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カイルは、掴まれている自分の手を見つめた。
アリスの指は、パンをこねる温かな手だ。だが、その指の腹にはうっすらと、かつて重い剣を握りしめていた者にしかできない硬い「凧」の痕跡があった。
期待と胸の高鳴りに突き動かされ、カイルは懐の鹿革の布を見せようとした。
だが、その手が止まる。
(……これは、パンドラの箱ではないのか?)
彼女が「あの誰か」だと断定できない今、すべては憶測に過ぎない。もし彼女が本当にその人物だとしたら、なぜ忘却薬が使われたのか。自分への嫌悪がトラウマとなり、耐えきれずに自ら薬を仰いだのか、あるいは第三者の手によって記憶を消されたのか。
いずれにせよ、布を見せて記憶を呼び覚ませば、彼女は再び自分に嫌悪を抱き、離れていくのではないか。
それとも、本当に人違いなのだとしたら、彼女は別の男の妻だ。
何も思い出さない方が、お互い幸せなのではないだろうか。
葛藤を押し殺し、カイルは最も気になっていた問いを投げかけた。
「……今朝、店に来た男は、お前の夫ではないのか?」
見るからに仲睦まじく見えた様子を思い出し、今更ながらに腹が立つ。アリスは気まずそうに視線を逸らした。
「小さな村ですので、村人同士、全員が家族のような気持ちで暮らしています。……そのせいでしょう、あのように見えたのは」
何かを隠している気配はあったが、カイルはそれを追及しなかった。代わりに、自分の中に澱のように溜まっていた推論を吐き出す。
「俺の話をする。俺も三年前より前の記憶が所々抜け落ちている。おそらく忘却薬を使われた。その薬は己の大事な記憶と引き換えに、対象の記憶から自分の存在だけを消す呪いのような薬だ。もし、その『誰か』が君だとするならば、君は俺を死ぬほど嫌い、逃げるために俺から記憶を奪ったはずだ。そして、耐えきれず自分の中からも俺を消した。……それほどまでに嫌われているはずなのに、君は今、俺に好意を抱いていると言う。ならば、その子は俺の、あるいは君が死ぬほど憎んでいる男の子ということになるが……」
「ならば……違うのかもしれません」
アリスは首を振り、縋るような瞳でカイルを見上げた。
「私は三年前、この村に辿り着いた時、誰の子か分からぬアーサーを身籠っていました。それでも、この子だけはどうしても産みたかった。とても大事な人からの贈り物のように思えて……。私は、アーサーの父親を確かに愛していたはずなんです」
「……ならば、やはり俺ではない誰かなのだろう。君も、相手を思い出さない方が幸せだ。その男は逃げたんだ。男にとっては望まぬ妊娠だったのだろう。君は、捨てられたんだな」
「そんな……」
突き放すような言葉に、アリスの瞳に涙が浮かぶ。カイルは自嘲した。自分こそがその「逃げ出した男」である可能性を、残酷な言葉で否定し、蓋をしようとしているのだ。
「俺は君を好ましく思うよ、アリス。もしかしたら一目惚れかもしれない。……君も俺を好ましく思うなら、お互い、思い出しても不幸にしかならない記憶には蓋をして、新しい道を歩いてみないか?」
カイルは一世一代の告白をしていた。
女性を口説くなど初めてのことだ。言い方は回りくどく、自分勝手かもしれない。昨日出会ったばかりの、素性も知れぬ子連れの女性。
それでも、カイルはアリスを、この温もりを手放したくないと強く願ったのだ。
「……カイ様となら、忘れられるかもしれません」
アリスはそっとカイルに肩を寄せた。カイルはアリスと繋いだ指先に、祈るように軽くキスを落とした。
雨音にかき消されるほど静かな、けれど二人にとっては世界を塗り替えるほどの誓いだった。
アリスの指は、パンをこねる温かな手だ。だが、その指の腹にはうっすらと、かつて重い剣を握りしめていた者にしかできない硬い「凧」の痕跡があった。
期待と胸の高鳴りに突き動かされ、カイルは懐の鹿革の布を見せようとした。
だが、その手が止まる。
(……これは、パンドラの箱ではないのか?)
彼女が「あの誰か」だと断定できない今、すべては憶測に過ぎない。もし彼女が本当にその人物だとしたら、なぜ忘却薬が使われたのか。自分への嫌悪がトラウマとなり、耐えきれずに自ら薬を仰いだのか、あるいは第三者の手によって記憶を消されたのか。
いずれにせよ、布を見せて記憶を呼び覚ませば、彼女は再び自分に嫌悪を抱き、離れていくのではないか。
それとも、本当に人違いなのだとしたら、彼女は別の男の妻だ。
何も思い出さない方が、お互い幸せなのではないだろうか。
葛藤を押し殺し、カイルは最も気になっていた問いを投げかけた。
「……今朝、店に来た男は、お前の夫ではないのか?」
見るからに仲睦まじく見えた様子を思い出し、今更ながらに腹が立つ。アリスは気まずそうに視線を逸らした。
「小さな村ですので、村人同士、全員が家族のような気持ちで暮らしています。……そのせいでしょう、あのように見えたのは」
何かを隠している気配はあったが、カイルはそれを追及しなかった。代わりに、自分の中に澱のように溜まっていた推論を吐き出す。
「俺の話をする。俺も三年前より前の記憶が所々抜け落ちている。おそらく忘却薬を使われた。その薬は己の大事な記憶と引き換えに、対象の記憶から自分の存在だけを消す呪いのような薬だ。もし、その『誰か』が君だとするならば、君は俺を死ぬほど嫌い、逃げるために俺から記憶を奪ったはずだ。そして、耐えきれず自分の中からも俺を消した。……それほどまでに嫌われているはずなのに、君は今、俺に好意を抱いていると言う。ならば、その子は俺の、あるいは君が死ぬほど憎んでいる男の子ということになるが……」
「ならば……違うのかもしれません」
アリスは首を振り、縋るような瞳でカイルを見上げた。
「私は三年前、この村に辿り着いた時、誰の子か分からぬアーサーを身籠っていました。それでも、この子だけはどうしても産みたかった。とても大事な人からの贈り物のように思えて……。私は、アーサーの父親を確かに愛していたはずなんです」
「……ならば、やはり俺ではない誰かなのだろう。君も、相手を思い出さない方が幸せだ。その男は逃げたんだ。男にとっては望まぬ妊娠だったのだろう。君は、捨てられたんだな」
「そんな……」
突き放すような言葉に、アリスの瞳に涙が浮かぶ。カイルは自嘲した。自分こそがその「逃げ出した男」である可能性を、残酷な言葉で否定し、蓋をしようとしているのだ。
「俺は君を好ましく思うよ、アリス。もしかしたら一目惚れかもしれない。……君も俺を好ましく思うなら、お互い、思い出しても不幸にしかならない記憶には蓋をして、新しい道を歩いてみないか?」
カイルは一世一代の告白をしていた。
女性を口説くなど初めてのことだ。言い方は回りくどく、自分勝手かもしれない。昨日出会ったばかりの、素性も知れぬ子連れの女性。
それでも、カイルはアリスを、この温もりを手放したくないと強く願ったのだ。
「……カイ様となら、忘れられるかもしれません」
アリスはそっとカイルに肩を寄せた。カイルはアリスと繋いだ指先に、祈るように軽くキスを落とした。
雨音にかき消されるほど静かな、けれど二人にとっては世界を塗り替えるほどの誓いだった。
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