2 / 50
第一章
ぼくの名前
しおりを挟む1
台風が去った翌日、中学校の裏手の小さな川は増水していた。
霧人君は、流れの速くなった濁った川を眺め、いつも甲羅干ししている亀は無事だろうか、などと考えながら帰り道をのろのろと歩いていた。
その時、小さすぎるぼくは、土手から横倒しになだれかかった何かに、まだ軟らかい爪が偶然引っ掛かって、必死でこの増水した川に流されまいともがいていた……と思う。
けれど、実際もがく間もなく、一気に川の真ん中まで流されて、生まれて一ヶ月の命もこれまでかと諦めただろう時、掬い上げて救ってくれたのは、中学二年生の霧人君だった。
石鹸の匂いの残るポケットタオルに包んで、優しい人差し指でおそらく心臓マッサージをしてくれたのだろうか、ぼくはぼんやり呼吸を止めるのをやめた。
霧人君のジャージはびしょ濡れで、川に入ってぼくを助けてくれたんだということがわかる。
凍えるほど体温を奪われていたぼくは、ちゃんと道端にスニーカーと靴下を脱いでおいた霧人君の、そのまだ温もりのある靴下にすっぽりと入れられ、微かな石鹸の匂いの体操服の内側に守られて、霧人君の家に連れてこられたのだ。
2
「どうしたの、キリ!」
大きな目をなお大きくして、咲月さんがびしょ濡れの霧人君に駆け寄る。
咲月さんと同じ顔をした結月さんが、
「川にでも落ちたんでしょ。ほら、玄関で全部脱いじゃって!」
と、霧人君の体操服に手をかけた。
咲月さんと結月さんは、霧人君の六歳離れた双子のお姉さんだった。
霧人君は結月さんの手をひょいと躱すと、
「ちょい待ち! 触るなよ。ここに大事な命がいるんだよ」
と、靴下に袋詰めの小さなぼくを、体操服の内側からそっと取り出した。
「ち、小さいわ……生きてるのよね」
「うわ、小さい。それに真っ白。おなか押さえて大事な命なんて言うから、キリが子供でも生むのかと思ったわ」
「アホか。多分生まれて間もないよ。死んじゃうかもしれないから、早く温めて」
霧人君は少し苛ついたように言った。
双子なのに、まるでリアクションが違うお姉さん達だけれど、ふたりの行動は速かった。
「まずはお湯で温めてしっかり乾かしましょうね。キリも風邪ひくからシャワーしといで」
そう咲月さんが言い終えないうちに、
「仔猫ちゃん用のミルク買ってくるわ」
と、結月さんが玄関を飛び出していった。
ぼくは、咲月さんのおかげでぽかぽか温かくなってふわふわに乾いて、結月さんが探してきてくれた仔猫用の哺乳瓶で温いミルクをおなかがはち切れんばかりに飲んで、物凄く安心して眠った。
ふと目が覚めると、霧人君の温かくてやっぱり石鹸の匂いのする掌の中だった。ぼくの命の恩人だ。その霧人君はといえば、口を開けてうたた寝していた。
「うふふ、キリったら、予定外に川に入って疲れちゃったのね」
優しい声で咲月さんがそっと言うと、
「予定内でも川に入ること、そうそうないでしょ。キリ、仔猫ちゃん潰さないでよ」
などと結月さんが続けるものだから、
「うるさいなあ……むにゅむにゅ」
霧人君が寝ながら文句を言う事になる。
ここまでのやり取りで、この三人の大体の構図がわかった気がした。
「ねえ結月、これ見て。仔猫のからだ洗ってたら、ほら」
咲月さんが掌を広げて、結月さんに見せている。
「あ、これって百日草の種じゃない」
「そうよね。ママが庭に植えた百日草のこぼれ種と同じよね」
「ふあぁぁ……そういえば拾い上げた時、種が剥き出しの枯れた花が、コイツのちっちゃい爪に挟まってたよ」
霧人君が寝惚け声で割って入った。
「あら、キリ。起きたのね」
「結月がうるさくて眠れない」
「ふん、それは失礼しましたね。けど、台風で土手の百日草、流れちゃったのかしら」
「あいつら、生命力強いから、来年また復活するだろ」
「生命力っていえば、元気に育って欲しいこの子の名前、キリが連れて来たんだからキリが名付け親になりなさいよ」
結月さんが思いついたように言うと、霧人君は決めていたかのように、すかさず回答した。
「それじゃ、真っ白だから『ジンクホワイト』。かっこいいだろ」
「うふふ、長いわね、キリ」
「そうよ、長すぎて呼ぶのめんどくさい。短絡的だし可愛くない。それに、真っ白ならチタニウムホワイトよ」
「なんだよ、おれに名付け親になれって言ったの、結月じゃないか」
「うふふ。じゃあ、『ジン』はどうかしら。だって、この子は白い上に、百日草の種を運んできたんだもの」
咲月さんが人差し指をピンと立てながら、柔らかい口調で言った。
「ジニア! 『ジン』! いいわね」
結月さんは気に入って親指を立てた。
「よし、今からおまえの名前は『ジン』だ」
霧人君はぼくを掌に乗せてそう言った。
つまり、円満にぼくの名前を決めてくれたのは咲月さんだった。
「それじゃ、わたしはジンが持って来た種を種蒔きの時期まで保管しておくわ。ジンが来た記念に」
咲月さんは大切そうに三粒のその種をピンクのぽち袋にしまうと、月乃ママの写真の前に置いた。
「柊家の新しい家族『ジン』がやってきました。小さくて真っ白な子です」
「ただいま」
夜、暁人お父さんが帰って来た。
ぼくを見つけると、一言、
「おお、仔猫か。小さいなあ」
と言っただけでリアクションは少なかったけれど、その細くて優しい目は、会ったことはないけれど仏様みたいだなって思った。実際、お父さんは底抜けに優しい紳士だった。
「ぼくはジンて言います」
お父さんに、か細い声でニィニィ伝えると、
「よし、来い」
と言って、ぼくを掌に抱いてくれた。霧人君よりも大きくて包み込まれるような手だった。そしてもう一度、
「小さいなあ」と言った。
「四百グラムもないのよ」
結月さんが何故か自慢げに言う。
ぼくは一日でこの家族が大好きになり、ずっとずっとそばにいようと自分に約束をしたのだ。
51
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる