覇王に執着される傾国の男装騎士〜忘却の接吻を、愛しき宿敵へ〜

甘塩ます☆

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 アリスがこの村に辿り着いたのも、激しい雨の日だった。
 何から逃げているのか、あるいは本当に追われているのか。それすら判然としないまま、気づけばマリー村に流れ着いていた。
 そもそも、彼女の名は「アリス」ではなかった。「アーサー」という、騎士らしい男の名。隣国の騎士であった自分が、なぜ自国ではなく他国の領地にいるのか。自国で不祥事を起こして逃亡している可能性も否めなかった。それゆえ、故郷へ戻ることもできず、国境付近のこの小さな村に身を隠したのだ。
 村長をはじめ、住人たちは皆温かかった。そして、彼らもまた何らかの「訳あり」だった。皆、村長に拾われ、匿われるようにして暮らしているのだと教わった。
 アリスもまた、来たばかりの頃は今のカイと同じように、村長の離れを借りていた。この村の一員になるには、仕事を持たねばならない。騎士としての生き方しか知らなかったアーサーだったが、思わず「アリス」という、自分には似つかわしくない名を名乗ってしまったその時から、心のどこかで「生まれ変わりたい」と願っている自分に気づいていた。
 これを機に、騎士アーサーを捨て、「アリス」として新しい人生を歩むのだと。
 アリスは独学でパン作りを覚え、ついには店を構えるまでになった。開店を手伝ってくれたのは、問屋のリューだった。茶髪で元気な、弟のような存在。アリスも彼を家族のように思っていたが、ある日、事件は起きた。リューが辛抱たまらんと言わんばかりに、アリスを押し倒してきたのだ。
「アリス、好きだ!」
 強引に唇を奪われそうになった瞬間、爆発するような強大な魔力が放たれ、リューは後方へと吹き飛ばされた。アリスは、自身の腹の奥で何かが脈動するのを感じた。
 胸騒ぎを覚えて村の医者を訪ねると、信じられないことに、妊娠六ヶ月であると告げられた。思えば、月経も長く止まったままだった。環境の変化や多忙によるストレスだと思い込み、放置してしまっていたのだ。
「お腹の子は、かなりの魔力を持った男の子です」
 医師の言葉を聞いた瞬間、アリスの心は歓喜に震えた。性行為の記憶などどこにもなく、子が宿るはずなどないのに、不思議と違和感はなかった。

(……この子は、あの人が私に遺してくれた、最後の贈り物なのね)

 その「あの人」が誰なのかは思い出せない。けれど、頬を伝う涙は温かかった。やがて産まれてきた男の子には、自分が捨てたはずの名前——「アーサー」を授けた。
 それからもリューはしつこく言い寄ってきたが、アリスが応じることはなかった。彼に魅力を感じないどころか、男ばかりの環境で育ったアリスは、これまで一度も男性にときめいたことなどなかったのだ。
 あの日、霧の中から馬を引いて現れた「カイ」が、彼女の人生で初めて、心を揺さぶった男だった。





「カイ様、朝食ができましたよー!」

 あの日、雨の夜の告白を経てから、二人は周囲からも「まるで本物の夫婦のようだ」と揶揄されるほど、仲睦まじく暮らしていた。

「カイ様、まだ寝ているんですか? お寝坊さんね」

 アリスの弾んだ声が、朝日が差し込む離れに響く。カイルは寝台から身を起こし、窓の外に広がるのどかな風景と、エプロン姿で盆を運んでくる愛おしい女性の姿を交互に眺めた。城での殺伐とした目覚めが、もはや遠い前世のことのように感じられる。

「おはよう、アリス。今行く」

 カイルが食卓につくと、そこには焼きたての胡桃パンと、温かな野菜のスープ、そして新鮮な果物が並んでいた。アリスはカイルの隣に腰を下ろし、期待に満ちた瞳で彼を見つめていた。

「今日は特別に、胡桃をたっぷり入れて焼き上げたんです。お口に合うといいのですが」

「お前の焼くパンが、合わないはずがないだろう」

 カイルがパンを一口噛みしめると、香ばしい香りと生地の甘みが口いっぱいに広がった。美味しい、と呟こうとしたカイルだったが、ふと、アリスの頬に白い粉がついているのが目に入った。

「アリス、ここ……粉がついているぞ」

「えっ、どこですか?」

 慌てて自分の頬を擦る彼女の手をそっと掴み、カイルは自身の親指でその粉を丁寧に拭った。そのまま吸い寄せられるように、彼女の柔らかな頬に掌を添える。アリスの顔が、瞬く間に林檎のように赤く染まった。

「あ……ありがとうございます、カイ様」

「……カイ、でいいと言っただろう。ここでは俺はただの男だ。お前の傍にいたいだけの、ただの男なんだ」

 カイルの低く熱い声に、アリスは潤んだ瞳を伏せ、幸福そうに微笑んだ。

「はい、カイ。……不思議ですね。こうしてあなたの隣に座って、朝の光を浴びているだけで、胸の奥が温かくて、苦しいくらいに満たされるんです。失った記憶のことなんて、もうどうでもいいと思えるくらいに」

「俺もだ。俺は今まで、何かを『奪う』ことでしか自分を満たせなかった。だが、お前が淹れてくれた一杯のスープが、どんな領土よりも価値があることを知ったよ」

 カイルは彼女の指を絡め、その手の甲に優しく口づけを落とした。そこへ、パタパタと元気な足音が近づいてくる。

「ママー! カイ! おなかすいたー!」

 アーサーが寝ぼけ眼で部屋に飛び込んできた。カイルは自然な動作で、アーサーを自分の膝の上に抱き上げた。かつては子供など「弱さの象徴」としか思わなかったはずなのに、今はこの小さな重みと温かさが、自分の生命の証のように感じられる。

「こら、アーサー! もう朝ご飯を食べたじゃないの。カイに甘えたいからって嘘ついて、めっ!」

「いいんだ、アリス。この子は俺たちの宝だ。そうだろ?」

 カイルがアーサーの茶色い髪を優しく撫でると、アーサーは嬉しそうにカイルの胸に顔を埋めた。

「もう……お絵かきして待ってるって言ったのに」

 アリスは溜息を吐く。アーサーには悪いが、アリスもカイルと二人きりの時間が少しは欲しいと思ってしまうのだ。そんな彼女の微かな独占欲を見透かしたように、カイルがアリスの耳元で低く囁いた。

「——夜、アーサーが寝たらおいで」

 アリスは顔を真っ赤にした。カイルはまだ、アリスに手を出していない。幼いアーサーが側にいることに配慮しているのだ。

(今夜、彼は私を求めてくれるのかしら……)

 アリスの胸はかつてないほどに高鳴っていた。

 窓の外では小鳥が囀り、村の穏やかな生活の音が聞こえてくる。
 記憶の欠落。身分の違い。素性の知れない訳ありな二人。
 すべてを朝露の中に溶かしてしまったかのような、幸せな朝のひととき。
 けれどそれは、残酷なほどに完璧な「嵐の前の静けさ」であった。
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