Zinnia‘s Miracle 〜25年目の奇跡

弘生

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第三章

  宿題の絵日記

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       1


 近頃、朔空君が夢中になっているのは、聖さんがドイツから送ってくれた、木製の立体パズルである。
 ブルーのグラデーションで様々な多面体が組み合わさっている。回したり捻ったり、分解するのも恐ろしく苦労するが、組み立てるのは至難の業だ。
「聖ったら馬鹿なのかしら、こんな複雑怪奇なパズル送ってきて。サクの年令、考えてよね。お父さんだって解けないかもしれないじゃない」
 結月さんは、ぶつぶつ文句を言っていたが、朔空君は形を眺めているだけでも楽しそうだったし、夜はお父さんと一緒に、この幾何学の正解に挑んでいた。
 不揃いな多面体を覗き込む朔空君の瞳は真剣だ。朔空君の細い指先とお父さんの大きな手が、彷徨いながらブルーの断片をカシッとめる。
 正解の兆しが見えたと思った矢先、再び外さなくては組み立てられない。
「幾何学の罠だな」
 お父さんは、また詩人の数学者みたいな事を言い、子供に返ったように夢中になって、朔空君よりうれしそうに、その罠に誘われていた。

 毎日の宿題である絵日記に、連日ブルーの立体パズルを画面いっぱいに描いて先生を不思議がらせたが、しばしばそこに、パズルを触るお父さんと朔空君自身の他に、もうふたり描いていた。ソファーで寝そべっているぼくと結月さんではない。
 きっと朔空君にも見えていたのかもしれない。
「サクが三歳の時だったものね。ふたりが突然星になったのは……ママが星になったのも、キリが三歳の時だった。キリは自分の姿をサクに重ね合わせてるわよね。気持ちがわかるだけに、今も傍にいてあげたいと思ってるはずよ、咲月に負けないくらい」
 結月さんは小さく溜め息を吐いて、朔空君が毎日持ち帰って来る絵日記を再び見た。
「それにしてもパズルのフォルム、よく描けてるわ。写真撮って聖に送ってやろ」
 切り替えの早い結月さんである。



       2


 雲ひとつない空。百日草はなんの疑いもなく花を咲かせている。
 家の中からピアノの音が聴こえる。曲とも言えぬその途切れ途切れの音を聴きながら、ぼくは百日草の群れの中で目を瞑った。
 ピアノを弾く咲月さんの膝によじ登って、練習の邪魔をしたのは、どのくらい前だっただろうか。
 同じ顔を持っているのに、どこか正反対の咲月さんと結月さん。ふたりの邪魔をして遊んで、どれだけぼくは愛されて育ったのだろう。
「ジンちゃん、こんにちは」
 夢と記憶の狭間でうとうとしてた時、隣のおばさんが庭に入って来た。小さな仔猫を抱いている。
 知らんぷりをして寝直そうかと思ったが、時々素麺をもらう恩がある。仕方なく大欠伸をして猫伸びポーズを大袈裟にしてから、
「ニャン」と猫被りな返事をした。
「朔空君は一緒じゃないの? 朔空君も二年生だものね」
 などと話しかけながら、ぼくの目の前にしゃがみ込んだ。おばさんをこんなに間近で見るのは初めてだったが、なんだか容姿がコンブと似ている。
「新しくうちに来たの。『ノリ』っていうの」
 おばさんは、抱いていた仔猫をぼくに見せた。
 なるほど、背中に味のりみたいな黒い長方形の模様がある。
「時々お庭にお邪魔するかもしれないけど、ジンちゃんよろしくね」
 ぼくに子守を依頼するような発言をする。続けて、
「コンブは全く興味がないの。ノリが近づいてもまるで知らんぷり」
 塀の上でどてっと箱座りをしている、仏頂面のコンブを見上げた。おそらく仏頂面は生まれつきだろう。
 ぼくはおばさんに、ニャアニャア伝えた。
「コンブは干渉しないだけで、ちゃんとノリの事を見守ってますよ」
 おばさんに通じれば良いのだが……ねえコンブ。

 ピアノの音が止むと、程なく朔空君が庭に出てきた。
 小さなノリを見て、大きな目がきらきらしている。
 おばさんからノリを受け取ると、ぼくの鼻にくっつけた。小さくて柔らかくていい匂い。ぼんぼりを思い出した。きっと朔空君も同じだ。
 朔空君は、家から久しぶりに釣竿蝶々を持ち出した。小さなノリは、まだ飛びつく事は出来ない。ぼくは手本を見せるように何度もジャンプしているうちに、すっかり本気になっていた。もちろんコンブはどてっとしたまま動かなかったけれど。

 ノリの首には傷痕があった。
 結月さんがおばさんから訊いた話だと、ある日、珍しく何かを咥えたコンブが、窓をドタっと飛び越えていきなり部屋に入って来たそうだ。
 咥えたものをそっと離すと、驚いているおばさんに向かって、「ンガア」と何かを訴えたという。
 それは瀕死の状態の小さな仔猫で、首から出血していた。ドリトル先生の処置で一命を取り留めたが、感染症を起こしてしばらく生死を彷徨ったらしい。
 こうしてノリが元気に遊べるのは、命の恩者コンブのおかげなのだという事がよくわかった。
 ぼくは、コンブの勇断とノリの生命力に全身で拍手を送るとともに、遥か昔、襲いかかって来た大きな猫の影と「逃げなさい」と言ったお母さんの声が、瞬きのように過った。
 おそらく似たような恐怖を経験したのかと思うと、ぼくはノリが愛おしくなった。それから、相変わらずぼってり動かないコンブへの見方も随分変わった。
 朔空君の絵日記には、時々ノリも登場するようになった。


 朔空君は、今日もメロディーになっていないピアノを弾いている。
 咲月さんのピアノはお父さんの計らいで、一年に一度調律をしているので、美しい音程を保っている。
 ぼくは朔空君の膝を介さずに、ピアノの鍵盤に飛び乗った。
「ジン、じゃま」
 と、ぼくを押しやりながら、朔空君は相当真面目な顔つきで、意味のわからない言葉の断片と曲にならない鍵盤の音を奏でるのだった。
「ひゃくはえがお、ひゃくのねのかい、ひゃくないたの…………」
 意味がまるでわからないけれど、これって……ぼくはあちこちの記憶の扉を開けてみる事にした。
 朔空君の絵日記には、白鍵と黒鍵がはみ出るほどに描かれ、ありんこみたいに小さなぼくが、黒鍵の上に乗っていた。
「これも聖に送っとこ」
 結月さんは、携帯で写真を撮った。
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