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第一章
柊家の夏休み
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ジャーッと水を流しながら、咲月さんが笊の中の素麺というものを洗っている。笊と咲月さんの手の間で蠢くそれに目を奪われて、シンクの上からうずうずと狙っていたら、
「うふふ、だめよ」
にこやかだけれど触らせてくれない。
霧人君やお父さんや咲月さんの口に吸い込まれていく素麺のうねうねが気になり、霧人君の膝に飛び乗って「ニャニャニャ」とお祈りポーズのおねだりをしてみた。
「一本くらい大丈夫だろ」
「ふふ、わかったわよ。一本だけね」
咲月さんが、素麺一本をはさみで細かく切って、ぼくのご飯の上にパラリと乗せた。
「……ちがうよ、サツキ。食べたいわけじゃないよ」
ニャアニャアニャアと訴えたが、咲月さんは首を傾けて、
「食べないの? ジン」と言った。
分厚い積乱雲が真っ青な空に立ち上がっていたある日、
「出掛けてきます」
レモンイエローのノースリーブのワンピースを着て、緩やかに髪をカールさせた咲月さんが、向日葵柄の日傘を差して出掛けて行った。
入れ違いに、赤い大きなピアスをつけた結月さんが、がちゃがちゃと帰省してきた。
「ただいま。ジン、会いたかったわよ」
容赦なくぼくを抱き上げ、これでもかというほど、もふもふぐりぐりして、
「一週間居座るからね」と言った。
階段を降りてくる霧人君を見ると、
「ただいま、キリ。美容師になるんだってね、頑張れ。プロになっても家族割百パーセントで頼むわね」
「気が早いな、結月は」
「ところで咲月は?」
「出掛けた」
「珍しい。もしかしてデートかしら」
「…‥知らない」
お父さんは、珍しくソファーで音楽を聴きながら目を瞑っていた。
「ただいま、お父さん。この曲、ママとの初デートで観た映画のでしょ」
「よく覚えてるな」
お父さんが優しい目を開けて笑いかけると、結月さんはその姦しいキャラクターが崩壊するかのように、目を潤ませて、
「お父さん、これからもわたし頑張るからね。秋のグループ展すごいから、絶対観に来てね」
お父さんは笑顔で頷いた。
「ところで咲月はデートなの?」
「何でそう思うんだ?」
お父さんが可笑しそうに、逆に訊く。
「……双子の勘よ」
柊家の昼食は、この日も素麺だった。
みんなの口に吸い込まれていくうねうね素麺を捕まえたくて、じっとチャンスを狙って観察をしていると、結月さんが変な食べ方をしている。素麺を汁につける事なく、氷の入った器から一本一本食べているのだ。霧人君は呆れながら、それをちらちら見ていたが、ぼくはその一本ずつのうねうねにムズムズして、結月さんの膝に飛び乗り、この間の霧人君の時よりも激しくお祈りポーズを断行した。
結月さんは、拍子抜けするほど何の躊躇いもなく、一本の素麺を長いまま、ぼくの目の前にぷらんと下げた。
「これだよ、ぼくの待っていたものは!」
思いきり戯れついて、爪に引っ掛け、床を転げ回り、遊びながら結局食べてしまった。
楽しい! それに意外にも美味しい! お替わりを求めると、結月さんは再び素麺を長いまま進呈してくれる。何度か繰り返していると、
「そんなに食べさせて大丈夫か」
と、お父さんが心配そうに言う。
「平気よ。大した量じゃないし、そばで見ているから長いままでも心配ないわ」
遊んで食べて満足したぼくは眠たくなって、そのままその場で丸まった。思えば結月さんの遊びには、とことん疲れるまで集中してしまいがちな力があった。
2
「一週間、だらけるわよー」
結月さんは自室のベッドに大の字になっていた。
久しぶりに一緒に寝ようと、結月さんのおなかの上に乗ると、ぼくの頭や背中をくりくりした後、前足を持ってぼくのおなかを覗き込んだ。
「ジニアの種、健在ね」
それから急に起き上がると、スケッチブックを広げた。
紙と鉛筆の擦れる音と結月さんの手の動きに、またしてもぼくはそわそわして、その字の如く手掻を出し続けた。
「真っ青だと思っていたけど、ジンの左目ってよく見るとうっすら赤みがかって見える時があるのね」
そう言って、色鉛筆の赤を取り出した。
どうやら結月さんはぼくを描いているらしかった。
「はい、完成」
そこにはサファイヤとルビーのような目を持つ、白い肌の少女が描かれていた。
夕方、突然の雷雨になり、あっという間に庭の景色が激しい雨に煙って見えなくなった。ぼくは大きな雷鳴が怖くて、ソファーの下に潜って様子を伺っていた。
「咲月は大丈夫かしら」
結月さんが心配する。
「傘は持ってるだろ」
お父さんが答える。
ガタッ。突然二階のベランダで物音がして、サッシを開ける音がする。やがて、霧人君が隣の茶とらのコンブを重たそうに抱いて降りて来た。
「うちのベランダで避難してたから保護した」
「でかいわ。こうして見ると、ジンの三倍はあるわね」
霧人君は、ぼくのお気に入りのタオルで、むっくり太ったコンブのからだを丁寧に拭いてやっている。言われようのないむしゃくしゃ感がぼくの扁桃体を刺激して、ぼくは一気に不機嫌になった。
「隣に置いてくるよ」
太っちょコンブを抱いて、霧人君は玄関を出た。
雨足はピーク時よりはやや収まっていた。
入れ違いに、外で車のドアの閉まる音がして、咲月さんが帰宅した。
「ただいま。あら結月、帰ってたのね、おかえり」
「おかえり、咲月。ただいま。そこでキリに会わなかった?」
「ううん、会わなかった」
咲月さんがスイーツのお土産をテーブルに置いた時、パタンと玄関のドアの音がして、霧人君が何も言わずにずんずんと階段を上り自室に入って行った。
「キリー、咲月の美味しそうなお土産があるわよ」
結月さんが叫んだけれど、霧人君は部屋から出てこなかった。
「変な奴」
結月さんの入れた濃い紅茶でスイーツを食しながら、霧人君抜きの久しぶりの柊家団欒タイムだった。
「デート?」
「違うわよ。実習の時にアドバイスくれた先生が、相談に乗ってくれただけ。一年後の採用試験頑張れって励まされたわ」
「何だ、それだけか。双子の勘、当たってると思ったんだけどな……わたしは興味津々にさせてくれる彼と知り合ったから、てっきり双子の咲月もそうなのかと思ってた」
「うふふ、残念でした」
「結月、彼氏が出来たのか」
思いがけず、お父さんが会話に入ってきた。
「彼氏というか、すっごい面白い人。農学部でバイオの研究してるんだけど、わたしのアートに関わりそうな事を考えている人なのよ」
「興味深いね」
「でしょ?」
雷は遥か山の向こうに遠ざかり、すっかり雨は上がって月が出ていた。
霧人君は、あれから電気も点けずにベッドに転がっていたようだ。部屋の中に、さっきぼくが感じたむしゃくしゃと同類のような、目に見えない浮遊物が充満していて、傍に寄り添いたいような寄らない方がいいような、複雑な気持ちになった。
ベッドの端っこに丸くなってはみたけれど、霧人君の不機嫌はいつまで続くかわからないし、傍に居たいけれど、やっぱり結月さんが滞在する一週間は、以前のように平和に結月さんと眠ろうと決めた。
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