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しおりを挟むその夜、雨は上がり、雲の切れ間から頼りない月光が差し込んでいた。
アーサーの健やかな寝息を確認し、アリスは薄い羽織を一枚纏うと、パン屋の裏口から音を立てずに抜け出した。
村長の離れの扉を叩く指が、微かに震える。
扉はすぐに開いた。まるで、ずっとそこで待っていたかのように。
「……来たか」
カイルの声は昼間よりも低く、アリスの心臓を直接掴むような熱を帯びていた。手首を引かれ、部屋の中へと招き入れられる。
小さなランプの灯りが揺れる密室。二人の影が壁に長く伸び、重なり合った。
「怖くはないか?」
カイルがアリスの髪にそっと触れる。アリスは小さく首を横に振った。
「いいえ。……自分でも不思議なほど、あなたの腕の中に帰りたいと、身体が覚えている気がするのです」
カイルは堪らなくなったようにアリスを抱きしめた。
重ねた唇からは、パンの残り香ではなく、狂おしいほどの渇望が溢れ出す。
羽織が肩から滑り落ち、その肌が露わになった時、カイルは思わず息を呑んだ。
月光に照らされた白い背中には、パン屋の娘には似つかわしくない、無数の傷跡が刻まれていた。
それは、幾多の戦場を潜り抜けた騎士だけが持つ、誇り高くも凄惨な「勲章」だった。
「……この傷は、俺がつけたものか?」
カイルの指先が、最も深い傷跡をなぞる。
アリスの身体が微かに跳ねた。痛みではなく、深い場所にある記憶が共鳴したかのような疼き。
「未熟な頃の鍛錬でついたものだと思います。……気持ち悪いですか?」
「いや、美しい。アリスが生き抜いてきた証だ。それに、どうしてか酷く懐かしいんだ」
「あなたの指が触れる場所が、熱くて……。まるで、こうしてあなたに慈しまれるために、私はこの傷を負ったのではないかとさえ思えてしまいます」
二人は吸い寄せられるように、寝台へと倒れ込んだ。
肌を重ねるほどに、確信が深まっていく。
自分たちはかつて、こうして愛し合っていた。身分や、敵味方や、あるいはもっと残酷な「何か」をすべて投げ打って、一時の熱に身を焦がしていたはずだ。
「アリス……たとえお前が俺を殺そうとした騎士だったとしても、俺はもう離さない」
激しい執着を孕んだ言葉に、アリスは涙をこぼしながら微笑んだ。
「はい、カイ。……明日、世界が壊れてしまうとしても。今夜だけは、あなたの『アリス』でいさせてください」
窓の外では、夜鳥が一度だけ鋭く鳴いた。
それは、幸福な夢の終わりを告げる前奏曲のようでもあった。
翌朝。
目が覚めたアリスの脳内には、隣で眠る男の「正体」が鮮明に蘇っていた。
彼はカイル王。そして、アーサーの父親。
アリスは、すべてを思い出していた。
(――幸せそうに眠り続けやがって、この男は!)
アリスは若干の八つ当たり気味に、カイルの肩を揺さぶり起こした。
「カイル王! 陛下!! おい、起きろご主人様!!」
「んん……アリス。まだ早いよ。もう少し一緒に寝ていよう……」
「何寝惚けたことを言っているんだ! 城はどうした! まさか国民を捨てて逃げてきたのか、この腰抜けめ!」
何のために私が身を引いたと思っている。
一変したアリスの怒声に、カイルが薄目を開けた。
「どうしたんだアリス、別人みたいだ。昨夜のしおらしい彼女はどこへ行ったんだ? ……まぁ、怒っている君も可愛いからいいか」
「おい、寝ぼけるなと言っているだろう!」
カイルは意に介さず、アリスを抱き寄せて布団の中に引きずり込んだ。
「愛してるよアリス。アーサーに弟か妹を作らないかい?」
「カイル王!!」
「俺の正体を知っていたんだな。なら話が早い。俺は帰る気はない。国は弟に任せる」
「弟って、あの腑抜けの第二王子か!? 駄目だ、国が傾く!」
「もう傾いてる。……それに、面倒くせぇんだよ。俺、王とか柄じゃなかったし。俺の適職は『アリスの夫』しかないと思ってる」
「しっかりしてくれ、どうしちまったんだよカイル!」
「『どうしたんだ』はこっちのセリフだ。……それがアリスの素なのか? まあ、どっちにしろ可愛いからいいけどな」
「……私のこと、思い出してないのか?」
アリスの問いに、カイルは彼女の頬へ優しく口づけた。
「アリスだろ? 俺が愛した、たった一人の女だ」
完璧な回答に、アリスはそれ以上どう怒ればいいのか分からなくなってしまった。
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