不肖ながら、お嬢様は渡しません

松本雀

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【クロードの回想】名もなき同胞── 『心が生まれる、ほんの一瞬』

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──糸を張り、獲物を捕らえ、生きる。それだけが私の全てだった。

だが人は、生きることそのものに理由を求めるらしい。

その果てに見つけた答えが、幸せと呼ばれるものだというなら、私はまだそこに辿り着いていない。



その日、私はただ静かに、森の小道に張った自分の網の上に佇んでいた。

午後の日差しは穏やかで柔らかく、光の粒が葉々を抜け、まだら模様となって草むらを照らしている。風もまた静かで、森全体が微睡みに包まれたように息を潜めていた。

ふと、遠くから小さな足音が聞こえた。

私は視線を枝の下へ向けた。木立の隙間から現れたのは、かつて私の隣で網を張っていた同胞だった。

彼は人となり、執事として人間に仕えていると聞いていたが、こうして昼間に姿を見るのは珍しかった。

――その腕に、彼はひとりの少女を支えていた。

彼女はとても小柄で、壊れそうなくらいに細い身体をしていた。その足取りは、病弱さが滲むほど弱々しく、まるで足元の柔らかな草の上にさえ立っていられないように見えた。
それでも彼女は微笑んでおり、その笑顔だけが彼女の生命力の全てであるように私は感じた。

彼は丁寧に、慎重に彼女を支えながら、森の木陰へと導いた。

彼らが足を止めたのは、私の網の真下だった。私は動きを止め、ただ黙って彼らのやり取りを見守る。

「……綺麗ね」

少女が静かに呟いた。その目は私の張った蜘蛛の巣を見つめている。

「見て、まるで私のレース編みみたい」

その声は、とても小さくてか細いものだった。だが、彼女の口元に浮かぶ微かな笑みは、奇妙に澄んでいて、美しかった。
蜘蛛の巣を見て、彼女は心から微笑んでいるのだ。

「私、蜘蛛って好きなの」

彼女は静かに続けた。

「だって、自分で美しいものを作り出せるんだもの。誰かに与えられたのではなく、自分自身の手で、ね」

その言葉に私は小さな違和感を覚えた。

美しさなど、私たちには関係がなかった。私たちの糸はただ生きるために存在し、そこに何らかの意味や美があるなど、考えたこともなかった。

それでも少女は、それを「美しい」と言った。

私の隣にいた同胞は、少女を支えながら私の網をじっと見つめている。その表情は静かで穏やかだが、どこか痛みを伴っているようにも見えた。

やがて、少女がふいに彼を見上げて尋ねた。

「ねえ、シオン。あなたの網はどんな形だったの?」

――シオン。

私はその名前を聞いて、一瞬だけ思考を止めた。

それが彼の名だったのだろうか。蜘蛛に名など存在しない。だが人となった彼には、確かに名があるのだ。

シオンと呼ばれた彼は、小さく息を吐き出した後、静かな声で答えた。

「……幾何学的な形でした。無駄がなく、強靭で、ただ、生きるためのものでした」

それは、かつて私が共に網を張っていた頃に知っていた、彼そのものだった。無駄がなく、無意味なものもなく、ただ静かで、冷たく、美しかった。

少女は微かに頷き、彼を見て笑った。

「あなたらしいわね」

少女の声は森の静けさに溶け、風がその言葉を遠くまで運んでいくようだった。

シオンは静かに、愛おしそうに少女を支え続けていた。その腕は優しく、かつての蜘蛛の脚の冷静さではなく、人間の温かさに満ちているようだった。

私はその二人を黙って見ていた。

少女の儚さと、彼の深い優しさに触れ、自分の中に言葉では言い表せないようなかすかな震えが生じていることに気づいた。
理解できないものだった。けれど、私はその感覚を否定できなかった。

少女が疲れたのか、軽く咳をした。シオンはすぐにそれに気づき、優しく言った。

「戻りましょう、無理をしてはいけません」

彼らは再びゆっくりと歩き出した。少女は名残惜しそうに蜘蛛の巣を振り返りながら、彼の腕に寄りかかり、小道を戻っていった。

私は枝の上でじっと動かず、遠ざかっていく二人の背中を見つめていた。風が静かに枝を揺らし、私の網をかすかに震わせる。

――心で生きるとは、ああいうことなのか。

私はまだそれを本当に理解してはいない。
けれど、彼が少女を支えるその背中に、確かに何かを見た気がした。

彼はもう、私が知っていた蜘蛛ではない。シオンという名を持ち、心を持ち、人の形で誰かを守っている。

それを私は、ただ静かに見送るしかなかった。

木漏れ日が柔らかく、二人が歩いた小道を静かに照らし続けていた。
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