15 / 50
第二章
咲月のお節介
しおりを挟む1
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか……あ」
「カットしに来ちゃいました」
環先生が、霧人君の勤めるサロンに訪れたらしい。
*
驚いたよ。
環先生、おれにカットしてもらえると思って来た、なんて言うから焦ったよ。新米アシスタントの分際で指名されるなんてあり得ないだろ。まだ客の髪、切った事ないんだから。
「柊君、知り合い?」
なんて、店長に訊かれちゃってさ。
環先生、この店初めてだったから、カットはスタイリストの大先輩が担当したんだけど、おれは冷や冷やして、必要以上に回りに気を遣っちゃったよ。
でも環先生、店を気に入ってくれたらしくて、「また来ます」って笑顔でスタッフ達に挨拶しててさ、ほっとしたよ。
おれの勤め先、ばらしたの咲月なんだろうな……参るよな。
*
霧人君はこの日の出来事を、咲月さんに特に話す事はしなかった。
いつか屋根に登った窓から、春満月が少しずつ西に移動するのを愛でてから、ぼくは思い切り本家本元の猫伸びポーズと大欠伸をして、霧人君のベッドの端に丸まった。
咲月さんは週に何回か、山のリゾート地の湖畔にある結婚式場で、ピアノやオルガン演奏のアルバイトを続けている。
音楽の教員になれば、経済的にお父さんに迷惑をかけなくても済むと考えたのだが、
「採用試験はまた受ければいい。大勢の子供より、今は朔空の傍にいる方が大事なのではないのか。教員は時間通りに帰れないぞ、月乃の受け売りだがね」
お父さんの忠告に感謝のひと泣きをした後、咲月さんは今まで通りピアノのアルバイトを続ける事にしたのだ。
「ジン、わたしってまんまる幸せね……」
「ぼくだってまんまる幸せだよ」
2
最近、霧人君が新しい姿見というものを設置した。
興味津々で近づいて行くと、その中にもうひと部屋あるみたいで、白猫ジンの真似っ子がこちらを見ている。朔空君も不思議そうに鏡面に手を触れる。ぼく達は姿見の中の偽ジンと偽サクラを探して、姿見の裏に回ったり擦ったり叩いたり呼んだりして、しばらく不可思議な世界に入り込んだ。
ふたりで姿見の左右に立ち上がり、その表と裏を同時に見て、偽物の正体を追い詰めようとしたが、敵の姿は表にしかない。
「サクとジン、動きまでシンクロしてるわ。結月に見せたい」
咲月さんが、笑いを堪えながら動画を撮っている。
「幼きシンメトリーだ」
夕食後、ソファーで寛いでいるお父さんが、さらっと詩人の数学者みたいな事を言った。
朔空君が眠りに就いた頃、玄関の音がして霧人君が帰宅した。
ぼくはいつでも真っ先に駆けつけて、霧人君に抱き上げてもらう。相変わらずの石鹸くささの中に、最近はほんの少しアンモニアが混じっている。
「おかえり、キリ」
咲月さんは夕食を温め直す。
「キリ、次の休日、サクのお迎えを頼まれてくれるかしら」
「……いいけど」
「助かるわ。急に夕方の演奏の交替頼まれて。ちょうどキリのお店が定休日の日だからと思って甘えちゃいました。ありがとう、キリ」
咲月さんは霧人君に両手を合わせてから、携帯電話のアンテナをビッと出し、了解の電話を同僚にかけていた。
遅めの夕食前に、霧人君はぼくを連れて、咲月さんの部屋で健やかに眠っている朔空君にお休みのキスをするのが、帰宅後の日課になっていた。
「うふふ、本当にキリはサクの事を愛してくれているのね。もちろん、ジンもお父さんもよ」
霧人君は咲月さんに聴こえないように、
「口に出すなよ、いちいちうるせえ」
と、もごもご言いながら、ガシガシ夕飯を食べた。そして、
「朔空の迎えに魂胆は無いよな?」
ほんの少し猜疑色の目をした。
3
園はお迎えの父兄でごちゃごちゃして、子供達の甲高い声が園内に響いている。
受験のためのカットモデルになってもらった数名の先生に会う度に、霧人君は挨拶をして大変そうだ。
一歳児クラスは、扉に「さくらんぼ」と書かれていて、中ではそれぞれの園児が自由に動き回り、お迎えを待っている。幼すぎるせいか、教室内は騒がしくはなかった。
ぼくは霧人君の持つバスケットの隙間から、部屋の隅で先生の膝の上に座って、絵本を読んでもらっている朔空君を見つけ、「ニャア」とひと声鳴いた。
「シーッ」と促す霧人君に気づいて、
「サクラ君、今日はお兄ちゃんのお迎えだよ」
絵本を閉じると、朔空君を連れて一緒にこちらにやって来たのが環先生だった。
環先生は、霧人君に連絡ノートや着替えを渡しながら、
「先日は、お店に突然行ってしまってごめんなさい。てっきり、サクラ君のお兄さんに切ってもらえるのかと、はりきって行ってしまったのです」
「あ、すいません」
「いつ行ったら切ってもらえるのですか?」
「新米中の新米なので、早くても一年、二年先です」
「えええ、そんな……私、前に切ってもらった髪がすごく気に入って、また切って欲しいのです」
「はあ、早く上達するように頑張ります」
「あ、ごめんなさい……サクラ君、また明日ね」
気を取り直すように環先生がそう言うと、朔空君が環先生にしがみついて離れない。
「どうしたんだ、朔空」
「いえ、いつもの事なんです。サクラ君、帰る時は私の首にぎゅっと巻きついてからじゃないと剥がれないんです」
「え? 朔空、環先生から剥がれないんですか」
霧人君が突然吹き出した。
「訊いたか、ジン。朔空のやつ、環先生が好きなんだな」
「ニャア」
「あら、猫ちゃん」
「あ、すいません。連れて来ちゃまずいですよね」
「いえ、専用のバスケットに入ってますから大丈夫です。私も猫ちゃん大好きです」
「『ジン』という白猫です」
「見たいです」
「機会があったら」
「……また髪切って欲しいです」
「……機会があったら」
なんだ、この会話は。ぼくはバスケットの中でじりじりした。
問題の朔空君が環先生から剥がれたところで、ようやく園を後にして、霧人君の運転する車で、夕方の砂浜に寄り道をした。
朔空君とふたりで、ぼすぼすと変な歩き方を楽しんでいる間に、遠くの空が赤くなって来た。
「ジンが赤い化け猫になる前に帰るぞ」
50
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる