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第一章 幸せのありか
27 side樹理
しおりを挟むこれと言ってなにが変るわけでもなく、クリスマスも大晦日もお正月も、本当に、何があるわけでもなく過ぎて、年が変わり、樹理が哉の家にやってきて二ヶ月近くが過ぎてしまった。
朝、ご飯を作って。
夜、哉を出迎えて。
すれ違う時はいつもメモが置かれる。
行ってきます、行ってらっしゃい。ただいま、おかえりなさい。そんな最低限の言葉くらいしか交わさない。いや、言っているのは一方的に樹理で、哉はなにも言わない。
単調な生活の繰り返し。昨日と変らない今日。今日と変らない明日、一週間後、一ヶ月後、最後の日。
哉にとっての自分は、きっと家事をこなすロボットか何かと同じなのだろう。
もともと質草なのだ。それが働いているかいないかだけの違いであって哉にとっては全く気にかけることさえ面倒なもの、それが自分。
風呂だけは先に行くけれど、何度待つなと言われても樹理は哉の帰りを待っていた。せめてそれだけくらいしたかった。
「……っくしゅっ! ……」
自分のくしゃみで目が覚めた。
ずずずっと鼻をすすって時計を見上げると午前三時を過ぎている。
「どう、したのかな」
哉のスケジュールは三ヶ月後くらいまでびっちりと埋まっている。遅くなる日が分かっているので、接待などがあって食事のいらない日は事前にメモが置かれているはずだが、今日はなにもなかった。もちろんこんなに遅いのも初めてだ。ここのところずっと帰ってくるのが遅いけれどそれでも午前一時には帰ってくるのに。
「事故、とかに遭ったのかな……」
ティッシュをとって鼻をかむ。三日ほど前から風邪をひいたらしく熱っぽくて咽が痛い。この時間まで布団に入っていなかったために冷えたのかぞくぞくと背中を悪寒が走った。
パジャマで出迎えるのもどうかと思って、樹理は寝る前まで普段着を着ている。
「ちょっと、薄着したかも」
スゥエードっぽい厚手のシャツとフレアスカート。上からトレーナかセーターを着ておくべきだったと後悔してももう遅い。
さすがにもう寝ようかと迷っていると、がちゃり、と玄関が開く気配がした。
「あ、あの、お帰り……なさい……?」
玄関に向かうと、そこに酔っ払った哉がいた。カベで半身を支えるように立っている。
いつもなら放り出すにしてもちゃんと脱ぐ靴を、かかとを潰すように乱暴に脱ぎ散らかして、やっぱりカベに手をついて体を支えながら哉がいつもの通りなにも応えずに家に入っていく。樹理は脱ぎ散らかされた靴を整えて、かかとを直してからキッチンへ行ってグラスに氷を入れて水を汲んだ。
リビングに行くと、哉が今まで触りもしなかったローボードの中からよく分からないけれど高そうなお酒のビンを取ってそのままあおっている。そんな飲み方が体にいいわけがない。
「あの、大丈夫ですか? もう飲まないほうが……」
いいながら差し出したグラスがはじかれた。シャツとスカートに向かって倒れたグラスは割れることなく水の大半を樹理の服に染み込ませたあと氷を振りまきながらリビングの床を転がった。
「すいませんっ!!」
すぐに雑巾を取りに行こうと立ち上がろうとしてふらついた。目の前が遠くなって、近くなる。一瞬意識が飛んで、帰ってきたら哉にしがみついていた。
「ごめっ……すいません……ちょっと風邪気味で……」
慌てて体を離して起き上がると、更に酒のビンが倒れて床に流れ出している。樹理がぶつかったせいで落ちたのだろう。
手近に拭くものがなくてスカートで拭こうとしたら今度は突き飛ばされた。おそらく思いきり。後頭部に鈍い痛が走る。ガラスがはめ込まれたテーブルの脚だ。ステンレスでできた。酔っ払いの力なので普段の樹理ならよろめくことはあっても飛ばされることなどなかっただろうけれど、熱のせいですでに平衡感覚がずれていたこともあってすぐに起き上がれない。
「もううろちょろするな。さっさと寝てしまえ」
哉が怒ったようにそう言って、また新しい酒に手をつけているのがぼんやりと見えた。
「でも、なにかあったんじゃ……」
起き上がって近づこうとして、拒絶された。哉が顔をそむけて先ほどよりずっと語気を強めて怒鳴った。
「いいから行ってしまえ!!」
伸ばしかけた手を引いて樹理は俯いたまま和室の障子を開けて、哉を振り返る。床に直に座って樹理の方、和室の方向に背を向けている哉を。
哉がお酒を飲んで帰ってくるのは別に今日が初めてではない。接待があるとメモに書いてある日は、大抵飲んで帰ってくる。けれどこんな風に酔っ払って帰って来たのは初めてだ。どうしてそんな風に酒を飲んでいるのかそれさえも樹理には分からない。尋ねたら、怒鳴られた。怒鳴られたのも多分初めてだ。
「ほんとに、お酒、飲みすぎたら体に悪いです。………早めに、休んでください」
それだけなんとか言って、樹理は障子を閉めた。
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