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第二章 恋におちたら
15 side樹理
しおりを挟む「行ってきます」
荷物をトランクに積み込んで、すでに夕闇が迫ってきた空の下、何とか立ち直ったらしい樹理がぺこりと頭を下げた。
「行ってらっしゃい。電話くらいしてね。毎日じゃなくていいから」
「ハイ」
普通なら運転席のある位置に樹理が乗り込んで、車が走り出し、見えなくなるまで後ろをむいて手を振った。
いってらっしゃい。
前にこうやって家を離れるとき、ほしかった言葉だったと思い出して、樹理は少しだけ微笑む。
送られる言葉は、想像したより背中に温かかった。
狭い車内に二人きり。けれど居心地は悪くない。むしろまったりと落ち着く。いろいろと思い出しながら車窓を眺めていた樹理が、マンションへの最寄り駅に差し掛かったとたん、現実を思い出す。
正真正銘、冷蔵庫の中はからっぽだ。昨夜食事を作ったときはこんなことになるなんて夢にも思っていなかったので、ご飯も一人分に少し足りない微妙な残量だ。
ここにきて、夕食まで外食と言うのは樹理には思いつかない。何か作らなくては。そして材料を調達せねば。
「あ。買い物っ 左の店にお願いしますっ!」
すばやく視線を走らせると、いつも寄る見慣れた食料品店の看板が眼に入る。
「今晩どうしましょう? もう結構時間が遅いし……簡単なものでもいいですか?」
「簡単なものって?」
車を駐車スペースに止める。ファミリーカーや軽自動車といった庶民的な車の中で、銀色のスポーツカーはかなりの異彩を放っていて、そばを通る人々がちらちらと視線を向けているが乗っている当人たちは、一人は全く気にも留めていないし、もう一人も気にする余裕がないらしい。
「うーん、おうどんとか、おそば……これからならそうめんとか……」
一番簡単ならインスタント麺です。と考えて言うのをやめておく。哉はジャンクフードとは限りなく縁遠そうだからだ。鶏がらだしの日本で一番初めにできて、今も庶民に愛されている揚げ麺なら、哉でも食べられるだろうか? しかし、湯を注いで三分待つ哉ってどうだろう。バリバリの洋ネコに昨日の残りのご飯にこれまた残り物の薄めた味噌汁をかけたねこまんまを差し出すような違和感がある。
「そうめんか……」
「そうめんがいいですか?」
「いや、一回しか食べたことがない。それに家では食べられないんじゃないのか?」
「え?」
決め付けるのは悪いが、哉がいくらお金持ちでも嘘だと思った。樹理は夏には毎週のように食べていたからだ。
「高校三年のとき速人の実家に遊びに行ったとき食べた。それきりだな、そう言えば。ものすごく細い麺を竹を割ったものに水と一緒に流すやつだろう?」
「………それは流しそうめんで……普通の家では普通に器に氷と一緒に盛って、普通にお箸でとって、つゆにつけて食べます……」
家庭用に、流しそうめんと言うより回しそうめんと言った風の器具を見たことはあるが、哉が想像しているのは明らかに屋外でやる通常版だ。
神崎先生の実家って高校生の息子の友達が来たくらいで(おそらく庭で)流しそうめんをしてしまうなんてどんなおうちなんだろうと思いながら、樹理が微妙な修正をする。竹を使うような流しそうめんなんて、近所で有志がやるこじんまりとした夏祭りくらいのイベントでしか見たことがない。ついでに、関係ないが器に盛っても缶入りのレッドチェリーを飾る心境もどうかと思っている。
「おうどんにしましょうか?」
「いや、そうめんがいい」
きっぱりと言い切られて、決定してしまった。車から降りて、店の出入り口で哉が改めて思い出したようにつぶやいた言葉に、樹理がまたこけそうになった。
「ああ、こういう店で買い物をするのも初めてだな」
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