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第二章
咲月のお節介
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庭に設えたブルーのビニールプールに、咲月さんが長いホースで水を溜めている。プールの底に描かれた色とりどりのおどけた魚達がゆらゆらと泳ぎ始め、徐々に湛えられて行く水面は、夏の太陽できらきらと輝いている。
朔空君とぼくは、プールの縁に手をかけて、そのきらきらを掴もうと冷たい水に手が触れて、びっくりして引っ込めたりしていた。
「もう少しお水が温まるまで待ってね」
「はーい」
赤いつなぎの水着と麦わら帽子の朔空君が、両手を上げて答える。
「いいお返事ね、サク」
「はーい」
「ニャア」
「ジンもいいお返事」
蝉が鳴いて、咲月さんが見守る中、朔空君は心ゆくまで水浴びを楽しむ。ぼくは、水のきらきらは捕獲したかったけれど、朔空君がバシャバシャする水が激しく撥ねてくるので、時々百日草の陰に避難したりした。
「ジン、おいで。お水、怖くないわよ」
咲月さんはぼくを呼んで、両前足を手にとって立たせると、言い聞かせるように優しく言った。
「ジン、オヘソ」
いきなり朔空君が、ぼくのおなかを指差した。
「うふふ、そうよ、サク。ジンのおへそは百日草の種なのよ」
咲月さんが、いつもピアノを弾きながら朔空君に歌い聴かせている「百日草の奇跡」を口ずさむ。プールに浸かりながら、朔空君もバシャバシャと水面を打って、辿々と一緒に歌う。童謡みたいな咲月さんのオリジナル曲、ぼくもすっかり覚えてしまった。
長閑な夏の午後、撥ねてくる水にぷるぷるしながら、青空の生クリームみたいに美味しそうな大きな雲を見上げた。
霧人君が帰宅した時、ちょうど朔空君が「おやすみ」をする所だった。
「朔空、まだ起きてたか。お土産あるぞ」
ダボッとした黒パンツのポケットから、チョコボールの箱を取り出した。
「やだキリ、だめよ」
「違うよ、ほらっ」
霧人君が箱から無理矢理掴み出したのは、艶々の黒いオスのカブトムシだった。霧人君の指の間で六本の足がギシギシ激しく動く。
咲月さんは、「キャッ」と短く叫び、ぼくは興奮して、背伸びして爪を立てた。
「いててて、カブトムシの力がすごいんだ。指に足のぎざぎざが食い込む……って、ジンも爪立てるな、痛いしパンツが破れちゃうよ」
大騒ぎである。
思った以上に強いカブトムシは、霧人君の指から脱出すると、ぼとっと落ちて飛んだ。
そしてそれは、ぼくの狙い撃ちより早く、朔空君の黄色いパジャマの胸にびたっと止まったのである。
朔空君の大きな目が、至近距離真下の大きなカブトムシをじっと見る。みんなの動きも止まり、視線は朔空君に集まった。その瞬間、朔空君は火が点いたように泣き出した。
お父さんが虫かごを持って来て騒ぎは収まったが、みんなぐったりしてしまった。
「……喜ぶと思ったのにな」
「びっくりしたわよ」
咲月さんは涙目だし、朔空君が咲月さんにしがみついたまま泣き疲れて眠ってしまった。ぼくは興奮冷めやらで、虫かごの中のカブトムシから、しばらく目が離せなかったけれども。
「お父さん、よく虫かごあったわね」
「霧人の子供の時のだよ。夏休みの宿題で昆虫採集したからな」
「そうだったわね。そういえば、キリは大好きなあのチョコボール、未だに食べていたのね、うふふ」
「うるせえ」
「週末の花火大会、キリも行かれるかしら」
「帰り、間に合わなかったら合流するよ」
霧人君は、携帯電話をこつこつと叩いた。
5
生意気に、藍にろうけつの魚柄の甚兵衛を着せられた朔空君。
二歳も過ぎると力も強くなり、逃げようとするぼくの自慢の長い尻尾を掴んで離さない。朔空君じゃなければ爪を立て噛みつく所だが、ここはぐぐっと我慢をする。
「ジン、ハナビ、イッショ」
咲月さんがくすくす笑いながら、
「ジンが唸りながら堪えてるわ。サク、ジンを離しなさい」
尻尾が解放されると、ぼくはすかさずソファーの下に避難した。
「ジンはお父さんとお留守番なのよ。おうちの中から花火見るのよね、ジン」
黒髪を頭のてっぺんでまとめ、黒地に大輪の向日葵の浴衣、萌黄色の兵児帯を締めた咲月さんが、梔子色の下駄をつっかけると、朔空君の手を引いて、からころと素敵な音を立てながら、砂浜海岸の花火大会に出かけて行った。
花火が始まってしばらくは、二階の窓から綺麗な夜空を見ていたけれど、やっぱりおなかに響く音が少し怖くて、ソファーで読書を貪っているお父さんにくっついて丸くなった。
静かでゆったりした時間だった。
「もうちょっと、もうちょっと」
と、歌いながら、朔空君を抱いた咲月さんは、からころからころ少し急ぎ足になっていた。
花火の音ばかりで、海岸まで出てしまわないと、建物に遮られて全体が見えない。
近くなるにつれて人混みは激しくて、霧人君と合流出来るのか不安になってきた時、ふっと手を握られた。
「見つけた!」
「ああ、キリ、良かった」
「このごちゃごちゃの中じゃ、通話も聴きづらい。見つけられて良かったよ」
霧人君は、咲月さんから朔空君を抱き受けると、
「いい場所思いついたんだ。このまま海岸に降りずに、少し歩くよ」
そう言って、咲月さんの手を握り直し、人混みの流れから外れて歩き出した時、偶然なのだろう、環先生とばったり会った。
三人が同時に「あ」と言ったそうだ。
*
要するにさ、あの人混み、まして花火が始まってる中で、立ち話という選択肢は無いわけ。
しかも環先生はおひとり様。おれ達と行動するのが自然だよな、そりゃ。
何はともあれ、目的地に向かった。海岸沿いのバイパスに入る道を外れた細い坂道。そこから花火がよく見えるんだ。
ふと、環先生の視線に気づいて、咲月の手を握っていた手を急いで離した。
とりあえず、挨拶とか無しにして花火を楽しんだ。適度に風があったから、空がずっとクリアですごい綺麗だったよ。朔空なんか手を叩いて喜ぶんだけど、後から遅れて来る音が怖くて、その度におれにしがみついてたよ。
花火が終わって、環先生が「こんばんは、サクラ君」て言ったら、認識した途端、「ミシュミタマキ」って言って、磁石みたいに先生に貼りついてるんだよ。なぜか環先生だけフルネームで呼ぶらしいんだ。笑っちゃうよな。
まあ、そんなのどうでもいいけどさ。
「ジンちゃんはお留守番なんですか?」なんて先生に訊かれて、
「バスケットの中では、本人これっぽっちも楽しくないです」
「猫ちゃんの気持ちがわかるんですね」
「いや、一般的にです」ってありきたりに返してたんだ。
そしたら咲月が、ジンがうちに来た経緯とか、おれが小学六年頃から家族の髪を切っていたとか、余計な事を道すがら話すんだ。おれじゃなくて朔空を話題にすればいいじゃないか。
朔空は環先生に貼りついたまま眠っていたよ。
「あ、すみません、先生。重いでしょ」って朔空を剥がしながら、咲月が言ったんだ。
「キリ、環先生を送って行ってあげなさいよ」
「え?」
「大丈夫です、たくさん人歩いてますし」
「キリ」
「あ、送っていきます」
で、今帰って来たというわけ。
ジン、これって偶然なの?
咲月はやっぱり何か魂胆があるのかな。
*
「ぼくには……わからないよ、キリト」
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