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第一章 幸せのありか
31 side樹理
しおりを挟む苦しくて苦しくて苦しくて。
咳が全然止まらなかった。いつもなら、ここが樹理の家ならば母がやさしく背中を擦ってくれた。それだけで安心できて、咳なんていつもあっさり止まったのに息さえできないのに咳は全く治まってくれる様子が無かった。
咽が切れそうなくらい痛いのに、止まらない咳。
水がかかって冷たくなった服を咳をしながら脱ぐ。襟元から入った水のせいでブラまでびっしょりと冷たくなっていた。
それもはずして乾いたタオルを取る。乾いていると言うだけで暖かいような気がして咳も治まりかけた時、なんの前触れも無く障子が開いた。薄ぐらい和室と明るいリビング。そのせいで逆光になって哉の表情がわからない。
びっくりしすぎて本当に咳が止まった。
でもどうして、哉がそこにいるのだろう?
いつも樹理がなにをしていようと哉が和室の障子を開けることは一度も無かった。
だからなんの警戒心も無く服を脱いでいた自分の無防備さに後悔する。今日の哉は、いつもの哉ではなかったのに。
いつまで経ってもそのまま立っている哉が一体何をしたいのか見当も付かなかった。
ただじっと、見られていることだけは、視線が動かないことだけは逆光で表情が分からなくても、分かった。
どう映っているのかなど聞かなくても分かる。
下着一枚だ。かろうじてタオルを持っているものの全裸同然の。
見られつづける嫌悪感よりも先に恐怖心が大きくなった。
何もされないと、勝手に思いこんでいた。
いつどうなったっておかしくなかったのに。今まで何もされなかった分、気が弛んでいたせいもあって樹理がパニックを起こす。
寒気ではない何かがせりあがってきた。小さく歯が鳴るのは、風邪のせいではない。
少しでも距離が取りたくて、体が自然と後退した。
初めて哉を、怖いと感じた。
「………っや………」
タオルを抱える腕に力が入りすぎて、肩が震えているのは哉にも分かっただろう。
俯いて首を振って座ったまま奥に逃げる。お願いだからいつものようになんでもなかったようにして出ていってほしかった。それなのに。
影が近づく。
片手でタオルを抱えたまま、もう片方の手をついて樹理が背を向けて本格的に逃げる体勢に入るのと同時に。
「いっ!! やめっ」
三つ編みにした髪をつかまれて引かれた。痛くて払いのけたくて、伸ばした腕が代りに掴まれた。指が腕に食い込む。新しい痛みに体を捩ってもその拘束は弛むことは無い。更に引っ張られた痛みに耐えかねた樹理が立ちあがる。
最初に髪を引っ張られた時ゴムが取れたのかゆるめの三つ編みは簡単にほどけて俯いたままの樹理の顔にかかった。
「やだっ……やめて……おねがッ!!」
明るいリビングまで引っ張り出されて樹理が懇願するようにそう言った。
顔を上げて、見えたのは哉の背中だった。いつも樹理に向けられた無関心な背中と同じなのに全然違うものに見えた。しぐさで哉がネクタイをはずしているのが分かる。
リビング全体が酒くさかった。
なんとか逆らおうとして裸足をフローリングに付けてふんばっても結局腕にかかる力が強くなって、よろめくのは樹理だった。哉がいくら細身でも歴然とした男女の力の差はどうすることも出来ない。
よろめいた樹理はそのまますくいあげるられようにして厚いガラスの上に仰向けに押しつけられた。
ガラスの冷たさに全身に鳥肌が立った。
その冷たさがそのまま今の哉を現しているようで怖くてその顔を見ることができずに顔をそむける。
近づく哉の気配にめちゃくちゃに腕を振りまわした。
大した抵抗もできないまま、簡単に樹理の細い両腕が哉の片手で押さえつけられた。それでももがこうとする樹理を見て哉が鼻を鳴らすのが聞こえた。
その音に、樹理が再びもがく。
「いやっ離してっ!! もうやだっ誰か、助けて……!! パパッママ……」
助けてと呼んでも誰も来てはくれない。そのまま腕が引き上げられてガラスより冷たいステンレスの脚に縛り付けられた。手加減も何もない、弛めようともがけば、より食いこんでくるような、なんの情けも容赦もない縛り方で。
「いやあぁぁあっ」
悲鳴が、押し込められたタオルの中で響いた。
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