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§ それは、ホントに不可抗力で。
02
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「あゆむ……」
「へっ? あっ?」
あゆむ。それは、聞き間違えようもない、私の名前。
耳に入ってきた音が、俄かに信じられない。瞼を閉じ、頭の中で繰り返される音を咀嚼する。
呼ばれたのは、確かに『下の名前』だった。しかし、目の前のこの男は、一度ちらっと顔を見たことがあるだけの上司。私を名前呼びする理由なぞ無いはずだ。
危険信号が、脳内に響く。見つめ合ううちに、男の眉間の皺がさらに深くなる。男は私から視線を逸らさず、一瞬目を細めたあと、ゆっくりと一度だけ瞬きをして大きく息を吐き、言葉を続けた。
「三年前……」
「さんねんまえ……?」
「三年前、ラスベガスで……」
サンネンマエ、ラスベガスデ。
その言葉を口の中で繰り返し、意味を理解した瞬間、私はさらに大きく目を見開いた。
ほんの少し口角を上げ、おもむろに眼鏡を外す男が静かに発したその次の言葉は、葬り去ったはずの遠い記憶を呼び覚ますに、十分過ぎるもの。
「まさか、夫の顔……を、忘れたとは言わないだろうな? 奥さん」
嘘だ! そんなことはアリエナイ。でも、だったらなぜ……。
男は、私の目を見据えたまま、一歩、また、一歩と近づいて来る。
「う、そ? そんなはず……」
「なぜ消えたんだ?」
違う、絶対に違う。確かに『姓』こそ同じ小林だが、小林なんて名字の人間は、日本中にそれこそゴロゴロいる。
「そんなことあるはずが……。尊? 本当に?」
こんなドッキリみたいな再会、にわかに信じられるわけがない。
髪が短い無精髭が無い痩せぎすでもないこの隙の無いキレイな男は、どこからどう見ても私が知っている『小林尊』とは似ても似つかないじゃないか。
ただ、その声の響きを懐かしく感じるのは、否定できないが。
「俺が他の誰だと言うんだ?」
「いや……でも、そんな……まさか?」
頭の芯がジンジンと痺れてきた。なけなしの記憶を総動員し、尊の顔を脳内で再生してみるが、目の前のこの男とはやはり一致しない。
「言えよ! なぜ俺の前から消えたんだ?」
絶対に逃さないとばかりにゆっくりと言葉を紡ぐその声は、まるで地獄の底から湧き出る冷気のよう。
怒っている。いや、本当に本人なら、怒らないほうがおかしい。
「きっ、消えるなんて、そんなつもりは……ナカッタノデスガ……」
「だったらなぜ電話が通じない? あのとき、別れ際に仕事が終わったら電話するって言っただろう?」
ああ、そんなことを、言われたのかも知れない。だが、かも知れないだけで、明確な記憶は無い。だから、この男の言うことが事実なのかそうではないのか、判別もつかない。
怒りとも悲しみともつかない不思議な色の瞳の奥を、窺うようにしながら思考を巡らせるのは、いま、この場からどうすれば逃れられるのか、それひとつ。
「あ、あの……、そそそ、それは……それはですね、ホントに不可抗力でして……」
その距離、わずか数歩。小さく一歩、また一歩とあとずさるたび、膝がガクガクと震える。
左足をさらに一歩下げると、踵がコツンと何かに当たる。チラと視線をやればそこは、すでに壁際。もう逃げ場は無い。男の顔は見上げた鼻先にある。
「なぜだ? 答えろ!」
まずい。この状況は非常にまずい。
「へっ? あっ?」
あゆむ。それは、聞き間違えようもない、私の名前。
耳に入ってきた音が、俄かに信じられない。瞼を閉じ、頭の中で繰り返される音を咀嚼する。
呼ばれたのは、確かに『下の名前』だった。しかし、目の前のこの男は、一度ちらっと顔を見たことがあるだけの上司。私を名前呼びする理由なぞ無いはずだ。
危険信号が、脳内に響く。見つめ合ううちに、男の眉間の皺がさらに深くなる。男は私から視線を逸らさず、一瞬目を細めたあと、ゆっくりと一度だけ瞬きをして大きく息を吐き、言葉を続けた。
「三年前……」
「さんねんまえ……?」
「三年前、ラスベガスで……」
サンネンマエ、ラスベガスデ。
その言葉を口の中で繰り返し、意味を理解した瞬間、私はさらに大きく目を見開いた。
ほんの少し口角を上げ、おもむろに眼鏡を外す男が静かに発したその次の言葉は、葬り去ったはずの遠い記憶を呼び覚ますに、十分過ぎるもの。
「まさか、夫の顔……を、忘れたとは言わないだろうな? 奥さん」
嘘だ! そんなことはアリエナイ。でも、だったらなぜ……。
男は、私の目を見据えたまま、一歩、また、一歩と近づいて来る。
「う、そ? そんなはず……」
「なぜ消えたんだ?」
違う、絶対に違う。確かに『姓』こそ同じ小林だが、小林なんて名字の人間は、日本中にそれこそゴロゴロいる。
「そんなことあるはずが……。尊? 本当に?」
こんなドッキリみたいな再会、にわかに信じられるわけがない。
髪が短い無精髭が無い痩せぎすでもないこの隙の無いキレイな男は、どこからどう見ても私が知っている『小林尊』とは似ても似つかないじゃないか。
ただ、その声の響きを懐かしく感じるのは、否定できないが。
「俺が他の誰だと言うんだ?」
「いや……でも、そんな……まさか?」
頭の芯がジンジンと痺れてきた。なけなしの記憶を総動員し、尊の顔を脳内で再生してみるが、目の前のこの男とはやはり一致しない。
「言えよ! なぜ俺の前から消えたんだ?」
絶対に逃さないとばかりにゆっくりと言葉を紡ぐその声は、まるで地獄の底から湧き出る冷気のよう。
怒っている。いや、本当に本人なら、怒らないほうがおかしい。
「きっ、消えるなんて、そんなつもりは……ナカッタノデスガ……」
「だったらなぜ電話が通じない? あのとき、別れ際に仕事が終わったら電話するって言っただろう?」
ああ、そんなことを、言われたのかも知れない。だが、かも知れないだけで、明確な記憶は無い。だから、この男の言うことが事実なのかそうではないのか、判別もつかない。
怒りとも悲しみともつかない不思議な色の瞳の奥を、窺うようにしながら思考を巡らせるのは、いま、この場からどうすれば逃れられるのか、それひとつ。
「あ、あの……、そそそ、それは……それはですね、ホントに不可抗力でして……」
その距離、わずか数歩。小さく一歩、また一歩とあとずさるたび、膝がガクガクと震える。
左足をさらに一歩下げると、踵がコツンと何かに当たる。チラと視線をやればそこは、すでに壁際。もう逃げ場は無い。男の顔は見上げた鼻先にある。
「なぜだ? 答えろ!」
まずい。この状況は非常にまずい。
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