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第一章
霧人の秘密
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初めて登った屋根の上で、ぼくは霧人君の独り言のような話に、耳をピンと立てた。
*
おれさ、県大会の代表選手、確定してたんだよ。なのに、ハードルの練習中にあり得ない転び方をして、右膝の半月板割っちゃったんだ。おかげで大手術、大会に出場出来ないばかりか、ろくに走ることも出来なくなった。信じられないよ。
ほら、ここだよ。右膝、ちゃんと曲がらないだろ。
ジンにだって半月板あるんだぞ、おんなじだよ。
……ハードルの高さは決まってる。タイムは0・001秒で争われるから、ハードルの高さすれすれで飛び越えるんだけど、あの時、よくわからないけど、最後のハードルが傾いていた気がした。感覚的にそう思った。身体が覚えてる高さと違ったんだ。ハードルと一緒に倒れ込んだ時、妙な石がそこにあった。トラックに石なんて……故意にやった奴がいるなんて思いたくない。けど、つい誰かを疑ってしまうんだよ。おれが走る直前に、何故かわざわざハードルを直しに行った奴……とかさ。
突然選手生命を絶たれて、顧問にも肩落とされて、陸上部の練習なんか見に行かれるかい? 体育の授業だって嫌なのに。誰も悪くない、自分のせいだってわかってる、けど、誰かのせいにしなくちゃ立ち直れないんだよ。
入院中、マネージャーの美夜は毎日見舞いに来た。今や元カノ、どうでもいい事だけど。
また走れるようになるからって、最初は元気づけてくれていたけど、結局、おれの代わりに代表選手になった坂島って奴と、妙に仲良くなっちゃってさ。そいつ、元々、おれのスパイクを隠したりユニフォームにわざとマジックつけたりして嫌な奴だったんだけど。そんな奴、誰が素直に応援できる? おれ、そこまで人間出来てないよ。案の定、そいつはこの間の大会で結果は残せなかったんだけど。
こないだ美夜に、「ハードルの脚に細工したの、坂島かもな」って、つい口走っちゃったら、いきなり平手打ちだよ。「証拠もないのにライバルを疑うなんて信じられない! 走れないから僻んでるんでしょ、ダサッ」って、猛攻された。別にライバルじゃねえし。
なんか余計落ち込んじゃったんだ。自分の軽率さにね。
学校になんか行きたくないんだ。
*
耳を立てながら、半分眠くなって訊いていたぼくには難しい話だったが、遠くを見つめる霧人君の寂しそうな瞳を見上げて、小さく「ニィ」と鳴いた。
2
どのくらい経ったのだろう。霧人君の腕の力が緩んでいた。
ぼくは、するりとその腕をすり抜けると、ちょこんと霧人君の隣に座った。
霧人君は、大きなため息を吐いたと思ったら、思い切り両腕を伸ばして姿勢を整え直してから、
「おいで」
と、優しい目でぼくを見た。お父さんの目とよく似ていた。
「キリトは溺れてるぼくを助けてくれたんだよ。神様はちゃんと見てる。走らなくたっていいじゃんか。キリトには素敵な未来があるはずだよ。ぼくにだって、こんな幸せがやって来たんだもの」
そんな内容めいた事を伝えたくて、ニィニィ鳴いた。
「ありがとう、ジン……おれ、怪我さえしなければ県屈指の陸上校への進学も、ほぼほぼ内定していたんだ。だけどもうおしまい……目標が無くなっちゃった……くそっ」
「ニィ」
「どうしたらいいんだよ、学校なんか行きたくない」
お父さんやお姉さん達には相談するつもりはなさそうだ。
屋根の上からは、ぐるりと空が見渡せる。こちらが見るというより、空に見られてるという方がきっと当たっている。
「ジン、おれが学校サボった事、内緒にしといて……特に咲月には。って言っても、結月にバレたら咲月にもバレるよな」
霧人君はそう言うが、多分一番先に気づくのは咲月さんだとぼくは思った。
空が赤らんできた。太陽が山の稜線に近づいている。
「おれさ、母さんの事、あんまり覚えてないんだよな。だから、咲月や結月みたいに、ママって呼べなくて。物心ついた時には、母さんは写真の中の存在。ただ、ぼんやり覚えているのは、庭に一緒に種を植えた事。ビデオがあったからね。ぼくは種よりも地面の蟻の行列が気になってたみたいだ。咲月と結月も一緒にいたんだけど、夢の話みたいに靄がかかってる感じでさ」
静かな間があった。
「おれ、多分咲月が好きなんだ。もちろん姉ちゃんとしてなんだけど、結月とはちょっと違う。美夜と付き合ってた時もいつも感じてた。守りたい人は誰だ、って。よくわからないけどさ」
霧人君は、再び大きなため息を吐いた。
「咲月と結月は母さんの連れ子なんだ。だから、おれと半分血が繋がってる」
霧人君の笑顔がものすごく切なくて、ぼくは返事をする事も出来なかった。そして、何故かわからないけれど、心臓のあたりにちりちりと小さな痛みを感じた。
頭上を黒い鳥が三羽、飛んで行く。親子だろうか。思ったよりも大きくて、少し怖かった。
カア、カア、カア。
「そばで聴くと大音量だな」
さっきより空は本格的に真っ赤になって、霧人君の顔もTシャツも赤く染まっている。
「うおお、白猫ジンが赤猫になってる。化け猫か、おまえ……よく見ると左目が赤みがかってるのか」
断末魔の真っ赤な太陽を背に、ぼくは少しだけ化け猫気分で牙を剥いて鳴いてみたけれど、なんだか妖しい夢のような赤い靄に包まれた気がして、やっぱり小さく「ニィ」と鳴き直した。
それから、器用に石鹸くさいTシャツの内側に丸め込まれたぼくは、霧人君と共に二階の窓から部屋に滑り込んだ。
「さっきのこと全部、誰にも言うなよ」
「ニィ」
ぼくもお母さんの事はあまり覚えていない。今も思い出せるのは、お母さんの回りをよちよち歩いていた時、大きな大きな猛獣みたいな猫がぼく等に飛びかかったその刹那、お母さんが身体を倍に膨らませて、今まで聴いたことのないような鳴き声で「出来るだけ遠くに逃げなさい」ギャギャギャギャッと叫んだことだ。ぼく等は何が何だかわからないままに、てんでばらばらによちよち逃げて、みんなはぐれてしまった。ぼくは土手の雑草の中に転げ落ちて、ただただ怖くて不安だった。
お母さんの記憶は、ぬくぬく温かくて柔らかくて優しくて甘い匂いがしてたことだけ。
きっと霧人君もそうなのだろう。
そして、きっと咲月さんは月乃ママと匂いが似ているに違いない。
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