ティタ視点】喪失の記憶──『その蝶の羽音は、誰にも届かない』
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──幸福とは、ただ与えられるものではなく、どれだけ奪われずに済んだかで決まるものだと思う。
私はまだ子どもだったけれど、あのとき既に、「普通の幸せ」は、誰かの都合で奪われていた。
◇
「お勉強の時間ですよ、お嬢様」
そう声をかけられるたび、私は不機嫌になった。
どれだけ丁寧に言われても、机の上に広げられた歴史書の重みは、鉛のように肩へとのしかかってくる。ページを開くだけで、胸の奥にじわりと重たい塊ができたような気がした。
母は一度も、そんな私を咎めなかった。
「子供に勉強なんて必要ないのよ。女の子はね、可愛ければいいの」
そう言って、私を抱き寄せ、甘い香水の香りをまとわせてくれた。
私は、母の言葉だけを信じた。
だって、母は綺麗で、大人たちが皆振り返るような人だったから。
口紅の色を変えるだけで雰囲気が変わって、ドレスの裾を持ち上げて笑えば、誰もが息を呑んだ。そんな母の隣にいることが、私にとっての誇りだった。
父は、私を諌めた。
「本を読みなさい。マナーを覚えなさい。将来、恥をかくのはお前自身だぞ」
真剣な顔でそう言われるたびに、私は胸がむず痒くなった。
……恥なんて、かいてないのに。
どうしてそんな風に言うの。私の何がいけないの。お母様は、私のことを褒めてくれるのに。
いつの間にか、私は父を「うるさい」と思うようになっていた。乳母や側仕えのメイドたちが、私の化粧を見て眉をひそめたときも、思わず睨み返してしまった。
父や彼女たちが私の粗相を注意するたび、胸の奥で何かがぐらりと傾いた。
――どうしてみんな、私を否定するの。
母だけが唯一、私をそのままでいいと言ってくれた。
けれど、そんな不安定な日常は、ある日突然崩れる。
父が領地視察から戻った日のことだった。
いつものように小さなお土産をくれて、笑顔を見せてくれた父は、私に蝶の形をした髪飾りを手渡してくれた。
透き通ったガラスの羽が、まるで本物のように輝いている。私は、それが嬉しくてたまらなかった。
そして、つい、こう言ってしまったのだ。
「お父様ありがとう!……お礼に、特別なキスをしてあげるね」
父の顔から、すうっと血の気が引いていった。
口元が引き攣って言葉が出てこない。私は困惑した。だって、夜会でお母様が「あの方にしておいで」と言ったとき、私はそうしていたし、誰もそれをおかしいと言わなかったから。
「……お母様に、そう言われたのよ」
絞り出すような声で呟いた私を、父は無言で抱き締めた。そして拳を強く握りしめて、その場を去っていった。
それから数日後。
母と父の間で、激しい言い争いがあった。
大人の言葉は理解できなかったけれど、父が何かを告げると、母はすぐに「いいわ。そんなに言うなら、離婚してあげる」と言い放った。
静寂を破るように、廊下に母の靴音が響いた。
そして扉が勢いよく開かれる。
「あなたのお父様が出ていけと言ったから、お母様は出ていきます」
私の前に立った母は、顔を顰めて、吐き捨てるようにそう言った。まるで、私がそれを望んだかのような口調だった。
「さようなら、あなたにも二度と会わないわ」
香水の香りがふわりと鼻先をかすめる。
白いドレスの裾がひらりと揺れ、母はそのまま、まるで窓から飛び立つ蝶のように、私の世界から姿を消した。
私は何も言えなかった。ただ泣いた。
なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。
母が出ていくことが悲しかったのか。父と母が喧嘩したことが怖かったのか。それとも、あの髪飾りの蝶のように、自分がどこにも行けないと気づいてしまったからなのか。それら全部なのか。
私はその夜、父の腕の中で泣きながら眠った。
──母の死を聞いたのは、それから三ヶ月が経ったころだった。
誰も私に直接は言わなかった。ただ、廊下の向こうで「浮気相手に刺されたようだ」という言葉だけが風のように流れてきた。けれど、その言葉の意味が心に届いたのは、もっとずっと後だった。
人は、愛している誰かの死をすぐには理解できないのだと思う。
その人の存在ごと、世界の輪郭から削り取られるようなことを、たった一言で納得出来るわけがないのだから。
私はまだ子どもだったけれど、あのとき既に、「普通の幸せ」は、誰かの都合で奪われていた。
◇
「お勉強の時間ですよ、お嬢様」
そう声をかけられるたび、私は不機嫌になった。
どれだけ丁寧に言われても、机の上に広げられた歴史書の重みは、鉛のように肩へとのしかかってくる。ページを開くだけで、胸の奥にじわりと重たい塊ができたような気がした。
母は一度も、そんな私を咎めなかった。
「子供に勉強なんて必要ないのよ。女の子はね、可愛ければいいの」
そう言って、私を抱き寄せ、甘い香水の香りをまとわせてくれた。
私は、母の言葉だけを信じた。
だって、母は綺麗で、大人たちが皆振り返るような人だったから。
口紅の色を変えるだけで雰囲気が変わって、ドレスの裾を持ち上げて笑えば、誰もが息を呑んだ。そんな母の隣にいることが、私にとっての誇りだった。
父は、私を諌めた。
「本を読みなさい。マナーを覚えなさい。将来、恥をかくのはお前自身だぞ」
真剣な顔でそう言われるたびに、私は胸がむず痒くなった。
……恥なんて、かいてないのに。
どうしてそんな風に言うの。私の何がいけないの。お母様は、私のことを褒めてくれるのに。
いつの間にか、私は父を「うるさい」と思うようになっていた。乳母や側仕えのメイドたちが、私の化粧を見て眉をひそめたときも、思わず睨み返してしまった。
父や彼女たちが私の粗相を注意するたび、胸の奥で何かがぐらりと傾いた。
――どうしてみんな、私を否定するの。
母だけが唯一、私をそのままでいいと言ってくれた。
けれど、そんな不安定な日常は、ある日突然崩れる。
父が領地視察から戻った日のことだった。
いつものように小さなお土産をくれて、笑顔を見せてくれた父は、私に蝶の形をした髪飾りを手渡してくれた。
透き通ったガラスの羽が、まるで本物のように輝いている。私は、それが嬉しくてたまらなかった。
そして、つい、こう言ってしまったのだ。
「お父様ありがとう!……お礼に、特別なキスをしてあげるね」
父の顔から、すうっと血の気が引いていった。
口元が引き攣って言葉が出てこない。私は困惑した。だって、夜会でお母様が「あの方にしておいで」と言ったとき、私はそうしていたし、誰もそれをおかしいと言わなかったから。
「……お母様に、そう言われたのよ」
絞り出すような声で呟いた私を、父は無言で抱き締めた。そして拳を強く握りしめて、その場を去っていった。
それから数日後。
母と父の間で、激しい言い争いがあった。
大人の言葉は理解できなかったけれど、父が何かを告げると、母はすぐに「いいわ。そんなに言うなら、離婚してあげる」と言い放った。
静寂を破るように、廊下に母の靴音が響いた。
そして扉が勢いよく開かれる。
「あなたのお父様が出ていけと言ったから、お母様は出ていきます」
私の前に立った母は、顔を顰めて、吐き捨てるようにそう言った。まるで、私がそれを望んだかのような口調だった。
「さようなら、あなたにも二度と会わないわ」
香水の香りがふわりと鼻先をかすめる。
白いドレスの裾がひらりと揺れ、母はそのまま、まるで窓から飛び立つ蝶のように、私の世界から姿を消した。
私は何も言えなかった。ただ泣いた。
なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。
母が出ていくことが悲しかったのか。父と母が喧嘩したことが怖かったのか。それとも、あの髪飾りの蝶のように、自分がどこにも行けないと気づいてしまったからなのか。それら全部なのか。
私はその夜、父の腕の中で泣きながら眠った。
──母の死を聞いたのは、それから三ヶ月が経ったころだった。
誰も私に直接は言わなかった。ただ、廊下の向こうで「浮気相手に刺されたようだ」という言葉だけが風のように流れてきた。けれど、その言葉の意味が心に届いたのは、もっとずっと後だった。
人は、愛している誰かの死をすぐには理解できないのだと思う。
その人の存在ごと、世界の輪郭から削り取られるようなことを、たった一言で納得出来るわけがないのだから。
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