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第一章 幸せのありか
30 side哉
しおりを挟むそうさせたのは哉なのに、樹理が条件反射のように謝罪して立ち上がろうとした。
冷水をかけられたせいか、ふらりと、立ちくらみを起こしたように樹理が崩れ落ちた。それこそ反射的に抱きとめた。嘘みたいに軽いその体を。
樹理が使っているフローラル系のシャンプーのにおいが吸いこんだ空気の全てだった。
状況がわかった樹理がはじかれたように体を離し、また謝って言い訳のように風邪をひいていることを言う。そんなことは哉には分かっているし自覚があるなら寝てしまうべきだろうと思っていると、こぼれた酒を自分のスカートで拭こうとしている樹理が目に入った。
そんなもの拭かなくてもいい。そう言おうとしてろれつが回らなかった。
言葉が出なかったので咄嗟に突き飛ばした。酔っていて力の加減など全くできなかった。軽い体は簡単に離れていって、勢い余ってテーブルの脚に樹理があたる鈍い音がする。
後悔した。
この苦い気持ちは後悔だ。そして気づく。今まで訳もなく哉を追い詰めていたものに。どうして樹理を身近に置いてしまったのか、それをずっと後悔していた。しかし後悔の理由がわかってもどうして後悔しているのかは依然不明なままだった。
数瞬のちに頭を押さえながらだけれど起き上がった樹理にまた意味もなくほっとして、けれど出てきた言葉は怒鳴り声だった。
でも…と泣きそうな顔をして樹理がまた見上げてくる。
やめてくれと。
その目で見るなと。
樹理が視線をそらさないのなら、自分が別の方を見るしかなかった。
もうこれ以上、樹理を見ていたくなかった。
ふっと、樹理の気配が遠のいた。障子の開く音がして、やっと哉は息をついて体の力を抜いた。飲みかけのまま転がして手の届かないところまで行ってしまった酒ビンよりも新しいものを出したほうが距離が近くてバリバリと封を開けて、飲む。早く酔って意識を無くしてしまいたかった。なのに感覚はどんどん鋭くなって、真後ろの樹理の視線が背中に痛いくらい刺さるのが分かった。
しばらく黙ったままそうしていた。哉が何か言おうとした時、背中に樹理の言葉が降りてきた。風邪のせいで引きつれていたけれどとても心地よかった。
よっぽど重病そうなかすれた声でそれでも哉を労わる言葉を言うと樹理が障子を閉めるのが分かった。
だからといってどうしようもなくて、けれどもう酒を飲む気にもなれなくて天井を見上げていると和室の奥から途切れることの無い咳が響く。
むせるように、何か別のものまで出てきそうな勢いで続く咳。
苦しそうにぜいぜいとあえぐ声がやむとまた咳が続く。
あまりにも長くて、止まる気配の無い咳に徐々に不安になってくる。
血でも吐いているかもしれない。
立ちあがって和室の障子に手をかけて一気に開けると、かひ、と咳をして、びっくりした様子を隠さない樹理が哉を見上げていた。
畳の上に座りこんで哉を見上げる樹理は、ほとんどなにも着ていなかった。
服が脱ぎ散らかされて、濡れた体を拭いていたらしくタオルを両手で胸に抱いて固まっている。
大丈夫かの『だ』で哉の口も止まってしまった。
何度も咳をしていたせいで涙目になっていて、熱で鎖骨のあたりまでほんのりと赤い。
謝って出ていくべきだと分かっていても思わず見とれていた。
哉よりも先に樹理が正常な意識を取り戻したのが、状況を悪化させる原因になった。
樹理の口をついて出たのは、哉を拒絶する言葉だった。
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